- k a r e s a n s u i -

- FourSeasons / SpringDays Symmetry -

「は……あっ!」
 詰めていた息を一気に吐き出す。限界まで息継ぎを減らし、渾身の力で水を掻き、これ以上無いと言うくらいに、全力で泳いだ。そして弾き出されたタイムは。
「……くそぉおおおおっ!」
 水面を強く叩く。
 足りない。圧倒的に足りない。タイムが足りない。力も足りない。動機も足りない。目的も足りない。
 そして何より――。


 勢いをつけて水から上がる。膝も腰も、若干の不自由こそあれ、もうあまり痛まない。医者も、現状が最高の状況だと、言った。
 あの日から、二度目の春。
 傷は痕となった。
 けれども、……それとも、だからこそ?
 
 ――胸が、……痛い。

 プールサイドに腰掛け足先を水に浸し、ただ茫と時を過ごす。
 馴染みの、小さな寂れた屋内プールに、一人。
 まだ冷える早春。泳ぎに来る人は、たとえ屋内プールであろうとも、いない。音は、殆どない。


 ――きぃ、きぃ、きぃ


 だから、その音はよく響いて聞こえた。
 とてもよく、響いた。

 運動後のそれとは違う動悸に戸惑いを覚え、その戸惑いにあり得ないと呆れを抱く。
 振り返る必要はない。
 何故なら当然の事だから。気の所為なのが必然だから。
 
 それでも、近付いてくる車輪の軋む音。聞き慣れた音なのに、ひどく耳慣れない。呼び水となって甦る。
 盛夏の青空の下、飛行機雲、きっと、逃げた自分。
 ああ、と思う。
 今までの方がおかしかった。
 あいつなら、いつか此処に来る事こそが、……自然。



「久し振り……だね」
「……昼に、別れたばかりだろ」
「うん、そうだね。でも、久し振りなの」
「………」
 ……あの夏を過ぎて少し経った頃。ちょうど、怪我をして一年経った日から、同棲を始めていた。前からそういう話はあった。それが、俺が介護の真似事をするという形で実現しただけの事。
 結果、二人でいる時間は格段に増えた。顔を合わせない日などない。それでいてなお久し振りと言う。
 ……意味する所は無論気付いている。
「なんで、来た」
「長く離れていた人に、会うために」
「……来るなと言ったぞ、俺は」
「……そういう意味じゃないの。その通りだけど、違うの」
「……何が言いたい?」
 問うても、俺と視線を合わせずに、水面を見詰めたまま。
「……タイム、やっぱり、戻らないんだね」
「――んだと?」
「病院で聞いたよ。……現状が最良だ、って。だから、ね? もう、無茶しないで……」


「……お前が……」
 
 ――脳が、灼熱するのが、わかった。

「お前が、……言うなっ!」
「………」
 反響した声は揺らいで響いて。吸い込まれていくようで、気持ちが悪かった。
「お前が……っ、泳げなくなった、お前が言うなっ! 誰なんだよ!? 泳ぎたかったのに泳げなくなって、辛いのは誰なんだよ!」
 答える声はなく。もう止める事も出来ず。
「俺達の始まりで! 大切な絆で! 奪われて、俺には残されて! 手放せるわけないだろ!!!」

 
 ……義務とか、責任とか。負う必要はないかもしれないそういうもの達を負っているのか。
 結び付けていた水泳というモノ。それが失われて、離れてしまうのが恐ろしかったのか。
 きっとだから、しがみついている。
 そしてそんな無様を。そんな水泳を。
 見せ付けたく、なかった。


「……見てて、愉快なわけないだろ? 見られて愉快なわけがないんだ。だから、来ないでくれ……頼む」
 ……静寂が再び。
 
「……まだ、……変わらないんだね。まだ、気付けないんだね」
 その言葉は気に掛かった。けれど黙して立ち上がる。
 いつかを繰り返す。

「……ありがとう」
「……なに?」
 思わず立ち止まった。そんな事を言われる筋合いはないから。我が儘を利かせてしまっているのは俺だから。
「でも、もういいの。嬉しいけど、悲しかったから」
「お前、何を、――」
 振り返って、――硬直した。
 
「――ねえ、私達って、何なのかな?」

 車椅子を降り、上半身の力だけで飛び込み台によじ登った姿。表情はよく見えない。

「きっと、私とあなたは食い違ってる。食い違ってしまった。大切な物を見誤ってる」

 立つ事は叶わない。腰掛けたまま両手を頭の上で組み、飛び込みの姿勢を取る。その姿勢は、昔と変わらず綺麗だった。
 思わず、見惚れた。

「ねえ、……還ろうよ」

 懇願するように囁いて。
 崩れ落ちるように飛び込んだ。
「―――、こっ……んの馬鹿!」
 全力で踏み込み、駆け出す。水面にあいつの長い髪が広がっている。バタ足が利かないため、着衣の重さに抵抗出来ず、顔は水中に没している。
「――!」
 地を蹴る。
 ふと、かつてない最高の飛び込みが出来たな、と、思った。
 
 感慨は水に流されて、すぐさま水中に漂う馬鹿野郎の身体を抱きかかえる。
「………」
「―――」
 久し振りに、視線が合った。
 あいつは、微笑んでいた。


 ……ああ。
 忘れていた。




「ほら、タオル」
「ん……ありがと」
 顔見知りの管理人に頼んで借りたタオルを渡す。何かを察したのか、管理人はプールを貸切にしてくれた。
「………」
 水着姿のまま、肩にタオルを羽織ってプールサイドに腰掛ける。隣には、下着の上にタオルを羽織ったあいつ。

 懐かしさが込み上げた。

「……どうしてあんな事を?」
 自分でも驚くほどに柔らかい声が出た。激情は流れ去り、凪いだ水面のよう。
 多分、それはもう手の中に在る。ただ、掴めていないだけ。
「ん……、助けてもらうため」
「……馬鹿だな」
「馬鹿だね」
 あの日の、やり直しのつもりだったんだろう。
 今度は助けてくれた、だからおあいこ。
 そんな声が聞こえてきそう。


「……間違って、いたのかな……」
「……何が正しいかは……わからないけど、きっと、私達にとっては、ね」

 泳ぐ事が出来なくなったのは、とても悲しい事で。二人の始まりが途切れてしまうのは、とても寂しい事で。
 でも、一番悲しい事は。


「……悪かった。寂しい思いをさせて」
「ごめんね……。苦しい思いをさせて」


 俺達が、食い違って逆に傷つけあってしまった事。


 
 結び付けてくれた物が失われて、ほどけてしまうのが、きっと怖かった。
 ほどけてしまうのが嫌で、ほどきかけてしまっていた。
  
 取り戻したい大切な物を、見失っていた。
 
 見誤っていたけれど、懐かしく物悲しい水の中で、また見つけ出す事が出来た。


「……また、一緒になろう?」
「ああ……。二人じゃない、一緒だ」
 
 かつての日の二人と同じ形ではなくても、俺達は、いつかの日の俺達に還る。
 ただただ「一緒」であればよかった、不器用な俺達に。
 今度は泳ぐ事でではなく、二人の想いで、繋がりあって。

 
 ――一緒に。
 
 
 
 季節は、春。
 凍てついていた水面は、今はゆるんで融けて。
 廻って、また新しい季節が。




 静かなプールサイド。カルキの臭い。車椅子とバスタオル。一緒に。
 
 ――そんな春の日。
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(c)Ryuya Kose 2005