翠煙のハルケギニア
二つの月が輝く夜。
誰もいない森の中。
緑色の光が輝いて。
――ぼてり、と。そこから黒い塊が吐き出された。遅れてかちゃりと、
黒い毛皮を、幾分の赤で彩り。ぐてりと地に倒れ伏したままで。
しかしそれでも胸は上下に動いている。生きている。クロエは、まだ。
目覚めた時に何を目にするのかも知らず。今はただ。
――ああ。稜線の縁に、光が躍る……。
「う……」
柔らかな光に目を焼かれるのが不快なのか、呻き声が上がる。大きな三角形の二つの耳がぴくぴくと動き、無意識ながらに音を拾っている――と。
「――ッ!!?」
がばり。唐突に、猫の見た目どおりの挙動で瞬時に四つ這いに、体勢は低く。しかし不用意に動かずに。
警戒する猫そのものの体勢で、
寝入ってしまったのだ。痛む身体を感じながらクロエは驚愕の念を抱く。通り名を持たないとは言え、仮にも
警戒しつつ、クロエは自身の記憶を検める。
そう……エリー。あの太陽の少女を逃がすための仕事。その最中で、間抜けな追っ手が味方誤射を起こして、そして機関銃の気倉が暴発したのだ。この身体の痛みはそのせいで、失神も同じく。
けれど痛むという事は神経は生きているし、こうして一通りは身体も動く。何より現象数式は問題なく起動している。最悪の事態とは程遠い。
……気になるのは一点。気を失う間際に……何か、現象数式の光にも似た輝きを、視界の片隅に捉えたはずだったが……、ちょっと、待て。
半ば呆然としつつ、意識の全てを己の内から外界へと振り向ける。数式による解析だけではなく、五感の全てで感じ取る。
そして。
その鼻は、煤臭さなど微塵もない、朝霧に煙る咽るような草いきれを感じ。
その舌は、口蓋に流れ込む朝露の、排水の汚れなき、清浄な甘さを感じ。
その耳は、さらさらと草木を揺らし、傷で火照る肌を優しく冷ませる風を感じ。
その肌は、既知世界の何処でも有り得なかった、日差しの温もりを感じ。
その瞳は、稜線から滲む炎のような赤と、それを迎い入れようとする青を感じ。
「―――……嗚呼」
するりと零れ落ちた雫を、クロエは自覚していないだろう。
意識は既に肉体を離れたかのごとく、一心に空へ。
あの日見た、青と赤とはどこか違う。
それでも、嗚呼。一度見ただけでも。否、一度見ただけだからこそわかる。
あれこそが、あの日見て以来、焦がれ続けたもの。
いと高きところに在りて、うつくしきもの。
希望と、明日の象徴。
青みがかった灰色の瞳からとめどなく。気に留める事もなく、ただただ嗅覚で味覚で聴覚で触覚で視覚で、感じ取る。太陽を! 青空を!
一体どれだけの時間そうしていたのか。
クロエが正気に戻ったのは、太陽が中天に燃えるようになった頃。実に四半日ほども見入っていた事になる。
荒事屋としては文句なく失格の反応だ。しかし既知世界の住人としては当たり前の反応……だと思いたい。
だって、そうだろう。こんな美しいものに、魅せられないはずがない。
数式で自身の傷を治しながら、言い訳がましく。それでも視線は患部と空とを行き来して。
患部の治療は滞りなく終了した。裂傷と打撲が殆ど、何箇所かに亀裂骨折。失血も寝ていて代謝が落ちたからか危惧していたほど酷くはなく。治療のための置換に伴う筋肉及び血液、骨の消費は極少量で事足りた。
そして、また空を眺める。今度は周囲に気を払い、
本当は、他にすべき事がある。
ここが何処であるのか、追っ手はどうなったのか。
未知世界には青空が広がっているとは聞いていたけれど、少なくとも気を失う瞬間までいた都市は、未知世界と既知世界とを隔てる世界の水殻からは大分距離があったはず。いくら爆発があったとはいえ、世界の水殻を突き破って吹っ飛ぶはずはないし、誰かが運んでくれたとも考えにくい。むしろ拉致されたと考える方が。しかしそれにしてもメリットが見出せない。
(というか。この思考自体にメリットはない、な)
それなら、この美しい空を見ていた方が、余程。
慣れた者には気付けまい、この青空の美しさは。貴さは。尊さは。
そしてクロエは見続ける。
太陽が中天を過ぎ、地平の果てへ沈み、そして月が昇り星々が輝いても。なお。
(インガノックには太陽が二つある、と比喩的に言われていたけど……ここには月が二つ)
未知世界は月が二つ、などという話は聞いた事がない。西亨も同様だ。
(しかしまあ……。気にする事でもない、か)
ここが何処だとしても、既知世界にしがらみのないクロエは、帰らなければならない理由はない。
天涯孤独であるという事実は、インガノックではありふれたもの、不幸のうちにすら入らない。荒事屋として指南を受けた黒猫や、喧しく囀る双子の情報屋、アリサ・グレッグとその店の女たち。
そして。医師を目指していたあの輝かしい日々に、目指すべき先輩として憧れ。何もかもが変わったあの暗闇の日々に、諦念と嫉妬を向けた。あの
思い出深い人たちはいるけれど。猫に首輪は似合わない。
――この美しい空の下で。自由に生きて、そして死ねたなら。それはどんなにか……。
夜空を見上げ、溢れんばかりの星々に圧倒されながら、猫は思う。
もし……もしも、ここが見知らぬどこかで。元いた場所と別たれて、あの十年のように閉ざされたとしても。ここにはここの絶望があるのだとしても。
この空の下でなら。きっと大丈夫だと。