翠煙のハルケギニア
すいすいと、薄暗い森の中を進む影。
葉は青々と茂り、幹に耳を当てれば清らな水が流れる音が聞こえるだろう。
インガノックでは、既知世界では考えられない事だ。どんなに高性能な濾過機にかけても、排水に汚されつくした水では、植物はこんなに瑞々しく育ちはしない。繁茂し、行く手を遮る木々の枝一つ一つが貴く、葉の一枚一枚が好ましい。加えて言えば、追われるでも追うでもなく、ただ疾駆するという事の爽快感。
ああ、こんなに楽しいのはいつぶりだろう!
猫は走る。楽しげに枝から枝へ、枝から地へ、地から枝へ。捉えるもののない自由を謳歌するように。
例えここが「黒の森」と呼ばれる森であろうとも、排煙と廃液に侵されて黒ずんだ植物しか知らないクロエにとって、ここは紛れもない翠の森であった。
そうして走り続けて。クロエは知らず、境界線を越えていた。
「――!」
数秘機関で増強された
瞬時に収納式のクローム鋼製人造爪が展開され、頭部目掛けて飛来した矢を叩き落す。
「■■■■■!?」
「■■■■■■!?」
ぴくりと。再び耳が感じ取る。聞きなれない言語。動揺しているのか。どちらにせよ、大まかな方向と距離は把握出来た。
クロエの左目に――光が灯る。
淡い翠のパネル光。
(あれは……
都市インガノックにいた頃の、黒猫と並んで彼が尊敬していた荒事屋としての先輩、デビッド。その姿と、どこか似ている。
しかし、似ているといっても共通項は翼を持ち人型をしている、という点のみ。
(腕前も似ていたらご愁傷様、だけど。それにしても、いきなり射掛けるとは穏やかじゃない)
引き続き矢は飛んでくる。しかし既に脅威ではない。そもそも、この遮蔽物の多い森の中では、飛び道具は有効な武器足り得ない。なのに使ってくる、という事は。
「接近戦に弱い……なら!」
ぐぐ、と体勢を低くする。獲物に飛び掛る直前の猫の姿勢。狩りの体勢。人間大の、それも
―――――――――!
一歩で地を蹴り二歩目で木の幹を蹴り三歩目で枝を蹴り。一瞬で弓の射程を一気に抜いて懐へもぐりこみ、そして驚愕に目を見開く鳥禽もどきの顎を打ち抜く!
あっという間に四人。失神して倒れこむ。どうやら荒事に際しての腕前は、デビッドとは比べ物にならないらしい。それでもまだ、数がいる。
殺すつもりはないが、理由もわからずに攻撃されて面白いはずもなく。
「掛かってくるなら、まあご自由に。痛い目見てお寝んねしてもらうけどな」
人造爪を伸ばしてこれ見よがしに振りかざす。怯む気配が伝わってくるが、しかし戦意自体はまだ残っているらしい。
相手が敵意を持っていて、しかも言語が伝わらないと思われる以上、落としどころを見出す切欠が見当たらず、内心クロエは眉を顰める。
「■■■!」
「■■■、■■■■■■!」
クロエの事情を知る良しもなく、鳥禽もどきが何事かを呟いて。そして、クロエはそれを目にする。
――植物の蔦が。
――身じろぐように蠢いて。
動く。そう、四方の木々から伸びてきた蔦、蔦、蔦。それらはどうも、鳥禽もどきの意志のとおりに動くらしい。
これにはクロエも驚いた。
(これは……!? 現象数式? 見た事もない!)
驚いて、思考に空白が生まれるけれど。荒事屋としての身体は自然に動く。
確かな意思を持って追尾してくるのは厄介ではあるけれど。クロエは20フィートの距離から放たれた弾丸を回避出来る。その反射神経と運動能力を持ってすれば、押し寄せる蔦をかわす事は不可能ではない。
不可能ではないが――。
(半分包囲されてるな……。このままだとジリ貧か)
――ぎちりと。鋼が鳴る。
意識を切り替えると同時に、すう、と身体が冷めていく感覚。
けれどそれは錯覚だ。大脳の変異と現象数式の組み込みは、クロエから体温調節機能の殆どを奪っている。今のクロエの体温は、平熱より一度と少し、高い。
これは、鋼の温度。肉を斬り骨を断つ、冷たく無慈悲な鋼の温度。
「恨みはないし、辛みも大した事はないけど……死ぬ気も捕まる気もさらさらないんで、なッ」
再度の突撃。殺すつもりの今回は、前回のそれとはわけが違う。遮ろうと飛んでくる矢も蔦も、一切合財を鋼の爪で切り捨てて。
「ひッ!?」
目の前に迫った、恐怖で顔を歪めた鳥禽もどきの咽頭を切り裂く。その刹那。
「■■■ッ!!!」
――咄嗟に、爪を引っ込めて。顎を叩いて気絶させるにどうにかとどめ、すれ違い様に離脱する。
相変わらず何を言っているのかはわからないけれど、それでもそれが若い女の声で、必死さと懇願の色が色濃い事は聞き取れて。
見れば、少女が一人、鳥禽たちの前に立ちはだかるようにして立っていた。
「■■■■っ、■■■■■■■■!」
「■■■、■■■■■■!」
「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■!」
激しい言葉の応酬。どうやら少女が鳥禽もどきたちを諌めているらしい。斯く言う少女も鳥禽もどきたちと同類のようではあるけれど。状況の変化に警戒しつつ、クロエは経緯を見守る。
程なく、少女が説得したらしく。鳥禽もどきたちは不満の色を滲ませつつも、弓を収め、現象数式、らしきものも解除した。
(立場が上の人間なのか? 取り成してくれたのは、まあ有り難いけど)
爪と闘気を収め、しかし数式は起動したままで。推移を見守るクロエの前に、一歩。少女が踏み出した。
(度胸はある、んだろうけど。この場合は無謀って言うんじゃないかね)
後ろに控える鳥禽もどきに緊張が走ったのを見て、クロエは一歩下がり、軽く両手を挙げ、危害を加える意図がない事を示してみせる。ボディランゲージは、通じないわけではないらしい。
「■■■……■■■■■■。■■■■■■■■■■■■■……」
ぺこり。頭を下げながらという事は謝罪の言葉か。雰囲気からも滲むものがある。
「■■■■■■■。■■■■■■■■■■■。■■■……■■■、■■■■■■■■■■■、■■■■■■■■。■■■■、■■■■■■■■■――」
「あ、あ〜、いや。ちょっと待て、待ってくれ」
恐れと焦り、それと緊張。クロエの左目が、少女の状況を伝えてくる。荒事には向かない性格なのだろう、仲間を傷つけられ、それでも暴力の応酬になるのを止めようとした。
(インガノックじゃ、三日でご愁傷様、かな。………………いや、基準にするには特異すぎるか)
押しとめるようなジェスチャーで、少女の言葉を遮って。しばしクロエは考える。
「あ〜、と。多分、俺が一方的にそっちの言葉を理解出来てないってわけじゃ……なさそうだな」
怪訝な表情で眉を寄せていれば、言葉が通じていないのはよくわかる。
(どことなく……西亨の言語に似ている響きがあるような気もするけど。――まあ、差し当たっては)
「……クロエ。クロエ、だ」
その知らせを聞いたのは、事が起こってからすぐの事でした。
精霊たちが、私たちの領域に入り込んだ何者かの事を教えてくれて。仲間たちが、精霊に力を借りて魔法を使っているのにも、すぐ気付けました。
……私たち亜人は、人間に恐れられています。だから、敵と看做される事も多くて。今回も、ひょっとしたら私たちを討伐しにきた人がいるのかも知れない……。
そう思っていただけに、その侵入者が人間ではなく、亜人であった事は、大きな驚きでした。
大きな猫の耳、ふさふさとした黒い毛に包まれた四肢、そして尋常ではないその身体能力。人々が先住魔法と呼び恐れる私たちの力を、いとも簡単にかいくぐるその姿を、私は恐ろしいと思いました。
ですから、正直に言って。
「やめてッ!!!」
そう、制止の声を出せたのは、奇跡だったかもしれません。
そして、それに反応して、侵入者の方が、仲間の喉下まで迫っていた、その鋭い爪を止めてくれたのも。
その仲間は、顎を叩かれて昏倒してしまって。けれど、殺されてしまいはしなかった。そしてそれは、その人がその手を止めてくれたから。
だったら、きっと話し合いの余地はあるはず。
「みんなもっ、弓と魔法を収めて!」
「しかし、アイーシャ様!」
「我らの地に踏み込んできたのは奴の方です!」
私の言葉に、みんなが反論する。
確かに、私たちの領域をあの人が侵したのは事実。でも、ひょっとしたら、単に知らなかっただけかもしれない。なにより、あの人は私の言葉に応えて、手を止めてくれた。だったら、話し合いの余地はあるはず。
そんな事を説明して、みんなにどうにか納得してもらって。敵意は収めきれないけれど、害意はどうにか。その間、あの人はその爪を収めこちらの様子を伺っているように見えます。さっきまでの、ぴりぴりするような空気も、今は薄れています。
敵意がない、って言う事を、示してくれているのかもしれません。さっきのどたばたのうちに襲い掛かる事も出来たと思うのに、それをしなかった。……うん、やっぱり話せる人だと思います。
心の中で、決心して。私は、意を決して一歩を踏み出します。
「「「――ッ」」」
背後で、みんなに緊張が走ったのがわかる。それでも、面と向かって話さなきゃ、始まらないから。
――と。その人は、私に合わせて一歩下がり、そして軽く両手を挙げました。えっと……これは、敵意が、ない、って事、なのかな? だとしたら、うん。話してみる価値は充分。
滲む汗も震える身体も、せめてこの一時は忘れよう。
「えっと……ごめんなさい。みんながご迷惑をおかけして……」
ぺこり、と頭を下げる。
……いくら敵意がない、ようにみえても、あの爪を目の当たりにした後で、こうして首筋を晒すのは。とても怖い。今にも、どんな刃よりも鋭く見えた、あの爪が皮膚を破り肉を裂いて食い込んでくるのではないかと、恐れる私がいる。でも、この諍いを収めるためには、先に手を出してしまったこちらが頭を下げないといけない。縄張りとかの説明は、それから。
「私はアイーシャ。アイーシャっていいます。ええと……それで、みんなが攻撃したのには、わけがあるんです。この森の、この辺りは私たちの――」
「●、●〜、●●。●●●●●●、●●●●●」
……声。それは多分、私の言葉に応える声。けれど……全く意味が取れなかった。聞いた事もない言葉のように思えます。
「●〜、●。●●、●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●……●●●●●●」
……うん。やっぱり、聞いた事のない言葉。振り向いてみんなの顔をうかがっても、やっぱり首をかしげて眉を顰めるばかり。異国の言葉、なのかな?
向こうも、言葉が通じていない事には気付いているみたい。なにか悩むような顔をして、そして。
「……●●●。●●●、●」
また何事かを。今度は……自分を指差しながら? そのまま、彼……で、いいんのかな? 彼は自分を指差し何事かしゃべる、という事を繰り返します。
「……ひょっとして、あなたの名前?」
気付いたのは、数度それが繰り返されてから。そうとわかれば、聞き取るのはそう難しくはない。多分、彼は自分の名前を繰り返しているはずだから。
「●●●。●●●」
「ん〜……?」
「●●●。●ー●ーエ」
「ん……?」
「●●エ。●オエ。●ーローエ」
「……んーローエ?」
「お。●●●●●●●●。●ロエ。クロエ。ク、ロ、エ」
「……クロエ。クロエなのね? あなたの名前」
多分、これであってるはず。彼も……うん、納得したみたいだし。
……敵対するつもりなら、わざわざ名前を教えたりはしない。自己紹介は、コミュニケーションの第一歩、って事で、いいんだよね?
「じゃあ、私ももう一度。私はアイーシャ。ア、イー、シャ」
「………」
「アイーシャ。ア、イー、シャ。アイーシャよ」
「ん〜。……アイサ?」
先程とは逆のやり取り。……私の時よりも早く正しい発音になってるのは、どうしてだろ。
「アイサじゃないわよ。ア、イー、シャ。アイーシャ」
「……アイーサ。……●●、●●●。アイーシャ、●?」
「! そう、アイーシャ」
うう……もう言えちゃってるし。頭、いいのかな?
とにかく。こうして私たちは名前を交換して。ここから、私たち翼人と……ううん。ハルケギニアと、このぷせーる、という亜人のクロエさん。彼との交流が始まったのでした。