昏君†無双
一九〇年 一月
その日、冀州より各地へと文が発せられた。
吹けば飛ぶような紙切れ一枚であったが、しかしそれは燻っていた戦乱の火を燃え上がらせ、時代そのものを吹き飛ばしてしまうような颶風であった。
董卓、天を欺き地を晦まし、国を乱し人を脅かす。
我、決死の祈りを受け、今まさに大義の下に立ち、勇士に告ぐ。
義を貫き、孝を復し、礼を正して忠を示すべし。
血判と共に記されたる名は袁本初、劉公山、劉正礼、劉景升、劉伯安。最大勢力の袁家、そして皇族もが名を連ねるそれは、正しく反董卓を呼びかける檄文であった――。
――陳留――
姓を曹、名を操、字を孟徳。治世の能臣とも乱世の梟雄とも評された少女は、表情には出さないながらも苦々しい思いで袁紹が特別に直々に認めた檄文を読んでいた。
「ここであの時の事を持ち出してくるとはね……。大物ぶるくせにしみったれた事をしてくれるわ」
檄文と反董卓連合結成の動き。これ事態は曹操にとって驚く事ではない。曹操の父、曹嵩は銭で贖ったとはいえ三公の一角、太尉の座にあった人物であり、その義理の父はかつて宦官の最高位、大長秋として長く辣腕を振るい、多くの人材を発掘した傑物である。そしてそれら父祖の人脈を通じた情報網によって、曹操は袁家、袁家と縁深い大店の動きから連合の結成を予見していたのである。
曹操を苛立たせたのは、彼女がつい忘れてしまっていた一つの事実。つまりは洛陽にて大乱が起こったあの日、曹操が袁紹の行動を結果として阻害した事を持ち出されたからであった。
我らの兵は天子をお救いせんがために動いていた。にも拘らずそれを阻害された事で、天子は逆賊張譲らによってかどわかされ、果ては董卓の手中に囚われてしまい、そこから今日の悪夢が始まった。
特に脈絡もなく、それを追及するでもなく。ぽつりと文中に忍ばされたその一文の意味するところが脅迫である事は明白である。
難癖にも程がある、と思えども、弱みになってしまったのだから後の祭りというものである。
「しかし華琳さま、この連合は華琳さまの名を挙げる絶好の機会です! 袁紹ずれのちょっかいなどお気になさる事はありません!」
「そういうわけにも行かないのだよ、姉者」
「そうよ。脳筋にはわからないかもしれないけど……袁紹なんかに、袁紹なんかにぃ……」
曹操がどう受け取っていようとも、袁紹は曹操が連合に参加した場合、自らに屈服して参加した、と解釈するだろう。
対して、曹操はそれに対して強く反発しにくい。これは二者間での細やかな有利不利の問題に留められているからこの程度で済んでいるのであって、仮に袁紹が諸侯に向けて事実に細やかな脚色を加えて発表するだけで、曹操は董卓に与する者、少なくとも連合を乱す者として袋叩きにされるだろう事は想像に難くない。
かといって、無視して参加しないというのは論外である。
腹心たる夏侯惇が言うように、この連合が名声を上げる絶好の機会である事、有力諸侯の力量を把握するいい機会である事などが積極的な理由である。消極的な理由としては、参加しなければ袁紹によってこの件が喧伝されて名声を失い、かつ諸侯に包囲された状況で袋叩きにされてしまう可能性が高い、という事が挙げられるだろう。
「連合には当初の予定通りに参加するわ。確かに麗羽は何か言ってくるでしょうけれど……でもそれは、いつもの事よね?」
「それは……」
「言われてみれば……」
「確かに……」
「でしょう? ならば今更どうこうする必要もないわ。この件に関しては適当にあしらっておけば済む話よ。まあ当然、雌雄を決する時にはきっちりとお礼をさせてもらうけれど」
諸侯への影響力という点では、曹操は袁紹に未だ遠く及ばない。故にこの飛躍の機会を逃すわけには行かなかった。
やがて相見えるであろう袁家という巨人。そして一代にして人臣の頂点へと上り詰めてみせた董卓、それに従うだろう漢王朝の軍歴そのものとも言える皇甫嵩、辺境の勇猛な騎馬隊を率いる張遼、そして、自分の誘いをけってみせた傑物、子受。何れも脇に甘いところはあれど、今の自分が真っ向からぶつかって勝てる相手ではない。それらに比すれば、この程度の嫌がらせ等小石にも劣る。
蹴散らし、踏み越え。やがては天へと駆け昇ってくれよう。
「我が覇道は、ここよりいよいよ始まるのだと心得よ。万事、万端に備えよ!」
『御意のままに!』
乱世の梟雄、曹操――参陣。
――冀州・平原――
「絶対に許せないのだ!」
平原の相、劉備、字を元徳。中山靖王の末を自称し、劉家の一員として、また一個人として乱れた世を憂う、義と慈愛の人である。そんな彼女を主と仰ぎ集った人々もまた義の心に満ちた人々であり、袁紹よりの檄文の内容を知った張飛、字を益徳の第一声は、政庁の議場に居並んだ面々の内心を代弁するものであった。
「我らと付き合いのある商人たちも、口を濁しはしますが概ね苦境を訴えています。少なくとも、この平原の世論は董卓討つべしでほぼ固まっていますね」
手元の書面を見ながら、濡れ羽色の髪も美しい女丈夫が報告する。
姓名を関羽、字を雲長。先ほどの張飛と並んで劉備と義姉妹の契りを結んでおり、平原劉家の要とも言える人物である。
そんな彼女が姉と慕い、また主と仰ぐ劉備玄徳は、沈痛な面持ちで何度も何度も檄文を読み直していた。
「うん……。折角宦官の人たちがいなくなったのに……こんなのってないよ……」
「そうなのだ! こんなのは義にもと……も……とにかく間違ってるのだ!」
「桃香さま、私も鈴々と同じ思いです。それに、我らの掲げた義の旗を信じて集った兵たちの事を考えれば……」
平原劉家軍は、その発端を義勇軍に持つ。というより、義勇軍がそのまま肥大化したといのが実態である。
棟梁の劉備は中山靖王の末を称するも、家自体は既に藁を編んで日銭を稼ぐ暮らしをしていたほどに衰えており、当然家臣も私兵も持っておらず、義姉妹の二人も言わずもがな。立志の時からは関羽と張飛の腕っ節だけで切り抜け、多少名が売れてからは劉備の類稀なるカリスマ性で義勇兵を少しずつ集め、ここまで成長したのである。
義の下に集い、戦い、勝ってきた義勇兵。そんな彼らがこの檄文を知ればどう思うかは明白であった。
「あ、そうだね。朱里ちゃん、雛里ちゃん、兵の皆はどう思ってるのかな?」
「はい。やっぱり皆さん義憤に燃えていて、桃香さまの下知を今か今かと待っている状態ですね」
「本当は洛陽の状況の裏を取りたいんですけど、下手に時間を置くと統率が効かなくなる恐れがあります」
多くの者が少なからず興奮の色を見せているのに対し、劉備の問いに答えた二人には、緊張以上の変化は見られない。この二人こそ、伏龍鳳雛と称される智の傑物。一人を諸葛亮、字を孔明といい。今一人を鳳統、字を士元という。
武官の充実ぶりに比して文官の少ない平原劉家の内政軍政を、事実上二人で賄っているまさに屋台骨であった。
「裏を取る? それは、この檄文に嘘があるという事か?」
「嘘というか……董相国の栄達を妬んだ人たちが画策した陰謀の可能性があるんです」
「ふむ……。確かに袁紹なら如何にもやりそうな事だな。確かに、それに踊らされたのでは義の名折れ。だが朱里、それに雛里よ。仮にそれで裏を取り、陰謀だと発覚したとして……連合に参加しない選択肢はあり得るのか? 義を唱えようとも我らは弱小勢力。参加せねば先がないのではないのか?」
「それは……」
「そ、そうでしゅけど……」
慎重論を唱える伏龍鳳雛に対して、青髪の女性が懸念を示す。姓名を趙雲、字を子龍という彼女は、劉備に仕えるまでに様々な勢力に客将として仕えてきた異色の経歴を持つ。基本的に劉備の理想に心酔した者達で構成されている家臣団の中において、最も劉備の色に染まっていない、言い換えれば最も客観視のできる現実主義者である。
趙雲自身も、数多くの諸侯の下を客将として渡り歩き、その果てに劉備の理想に惹かれて主君と定めたのだから、それを汚すような事態は回避したい。だが、彼女には現実的に参加する以外の道を見出す事は出来なかった。故に知恵袋である二人に問い掛けたのである。
しかしながら、若い――というよりも幼い――伏龍鳳雛にも、趙雲と同じ回答にしか至れなかった。
状況は参加以外を許さない。しかし参加して、もし掲げる義に瑕疵が付く様な事になれば、劉家軍は拠り所を失いかねないのではないか?
きちんと考えが回るからこそ、動けない。
そんな状況を打破したのは、呆れるほどに単純で愚直な意思だった。
「大丈夫だよ、二人とも」
「はわ?」
「あわ?」
その声は、ふわりと包み込むように場に響いた。為人をそのまま音にしたような声色で、視線を一身に集めた劉備は語る。
「まず、私は連合に参加しようと思うの。だって、現場にいないと、結局何にもできないじゃない? 董卓さんが悪い事をしてるなら、洛陽の人たちを助けに行かなきゃいけないし。そうでないなら、袁紹さんのちょっかいのせいで迷惑を被る人たちを助けなきゃいけないでしょ? あんまり難しく考えないで、ただ正しい事をやりに行くんだって思えばいいんじゃないかな? 私は朱里ちゃんや雛里ちゃんみたいに頭が良くないから、難しい事はわからないし。でも、二人には今みたいにもっと難しいところ前で見るでしょ? だから、二人にはただ走るしかできない私の目になって欲しいの。それで、愛紗ちゃんに鈴々ちゃん、星ちゃんたちには、その道を切り開く力になって欲しいの」
それは、聞きようによっては無責任な言葉にも取れただろう。自分はただ旗を振り笛を吹き、露払いは全て人に任せると言い放ったようなものなのだから。
しかし、これを口にしたのは劉備である。薄れども身に流れる劉の血がそう叫ぶのか、誰よりも愚直に純粋に、ひたすらに国と民の安寧を願い、一歩ずつ進んできた、劉備なのである。
時に無力に泣き、時に無知に拉がれ。けれども決して屈せずに立ち上がり理想を目指す。ここに集った誰もが、その姿を目にし、心打たれたのである。
関羽も、張飛も、趙雲も。諸葛亮も鳳統も。何れも勇に優れ知に秀で、しかしそれを振るうに相応しい理想を持たずにいた。そんな傑物たちがついにこれと定めたのが、劉備であった。
一歩間違えば奈落へと落ちかねない状況下にあって、主がなお変わらずに羽ばたこうとしているのだ。どうして躊躇う理由があろうか。
「よくぞ申して下さいました、桃香さま。我ら一同、桃香さまの理想の為ならば、犬馬の労を厭いませぬ!」
「愛紗の言う通りなのだ! 邪魔する奴は、鈴々が全部ぶっ飛ばしてやるのだ!」
「そ、そうでしゅ! 桃香さまは、詰め込んだだけの知識に惑っていた私たちの導になってくれました!」
「ですから、今度は我らの知で桃香さまの憂いを晴らして見せましゅ!」
「おやおや、これでは私が一人だけ悪者の様ではないか。これは我が槍働きにて取り返さねばなりませんな!」
「……! ありがとう、皆!」
相手が欠ければ今の自分はないと、そう信じられる比翼の関係。上も下も意を一つに、より良きを目指して突き進む。
己の理想の一端を正に垣間見た劉備は、眼から零れる滴もそのままに、思いのままに腰元の剣を抜き放つ。技もなく力強さもなく、しかし剣先は真っ直ぐに天を指していた。
「皆、私と一緒に行こう!」
答える声は、どこまでも天高く響くかのようであった。
立志の少女、劉備――参陣。
――荊州・長沙――
漢帝国の版図の中でも南方に位置する荊州といえども、春には遥か遠いこの時期は、それなりの冷え込みを見せる。殊に遮る物のない船の甲板上ともなれば、その寒さは骨身に染み入るほどである。
しかし、長江の水面を駆ける一隻の船の舳先に仁王立つ姿からは寒さに凍えるような様子は欠片も見えず、むしろうちから迸るような気炎が熱気となって伝わるようであった。
その熱気を間近で感じながら、周瑜――字を公瑾――は断金の友に声を掛けた。
「随分と猛っているな、雪蓮」
「あら、らしくもない愚問ね冥琳」
肩越しの視線と共に寄越された言葉は、内で燃え盛る戦意が溢れ出たかのように苛烈である。しかし周瑜はそれを事もなげに切って捨てる。
「わかった上で言っているのだ。言っておくが、こうしてわざわざ船を出しているのも、誰かさんが勝手に洛陽に飛んで行かないようにするためだぞ? もっとも、寒中水泳と洒落込んでまで一人で洛陽まで行く、というなら止めはしないが」
「ちょっと、なによそれ」
頬を膨らませて不平を述べる姿を横目に、周瑜は一つ、溜め息を吐く。今の様子なら、江水さえ干上がらせてしまいそうだと思いながら。
孫策、字を伯符。江東の虎と呼ばれた孫堅――字を文台――の長女であり、横死した母の跡を継いだ当代の孫家頭領である。
激情の人にして根っからの戦士であり、鉄血を好みながらも野蛮ならず。母、孫堅の死亡による混乱で勢力が衰退し、今は袁術の配下に甘んじているが、虎視眈々と反逆の機会を狙っており、亡き母に負けず虎のような人物である。
そんな人物が、この機会を逃すはずもなく。そも、孫策は洛陽にて乱が起こったと知ったその時から「絶対に大戦が起きる」と断じており、異論を唱える配下を制し、静かに牙を研ぎ続けてこの時を待っていたのであった。
「待ちに待った機会なのよ? ここで猛らないでどこで猛るっていうのよ。それに、精強さを示し名声を広げれば、あの憎たらしい小猿からの独立の機会も巡ってくるって言ったのは冥琳でしょ?」
「それはまあ、そうだが。これほどに大きな規模の戦となれば付け入る隙も出てくるだろうからな。その辺り、いち早く準備を命じた雪蓮の勘は流石だったな」
「でしょー? ま、褒めたってやる気しか出ないけどね」
命の遣り取りを好むうちに研ぎ澄まされたか、孫策は時に説明し難い勘でもって事態を打開する事がある。その勘が囁き、周瑜の知性もここが好機と告げている。間違いなく、好機である。
雌伏の時は終わり、雄飛の時を迎える。己が智謀を存分に振るい、主にしての友の夢を叶える戦いの時である。それだけに、一瞬の油断も許されない。
(――それは誰にだってわかるだろう。それこそ袁術……いや、張勲にも、だ。我々に叛意がある事ぐらいわかっているだろうに、特に動きはない……)
周瑜の懸念はそれだった。現時点で孫家が傘下に入っている、主家にして目の上の巨大な瘤――汝南袁家。兵力経済力影響力、全てが孫家の上を行く巨人。そして、その巨人を動かすのは幼い欲望のままに振る舞う袁術なのだから性質が悪い。
しかし、その袁術が連合への参加といい、まともな動きしかしていない。これほどの大事ともなれば重臣たちが脇を固めるからなのかもしれないが、周瑜はどうにも違和感を拭えずにいた。
周瑜がその疑念を伝えると、孫策はきょとんとした顔をして暫し固まった後、大口を開けて笑い始めた。
「……そんなにおかしいかね」
「そりゃもう! おかしいったらないわよ。周公瑾ともあろうものが、そのつもりなんかありっこない袁術なんかに翻弄されちゃってるんだもの」
「っ……。言ってくれるな……」
孫策の声にはからかいの色しかなかったが、言われた周瑜は恥辱で美貌に朱を滲ませる。勿論、孫策の言葉にではなく、袁術如きに翻弄された自分への憤りによって、である。
「日頃雪蓮の猪突を戒めておきながら、なんたる様……」
「ふふー、これにこりたら私の独断専行にあんまりとやかく言わない事!」
「……いや、それとこれとは話が別だ」
「えー。めーりんのけちー」
ぶぅぶぅと膨れる孫策を素っ気ない表情を取り戻してあしらう周瑜であったが、内心は孫策に感謝していた。。大戦を前にして、知らず平常心を失っていた自分に気付けたのも上手い具合に気が抜けたのも、この断金の友のお陰である。
(まあもっとも、それを表に出しはしないが)
伝えればまた調子にのるだろうし、言わなくてもきっと察しているだろう。現にほら、孫策はちらりとこちらを見て悪戯に笑って見せているではないか。
「ん、これで準備は万端も同然ね」
「やれやれ……そう簡単ではないぞ? だがまあ、やってみせよう」
「そう来なくっちゃ!」
孫策が先走り、後ろから周瑜が呆れながらもついていく。いつもどおりで、最強の光景である。
「さーって、いよいよ飛ぶわよー!」
雌伏する虎、孫策――参陣。
「――とまあ、事ここに至ってしまえば参加しないって事はほぼ有り得ないんですね。つまり、大店と情報を抑えてしまえば、殆どの諸侯の情報とそこから導かれる判断を操作できてしまうんですよ。これ茂才には出ませんけど、私の担当する採用試験には出るかもしれませんから覚えておいて下さいね?」
そこは、荊州は南陽。袁術が本拠を置く城の深奥であった。
日も未だ高く、多くの官吏が行き交っている時分だというのに、その一角は静まり返り人の気配も乏しい。そんな薄暗い廊下を、張勲は童女のようにステップを踏みながら歩いていた。
一見して、張勲以外には人影も答える声もなく、ただ張勲が一人遊びをしているようにも見える。
「まあ、私以外には
もしそこに心得のある者がいたならば、気配を消して潜んでいた何者かが去った事に気付けただろう。
張勲がほぼ一手に担う南陽袁家の暗部。家名でもなく資金力でもなく、これこそが迷走しがちな南陽袁家の生命線であり、真の力である。
「周瑜さん辺りは何かしら気付いてそうですけど……まあ何ができるでもなし。そもそも見据えている場所が違いますからねー。まあせいぜい皆さん踊って下さいね♪」
楽しげに独り言つその眼差しは、しかしどこまでも冷めていた。