- k a r e s a n s u i -

翠煙のハルケギニア

 ――黒く、蓋をされた世界。

 空は排煙に閉ざされ、人々は空の色を忘れてしまった。

 海も廃液に満たされ、人々は海の色を忘れてしまった。

 【蒸気王】チャールズ・バベッジら西亨の碩学たちがもたらした機関エンジン革命は、この世界――ある者たちは既知世界と呼び、ある者たちはカダス地方と呼び、ごく限られた者たちはセレナリアと呼ぶ――にかつてないほどの文明の躍進と生活の便利さを。そして黒く閉ざされた空をもたらした。
 排煙が肺を冒す業病、蒸気病に身体を蝕まれ、また近付く北央帝国と王侯連合との戦争の気配に怯えながらも、人々は今日も逞しく、何かを求めて生きている。

 例えば、日々の糧であるとか。
 例えば、苦界から逃れるためのドラッグアムネロールであるとか。

 ――心に刻まれた、青空と太陽であるとか。

 

 北央帝国南端の、とある都市の路地裏で息を潜めるクロエもその一人であるが。今の彼に問いかければ、さし当たっては突破のチャンス、と答えるだろう。

 クロエ。異形都市インガノックで十年を生き延びた男。解放の日に見た青空と太陽を胸に、身体一つで旅に出た男。
 猫虎プセールに変異した身体と、そこに埋め込まれた数々の数秘機関クラック・エンジン、そしてもう一つ。

「……ん。身体走査終了、異常なし」

 左目が伝える自身の身体情報に目を通し、異常がない事を確認する。クロエが持つ物は、その身体に由来するものだけ。なればこそ、それに気を遣うのは当然だ。
 走査を終えて、左目のパネル光が収束していく。
 主に医療用、僅かに近接戦闘用のカスタムが施された現象数式クラック、これが彼の切り札。

 本格的に医学を学んだ期間は一年あるかどうか。幸運にも現象数式をその変異した脳に修める事が出来てからは、殆どが独学の経験則だ。だがそれ故に、自身の身体についてなら、実地で十二分に学べている。

 コンディションが良好である事は、荒事屋ランナーであったクロエにとって重要な事。いい仕事ビズのためにはいいコンディション、敬愛する【黒猫】に遠く及ばない力しか持っていない自分は、尚更そういった基本を大切にしなくては。

 さて、そのコンディションが良好であるならば、とクロエは思考を巡らせる。
 今回の仕事は護衛。まだ幼さの残る顔かたちに、そぐわぬほどの強い意志を秘めた少女。エリー、といったか。はるばる西亨から逃れてきたらしいが、さて彼女は無事にこの地を離れる飛行船に乗れただろうか。
 もちろん仕事である以上、きっちりとこなしているつもりではあるけれど、機関銃エンジン・ガンまで持ち出す奴らが追っ手とは、あの少女は一体何をやらかしたのか。

 けれども、あの少女。エリーは悪い子ではない。そうクロエは直感している。

 

「――よき青空を」

 

 追っ手を察知した、あの慌しい別れ際。あの日見た、太陽のような笑みと共に告げられた、その言葉。
 あのうつくしいものを、あの笑顔と共に口に出来る彼女を。信じずに何を信じればいいのか、そう思う。

 青空を求めるクロエの旅は、未だ終わりも見えず道半ば。こんなところで立ち止まってはいられない。
 埋込爪が、その黒い毛皮に覆われた両腕の先から僅かに覗く。

(大丈夫、大した仕事じゃあない。追っ手はあの忌々しい上層兵たちでもなんでもない。切り抜けられるに決まってる)

 ――さあ、仕事を始めよう。

 

 そして真実。クロエは大事なく追っ手を制圧していく。
 神経伝達速度を飛躍的に向上させる数秘機関と、猫虎の身体能力は常人を遥かに凌ぐ。彼の【黒猫】に速さでは劣れども、膂力で勝っている上に、医療用の現象数式を修めているからサバイバリティにも富んでいる。

 高機動による撹乱、然る後に懐に飛び込んで、埋込爪を延ばして一閃。機関銃の弾丸も銃口も、クロエの影すら捉える事が出来ず。何の問題も失敗もなく、仕事は進む。

 

 対応を間違えたのは追っ手の方であり。
 運が悪かったのはクロエの方だった。

 文字通り人外の圧倒的な力にパニックに陥った追っ手の一人が、闇雲に機関銃を乱射したのが間違い。
 ばら撒かれた圧縮空気の弾丸が、今まさに鋼の爪の一閃を受けた男の機関銃、その気倉に当たったのが不運。

 一発で人体を破壊可能な圧縮空気の弾丸、それが装弾されていた十数発分まとめて爆発する!

「!」

 強化された五感がそれを捉え、しかしクロエが出来た事は、咄嗟に追っ手の身体を盾にして、そして自身の頭をガードする事だけだった。現象数式の収められた大脳、ここさえ無事ならば重傷を負ったとしても対処出来るからだ。

 

 ――衝撃!!!

 全身を衝撃に打ち抜かれ、うめき声さえ押し込められて、猫は意識を吹き飛ばされる――その、間際。

 

 

 ――ああ。視界の片隅に、緑色の鏡が………………。

 

 

 ―――――――――ホワイトアウト。

 

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(c)Ryuya Kose 2005