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- 人妖小噺 其之八 -

 こつこつと窓を突付く音と共にその時間はやって来る。
 時刻は夕刻学校帰り、鞄を置いたと同時の事で、大方どこぞの電線から様子を窺い見ていたのだろう。息つく暇もありゃしないなと頭を掻いた遥季の顔は、しかし満面の笑みだった。
 からりからからと窓を開ければそこには烏が一羽、窓枠に器用に止まって窓ガラスをこつこつ突付いて呼んでいた。
「おまたせ。こんにちは、御先」
 微笑みながら挨拶すれば、刹那に烏は人型を取り居住まい正して咳払い。
「こほん。こんにちは、はる」
 親しき仲にも礼儀あり、御先は出会って一月が経ちすっかり打ち解けた遥季に対しても丁寧に挨拶をする。模範的な言動を目指しているのだろうその姿勢、何の為かと考えてみれば、
「うあ〜んっ! はる〜っ、こっちも開けてよ〜っ」
 窓の下、玄関の辺りから響いてきた兎角元気な声の主の姉貴分だからなのだろう。
「……あの子は……。もう……」
 頭を押さえて御先、呆れたような声を出す。妹分の奔放な振る舞いに頭を痛めているのだろうが、割には顔には笑みがある。
「でも葛芽が大人しかったら、それはそれで心配じゃない?」
「……うん。あの子は元気が毛皮被ってるみたいなものだから。結局私達は二人で一つみたいなものだから、きっとこれで丁度いいのよ」
 柔らな笑みを湛えて御先、遥季に向かって頷いて。
「あ〜け〜て〜よ〜!」
 大声と共に響いてきた戸を叩くどしんどしんという音に、顔をひくりと引き攣らせた。
「……ちょっと、度が過ぎるかもね……」
「……ええ。ちょっと、ね」
 視線を合わせて二人苦笑い、ドアが壊れぬうちにと駆け足で部屋を飛び出した。

「ひさかたの〜光のどけき春の日に〜」
「はいっ。……しづ心なく花の散るらむ」
「………」
「世の中よ〜道こそなけれ、思ひ入る〜」
「はいっ! ……山の奥にも鹿ぞ鳴くなる」
「………」
「滝の音は〜絶えて久しくなりぬれど〜」
「はっ! ……名こそ流れてなほ聞こえけれ」
「………」
「あれ? はるどうしたの?」
「……まだ一枚も取れてないけど?」
 はた、とそれまではたはたと揺らしていた尻尾を止めて、不思議そうに葛の芽が遥季の顔を覗き込む。その手には黒光りする年季の入った木の板が五枚十枚。御先も手にするこれまた古びた和綴じの冊子から面を上げて怪訝な声色、さもおかしげに問うて来る。
「そんな事言われてもね……」
 そうなれば居た堪れないのは遥季である。溜息一つ大きく吐いて、恨めしそうに目の前は床に広がる小倉百人一首の札を見つめた。
「和歌なんて今まで碌に学んだ事ないから……」
 遊ぼうと言ったは確かに自分だが、彼女等が好きだからとやりたがったは百人一首。歌会やら投扇と言われた時は、圧し掛かる情けなさに頭をたれて其は何ぞやと教えを乞うた。百人一首は聞き知っていてならばと思って挑んだはいいが。
「え〜っ、和歌の形を作って創めたのも百人一首を考え出したのも人間なのに、勿体ないじゃない」
 と言われる始末。
「う、面目ないです……」
「……葛芽、あんまり言ったら駄目。私達だって最初はぜんぜん覚えられなかったでしょ。はるも、今から始めて覚えればいいだけの事。百人一首に拘らなくても、和歌っていいものだし」
 そう言って、目を閉じ思案するかのように。そして音吐朗々諳んじる。
「雨隠 欝悒み 出で見れば 春日の山は 色付きにけり」
「あ、それ家持のでしょ。じゃあ私は……えっと、雨晴れて 清く照りたる この月夜 また更にして 雲なたなびき」
 二人瞳を閉じ優雅に歌い上げ、秋雨明けの夕暮れを見やる。視線を追えば、西には夕映えも合わせて燃えるかのように色付き映える山並みが。東の窓から空仰ぎ見れば、稜線を越えてじわりじわりと夕月夜。
「春日山じゃあないけれど、そんなに悪くない選択だと思うのだけど」
「そ〜だね、秋雨が上がった時期だからぴったりじゃないかな?」
 互いに評価し合いうんうんと頷いて満足そうに二人は微笑んだ。その傍らで、歌の意は汲み取れねども母なる自然を詠い謳った二人の声姿に魅入って声を失っていた遥季は、深々と息を吐く。
「はぁ……なんだか感動しちゃった。なんだろう、ただの言葉なのに何だか色々伝わってきた気がしたよ」
 心底感心したような声にも二人は当然の如く頷いた。
「うん、だって言葉には力があるんだもん。言霊って、昔から言うじゃない」
「絵でも文章でも伝わる物はあるけれど、息によって生まれる言葉、声にはもっと沢山の物が宿るの。息は生気[イキ]なんだって、だから力が宿るんだって教わったから」
「へぇ……。すごいね、二人とも」
 溢れた感心と憧憬漏れ出たか溜息一つ、遥季はしみじみ呟いた。飾り気の無い褒め言葉に二人はぽうっと頬染める。
「そ……んな、すごいのは私達に教えてくれた先生の方だものっ。わ、私達なんてまだまだ……」
「えへ〜、もっと褒めて〜」
 方やわたわたと視線を逸らし、こなたにこにこと擦り寄って。二者二様の照れ姿に思わずくすり、笑みを零すと御先はますます顔を赤らめてそっぽを向き、葛の芽は遥季の腹部にぐいぐいと顔を押し付け照れ隠し。その内見ている遥季の方も気恥ずかしくなり頭をぽりぽり、そして三人顔を見合わせて、示し合わせたかのように吹き出した。
「あははははっ。あ〜可笑しいっ」
「ふふっ、ほんとに」
「でも、なんかいいよね。こういうの」
 うんうんと三人互いに頷いて、またくすくすと笑い合う。心地よい声、心地よい空気。初めて得た、何物にも代え難き場所。
 そんな温かな――。


「……夢、か」
 眼前に広がる古びた板張りの天井見上げて溜息一つ。ついと視線を下ろしてみれば、右手は何かを探すかの如く寝床をはみ出て床を掻いていた。
「……夢の相は 苦しかりけり 驚きて 掻き探れども 手にも触れねば、か」
 ぼうとしたままの頭で口ずさみ、陰鬱とした溜息再び。大儀そうに身を起こし、夢とは似つかぬ寂しい部屋を恨めしそうに見回した。
 一人暮らしの男の部屋としては綺麗な部類に入るだろうが、それは偏に物の無さが故。一通りの台所用品とテレビの他は、後はひたすら本、本、本。大半が和歌の専門書、その他も民俗学や御伽草子などを纏めた学術書ばかり。記憶の彼方の歌を追い、残滓に縋ったその証左。蒐集した書物と知識のお蔭で今の大学に入れたものの、それは瑣末なおまけに過ぎず、かといって打ち捨てるには惜し過ぎて、手放せずに今もこうして時折ちくりちくりと胸疼かせる。
 そうか、と遥季はぼんやり思う。
 こんな、堪らなくなるような夢を見たのは。
「……霧沢さんに会ったから、か」
 泣きたくなるようなこの感情は喜びか悲しさか。どちらであったとしても、虚しい夢であったとしても。
彼女等に会えた事が嬉しかった、それだけは真実だった。
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(c)Ryuya Kose 2005