- k a r e s a n s u i -

昏君†無双

 寃州は酸棗さんそう
 皇族に連なり、弟の劉遙と合わせて二龍と称される劉岱が治めるこの地は、反董卓連合の集結地として選ばれていた。黄河の水運によって運ばれる軍兵と物資は莫大で、千ではきかず、万でも届かない。その数は十万に及び、十五万を超えた今なお増え続けている。集う諸侯も意気軒昂、まさに世を覆すに相応しい勢いであると思われた。



「叔父上が捕らわれたですって!?」

 冀州袁家、袁紹の本陣である。〆て八万強の軍勢が強固な陣を張る様は、あたかも巨大な城塞が出現したようであり、冀州袁家の力が経済のみならず軍事にも行き渡っている事が見て取れる。
 その陣の中央、豪奢な天幕の中で腹心の顔良、文醜を侍らせて酒杯を傾けていた袁紹は、田豊が告げた報告に頓狂な声をあげた。

「は。陛下……否、劉弁殿下より全権を委任された董卓めは、己に反旗を翻した諸侯の一族の内、洛陽に住まう者を殿下の宸襟を騒がせたとして罪に問い、御一族の周陽さま、次陽さまをはじめ、名だたる名士が捕縛の憂き目にあわれましてございます」
「な、なんて野蛮な! 伝統ある袁家に対するこの仕打ち、有り得ませんわ!」

 袁紹にしてみれば、四代に渡り三公を輩出し、中華にその名を轟かす袁家は、尊崇の念を以て遇されるのが当然である。その常識に照らせば、袁家の総領たちを捕縛するなど狂気の沙汰以外の何物でもない。
 尤も、権威の大前提である皇帝に公然と反旗を翻している時点で何をか言わんやであるが……少なくとも袁紹は、己の行為は義挙であると信じているし、名家たる袁家がなすべき事であると確信していた。

「田豊さん、あなたその情報を得ながらすごすごと逃げ帰ってきたんですの!? 叔父上たちの救出はできないんですの!?」
「勿論救出を試みましたが……周陽さまらが囚われております屋敷はさすがに警備が厳しく、また救出すべき人数も多いので、露見は避けられませぬ。現状では軟禁状態で危害は加えられておりませぬが、刺激すればあの辺境の蛮人の事、どんな災禍が巻き起こるか……。加えて未確認ではありますが、かの呂奉先も警備に付いているとか。残念ながら、とても無事の救出は望めませぬ」
「呂布さんなんてあの時董卓たちに負けちゃったじゃないですか! 怯える必要なんてありませんわ!」
「いやいやいや。姫、それはないってば」
「麗羽さまはご覧になっていないかもしれませんけど、董卓の兵は精強です。それを一人で押し止めるのは、少なくとも私と文ちゃんじゃあ荷が勝ちますよ?」
「むむむ……!」

 呂奉先の武勇は知れ渡って久しい。洛陽大乱においても十常侍側の切り札として董卓方の兵を押しとめ、皇帝と陳留王の洛陽脱出を一時とは言え成功させるという活躍を見せている。仕えていた丁原が死んだ事により董卓に降伏したとはいえ、その武名に些かの陰りもなかった。

「奉先どのと董卓めの関係は不明ですが、少なくとも最低限の協力関係にある事は確実。目的が周陽さまたちの救出である以上、博打は冒せませぬ。まずは目の前の敵を討ち、状況の変化を引き出すべきかと」
「ぐぬぬ……! わかりましたわ! そろそろ陣を張るだけなのにも飽きてきた頃ですし、集まった皆さんを率いて絢爛豪華に進軍しますわよ! そのためにも田豊さん、見窄らしかった方々への施しは済ませてありますの?」
「は。武具兵糧、既に希望する諸侯への提供完了しております」
「当然ですわね。わたくしと轡を並べる以上、それなりの格好をしていてもらいませんと」
「苦しい財政をおして集った義勇の士らに惜しみなく物資を分け与える大度、ご立派にございます。諸侯も称賛と感謝を惜しまぬ事でありましょうな」
「よろしくてよ、よろしくってよ! これぞ正に将の将たる者の振る舞いですわ! おーっほっほっほっほ!」

 出陣に際して袁紹が動員した兵力は八万強であるが、物資に関しては田豊の進言を容れて過剰とも言える量を確保していた。派手好きな袁紹といえども易々とは供出できない量であったが、これには田豊の入れ知恵があった。

 此度の連合軍は義挙であり、諸侯が一堂に会する稀有な機会である。伝聞でしか知らぬ相手を目にする事になり、当然そこから為人や器量実力を推し量ろうとするだろう。
 必然、侮られないためにもそれなり以上の戦力が求められる事になるが、兵力・装備・糧秣を万全に揃えられる諸侯は一握りである。黄巾の乱の影響を引きずる大半の諸侯は、領地に無理を強いるか見栄えだけの張子の虎で虚勢を張らざるを得なくなる。
 それらの諸侯に対して袁紹は、義心に打たれたとして物資を提供し、或いは大規模な軍勢に不慣れな者には助言を与えるなど各種の援助を行った。戦力の拡充を図ると同時に恩を売り、連合の盟主を決める際の賛同者を増やそうという魂胆である。勿論思惑を察する者もいただろうが、戦力が向上したのは事実であるし、兵を飢えさせずに済むと喜ぶ者も多く、概ね好意的に受け止められていた。

 盟主の座を争う事になるだろう皇族がいる以上、 「将の将たる大度を示し、以て盟主に足るを示すべし」
 という田豊の言葉を袁紹が受け入れた結果であった。
 勿論、その言葉の奥に袁紹が何を感じたのか、田豊が何を含ませたのかは、本人以外にはわからない事であったが。

 ともあれ。下準備が終わった以上、袁紹が痺れを切らした今が頃合いである。

「ならば。最後の大物を出迎えた上で大軍議を開き、その場において名実備えた盟主とは誰であるかを問うべきですな」
「最後の大物? 中原の有名どころはもう来てなかったっけ?」
「うん……幽州さまは領民の慰撫と異民族への対処で後方支援に専念なさるそうだし……となると……あっ」
「顔良は気付いた様じゃな。……西涼の古豪、馬寿成が息女、馬孟起どの。間もなく着陣との事じゃ」





「これはまた、壮観ですね〜」
「ん〜? そうなのかや? 父上方がおらんのじゃ」
「も〜っ、袁家だけが全てだと思っちゃってるなんて流石はお嬢さま! いよっ近視眼!」
「そ、そうかや? にょほ、にょほほ、もっと褒めてたも〜」

 全く以て無知で無垢で愛しい主である事。張勲はしみじみと思った。

 西涼より馬超参陣との報を受けて間もなくの事である。役者が揃ったとして、袁紹並びに皇族方の声掛けで大軍議が始まる事となった。
 折悪く、その報が届いた時には袁術は昼寝の最中であり、支度が整い軍議の場に向かった時には、既に有名どころは軍議が行われる大天幕に集合済みであった。天幕の周囲に立てられた旗をざっと見るだけでも、皇族にして二龍と称される劉岱劉遙の兄弟に、同じく皇族であるが汝南袁家とは微妙な関係の劉表。主君袁術の異母姉である袁紹に、その北方で勢力を広げる公孫賛、寃州は済北国の相で儒者として名高い鮑信など錚々たる顔ぶれである。
 しかし張勲に言わせれば、連合を組んだとはいえ――むしろ参加したからこそ、それぞれに野心を抱えている。世間が言うような高潔な軍団ではない、言ってしまえば餓狼の群れの縮図がここなのだ。
 それを目の当たりにした上での袁術の第一声には、緊張感も理解もあったものではない。俗世の些事も、乱世の難事も、知る事なく生きてきたが故の無頓着であった。

 智なく勇なく才なく。名門という事で門戸を叩いた者も多くいたが、真に才ある者、見る目がある者はそれを悟ると時をおかずして去って行った。
 後に残ったのは見る目を持たぬ凡夫と金目当ての愚者と、そして――。

「でも大丈夫ですよお嬢さま。この張勲が、お嬢さまをこの中の誰よりも、この大地の何者よりも、輝かせて見せますからっ」
「うむ! 七乃がいれば怖いものは何もないのじゃ!」
「ああっ! その言葉があればできない事などありませんっ」

 自然と浮かんだ満面の笑みと感激の言葉。そこに虚飾も誇張も一切ありはしない。全知全能全てを捧げた愛する主君の為ならば、天下の全てを笑顔で焼き払う事ができる。それだけの忠誠を超えた何かと才覚とを、張勲という怪物は持ち合わせていた。

「ではお嬢さま行きましょう。何にせよ、まずは軍議が終わってからです。おねむになっても我慢して下さいね?」
「わ、わかっておるのじゃ!」
「はい、では参りましょう。 終わりましたら蜂蜜水を用意してますからね」
「なんじゃと!? こうしてはおれぬ! 七乃、早く行ってさっさと済ませてしまうのじゃ!」

 慌てて天幕へと駆け出すその姿、そのなんと無垢で愛らしい事か。これがあれば、薄汚い愚か者どもが蔓延る軍議にも耐えられよう、そう張勲は確信する。

(ここからです、お嬢さま。あなたを悲しませる全てを焼き払い、あなたの為の楽土を築く、この張勲の一世一代の大計が。いよいよこの軍議から始まります……!)

 内心の滾りを一切面に出さず、いざと天幕をめくって張勲は軍議の場に踏み入れた。



「遅れて済まない! 馬寿成が息女、馬孟起だ!」
「同じく馬伯瞻はくせんだよ」

 袁術たちに遅れる事一刻。待ち人は緊張した空気を吹き払う西涼の風を伴ってやってきたのだろうか。
 張勲は西涼を知識でしか知らないが、その風土を想起させる声であった。身体に心に大地の気風が染みついている証であろうし、また馬超自身の気性も現れているのだろう。張りがありよく響く声は、優れた将に必須の要素である。
 異民族との戦いで研ぎ澄まされた騎馬隊と、それを指揮する勇将。成る程、これは素晴らしい戦力になるだろう。袁紹をはじめ、諸侯のうちにも頼もしげに表情を綻ばせる物が多い。

「うむ、大義」
「すぐに軍議を始める。速やかに席に着かれよ」

 対照的と言えたのが、二龍の素っ気ない振る舞いであった。

 西方の馬家が味方に付いた事は大きな意味を持つ上に、対異民族最前線を支える猛者でもある。皇族たる二龍にとってもその意味は大きく、馬家に対して一言あってもいい場面であったはず。劉表も困ったようにぎこちない笑みを浮かべているし、張勲にしてもどんな言葉で迎えるのかそれなりに気にしていたのだが、肩透かしもいいところである。
 馬超にしても同じであったのだろう。一瞬面食らった様子であったが、横に控えていた馬岱が制したのだろうかすぐに平静を装い用意された席に着く。尤も、どっかと乱暴に座り込んだ辺りに内心が透けて見える。
 姉の手綱を従妹が握っているのだろう、馬姉妹の力関係と二龍の反応を脳裏の手帳に記しつつ、張勲はそっと諸侯の反応を窺った。
 当然ながら大半は愛想笑いを浮かべるばかり。やんごとなき血筋であり、大義名分でもある皇族に反感を示すのが愚かであるというのは当然の事。そも、こんな偶発的な出来事よりも、すぐ後の軍議こそ大事である。意識すべきは当然そちらであり――だからこそ張勲はその当たり前を崩す者に注意すべきであると判じていた。
 果たして、張勲の目に留まったのは、下らないとばかりに僅かな冷笑を浮かべた曹孟徳。童女がするように不満げに頬を膨らませる……あれは、そう、確か……劉元徳。公孫伯圭も眉間に皺を寄せているのが見て取れるし、背後の身動ぎの気配と微かに聞こえた肌を打つ音は、大方孫策が周瑜に窘められているのだろう。

 孫策。先代の孫堅が落命して衰退した家を保つために袁家に臣従しつつ、虎視眈々と再起独立の機を窺う、それこそ虎のような烈女である。覇気がありすぎて叛意を碌に隠せていないあたり、盟友たる周瑜はさぞ苦労している事だろう。
 配下の叛意を察していながらも、しかしそれは既に張勲にとって些事でしかない。曹操は意外でもなんでもないし、公孫賛は如何にも一般人がとりそうな反応であるが、それを隠せなければただの善人で終わってしまいそうである。劉備とやらは少々張勲の予想外であったが、勢力が小さすぎて大勢に影響を与えられるか甚だ疑問であった。
 さてでは他は、と視線を巡らせようとした矢先、目に痛い金色が動きを見せた。

「あらあら皆さんそっけないですわねぇ。では折角ですからわたくしが皆さんに代わりまして、ど田舎からやってきて下さった孟起さんを歓迎しますわよ! ようこそおいでまっせー! おーっほっほっほっほ!」

 自己主張の激しい金色の髪と甲冑、そして嫌でも耳に残る高笑い。勿論その主は張勲の主君である袁術とは微妙な立場関係にある袁紹である。

「ふん。一々ご苦労な事よな、本初よ」
「あらごめんあそばせ寃州さま。孟起さんが不憫でしたのでついつい……」
「……ふん。まあよい、早く事を進めよ」
「かしこまりましてよ。では田豊さん、お願いしますわ」
「……はっ」

 大げさで騒々しく、けれども何事もなかったように物事が進んでしまう。一見、実に袁紹らしい一幕である。いや、実際袁紹は全く以ていつも通りであろう。あれは腹芸をうまくこなせる性質ではない。故に着目すべきは別にあった。

(へぇ……。だんまりですか元皓さん。これはまた、面白いですねー)

 冀州袁家の大軍師にして、暴走しがちな袁紹の安全装置たる田元皓。皇族らに対しての言動は細心の注意を払って然るべきであるが、不用意ともいえる袁紹の発言を元皓は全く諌めなかった。これは見逃せない反応である。

 加えるならば、馬超の時といい今といい、二龍の反応も鈍い事この上ない。
 皇族たちにとって、馬家も袁家とは所詮ただの臣下に過ぎない存在である。いかに有力であるとは言えどもはっきりと格下なのだから、先ほどは無礼を咎められておかしくない場面であったはず。
 しかし現実には、何事もなかったように会議は始まっている……。

 皇族たちの関心の低さ、袁紹を抑えない田豊……。これが連合を組んだ事による寛容或いは油断なのか、それとも……?

 軍議が形式ばった確認事項で停滞しているうちに、考えを纏めなければ……。
 顔に笑顔を張り付けたまま、張勲はめまぐるしく思考を加速させた。





「では、次の議題に参りますわよ!」

 次とはいうが、果たして「その前」と言えるほどのものがあったかしら。
 余りの退屈さに零れそうになる欠伸を、曹操は満腔の悪態と共に噛み殺した。

 不本意ながら幼馴染といってよい間柄である袁紹の性格からして、体裁と虚飾に塗れた冗長な軍議になるだろうとは予想していた。
 加えてこの場には皇族が三人もいる。権力はさておき、権威という意味合いでは、この場にいる劉岱たち三人のそれは傑出している。この場に集った者の大半がその顔色を気にせざるを得ないのは織り込み済みであったのだが、先の馬超への対応然り、どうにも解せない振る舞いが目につくのである。
 袁紹が言葉を弄して場を盛り上げようとも、何を言うでなく沈黙を守り、袁紹が追認を求めるまで無言を通す。その繰り返しである。
 無視して進める事ができない以上、乞うて言葉を引き出すしかなく。主導権を握ろうとする袁紹と、それを阻む皇族たち、不毛な争いであった。
 しかし、次はそうもいかないだろうと曹操はどうにか気を取り直す。袁紹もそのつもりなのだろう、増して声を張り上げて周囲の意識を向けさせる。

「ここからが……いいえ、これこそが肝心要の一大事! ――そう、この連合軍の盟主についてですわ!」

 二十万を超える大連合、その盟主である。これほどの大軍勢、それを指揮するのは誉れであるし、完遂すれば声望は留まる事を知るまい。
 加えて、袁紹が精力的に諸侯を支援している事は知れ渡っている。自己顕示欲の塊の様な袁紹が盟主の座を狙っているのは明白であった。
 自分がなる事はないとわかっている諸侯たちにとっても、今後の身の振り方をどうするかを左右する一大事である。無関心では到底いられず、場にざわめきが生まれる。
 しかしそのざわめきも二龍、そして劉表がゆらりと立ち上がった事で掻き消えてしまった。

「さて? 本初よ、それは今更決めねばならん事であるのかな?」
「兄上の言うとおり。そも、論ずるまでもない事であると思うが」
「しかし、宙ぶらりんのままでは指揮系統に問題が生じますわ! そんな事で下手をしようものなら、末代までの笑い者ですわ!」
「何を仰いますか。寃州さまと揚州さまがおられるのです、事はそれで十分でしょう」
「あら、荊州さまもあろうお方が戦の道理から外れてしまわれるとは……。なおの事、場馴れした者が盟主になる必要がありますわね!」

 ただでさえ寄り合い所帯の連合軍である。統一された指揮系統がなければ烏合の衆に過ぎないだろう。その点、袁紹の言を否定する事は難しく、また行動も伴っているのだから少なくとも意欲は本物である。
 しかしながら二龍、そして劉表が皇族である以上、その上に立つのはどうしても憚られる。なんといっても四百年に渡って君臨している血統である。その上に立つ事を恐れ多いと感じてしまうのは無理もない事であろう。
 劉岱たちとしては、敢えて盟主を明確にしない事で袁紹を突出を抑え込み、且つ自分たちは今まで通り皇族という立場を活かし、暗黙の了解でもって影響力を行使する魂胆であろう。

 しかし袁紹は、無視して押し切ろうとこそしないものの、公然と論を戦わせ頑として譲らない。人の上に立っていなければ気が済まない袁紹らしいといえばらしいが、皇族に対しても同じ振る舞いとなると話は全く変わってくる。

(頭が茹って自制が効いていない? いえ、例えそうなら元皓が抑えにかかるはず。それがないという事は、これが冀州袁家の総意だという事?)

 それは余りに危うい事であるように曹操には思える。袁家の隆盛を表す言葉に四世三公があるが、これが指すように袁家の隆盛は即ち漢王朝での地位によってもたらされている。そして漢王朝とは即ち劉家である。己の力の根源とも言える皇族に逆らう事は、自らの首を絞めるに等しい行為である。
 劉家を抜きにして権勢を振るおうなど、それではまるで――。

「――馬鹿な」
「華淋さま?」

 怪訝な荀ケの声も、やりあう袁紹と二龍の声も全てが遠い。
 劉家が支配し、それ以外は袁家といえども支配される側。程度の問題はあれどそれが大原則である。それに従うならば、袁紹は取り敢えずは劉家を立て、その下で影響力を発揮できるよう工作するべきである。
 しかし、袁紹はそれをしなかった。それが意味する事は――?

「麗羽、あなたは――」

 思わず口をついた言葉は、意外なほど軍議の場によく響いた。お互い譲らぬ袁紹と二龍のちょうど口を噤んで睨み合っていたところであった事も影響し、諸侯の視線が曹操に集中する。

「ちょっと華淋さん? 今わたくしは取り込み中でしてよ?」

 面倒な事になった、と軽く唇を噛む一方で、これはこれで好機やもしれぬとの思いが浮かぶ。
 いい加減無為に時を過ごすのにも飽いた頃であったし、先ほどから視界の端に気になるものも写っていた。

 ――泥沼の議論に飛び込むのも御免蒙りたいが、拾った石を放り込んで様子を見るなら悪くはないだろう……。

 寸時の間に考えをまとめ、曹操は万座の注意を集めたままで口を開いた。

「――大した事ではないわ。ただ、場も膠着してしまっているようだから、一度他の者の声を聞いてみるのもいいかと思って。――ねえ劉備?」
「ふえっ!?」
「あなたは諸侯の中でも少々毛色が違うでしょう? 違った見地からの意見も参考になるのではない?」

 頓狂な声を上げたのは桃色の少女。平原の相、劉備玄徳である。
 曹操と劉備は、黄巾党の討伐の際に共闘――正確には曹操が劉備を援助――した経緯がある。弱小という他ない勢力でありながら傑出した将を抱え、義勇兵を率いて格別の活躍をしていた事は曹操の記憶にも新しい。
 貸した手を掴んで立ち上がった赤子の成長は如何程のものであるか――。

 この連合、思っていた以上に意味のある時間になるかも知れない。そんな思いが、曹操の内に強く沸き上がってきていた。





 突然の闖入者に対する視線は、決して好意的なものではない。殊に論戦相手と同じ劉の姓を抱く者に水を差された格好になる袁紹の表情は厳しさを増していた。
 のらりくらりと言質を取らず取らせず、諸侯からの遠慮と敬意を巧みに使ってなあなあで終わらせんとする皇族たち。それと同じ手合いであるならば、盟主を狙う袁紹にとってはいよいよ面倒な事になる。
 ――というのが劉備の知恵袋である諸葛亮の解説であった。

「劉……。一応聞きますが、あなたも皇族なんですの?」
「はい、中山靖王劉勝の末と伝わってます。でも、一人の家令もいなくなった落ちぶれた家ですから、名ばかりのものですよ。それがどうかしましたか?」
「どうか、って……」

 本当に自分が劉家であるかどうかなど、劉備は余り気にしていなかった。靖王伝家にしても、何度売り払って生活の足しにしようかと考えたかも知れない。
 枯れ木のようにやせ細った母をみれば、ただ劉の姓を持っているだけの事にどれほどの意味があるのかと、疑問に思わずにはおれなかった。

 そんな劉備である、二龍たちが何故些事・・を気にして時間を浪費しているのか、どうしても理解できなかった。

「だって、私が皇族であるかどうかなんて些細な事じゃあないですか。今こうしている間にも、洛陽の民衆は苦しみ、陛下の大権は犯され続けているんですよ? 一刻も早く二つの関を攻略して洛陽に向かわなきゃなりません。だったら、こんな事に時間を掛けている場合じゃあないと思うんです」
「貴様、黙って聞いておれば! こんな事とは一体どういう了見だ!」
「然様。貴様も劉家の端くれであるといったばかりであろう! それが皇族であるか否かを些細な事だなど! 劉家の名をなんと心得ているのだ!」

 劉岱と劉遙、劉表。いずれも重職にある皇族であり、一郡の相に過ぎない劉備よりも、遥かに大きな力を持っている有力者である。同じ劉家であろうとも、自分など紙切れ一つで吹き飛ばせてしまう存在だろう。
 しかしそれで立ち竦むようなら、劉備はこの場にいなかっただろう。
 眉を吊り上げて怒鳴りつける二龍に対し、臆する事なく相対する。

「そんな事ないです! 劉家を思う心なら、この中の誰にも負けません!」
「何を戯けた事を! 貴様が如き小身の者が、大それた口を利くでないわ!」
「確かに私は小身ですけど、あなたは身代の大小で忠義を量るのですか? 小身なれどこの場に集った義士の方々に対して、随分な言い様だと思いますけど」

 身代の大小の差異はあれ、ここに集ったのは志ある義士であるはず。身代の小ささを理由に蔑む二龍は、劉備にはこの連合を指揮統率する者として不適格であると映った。
 加えて劉備には、自分と違って堂々と劉家を名乗り声望を集め、勢力も盛んであるはずの二龍に対して、強い義憤を感じていた。

「そもそも、本当に劉家を思っておられるなら! どうしてすぐにでも陛下を、陳留王殿下をお救いに行こうと思われないのですか!? 袁紹さんは、小身の方に対しても志をお認めになり、不足していた物資を提供してくれました。その振る舞いはお見事でしたし、支援を受けた諸侯はとても感謝しています。そんな支持を集める袁紹さんが盟主に名乗り出ておられるなら、指揮系統を明確にし、迅速かつ確実に関を突破し洛陽へ赴くためにも、これを認めて速やかに進軍すべきじゃないですか!?」

 無論、袁紹には袁紹の思惑があっての事だという事は劉備も理解しているし、その思惑が利己的なものである事も察しが付いている。それを批判する事は容易いが、最大の目的の前には霞む。

 即ち、洛陽へ行き、正義を為す。

 もしも董卓が世に言われるように悪虐の徒であるならば、これを誅して陛下と陳留王を救い出し、民を慰撫する。そうでないとしても、やはり洛陽の様子を確認しない事には判断のしようがない。
 袁紹の疑惑に目を瞑る事になろうとも、それで速やかに洛陽へと参じる事ができるなら是非もない。
 そう判断し、劉備は臥竜鳳雛の提案を容れて袁紹を支持する事にしていた。
 加えて諸葛亮と鳳統は劉備に対し、正義を為したいという本心だけを考えて欲しいと伝えている。
 下手に思惑を含ませれば、海千山千の実力者にたちまち嗅ぎ取られ横槍が入るだろうが、劉備が心のままに発言すれば、そこに生臭い欲望が交じる事はない。
 劉家の末席にある者が、一心に同族の長とその膝元の民を案じている。その姿勢は見る者に感銘を与え、また二龍にしても殊更に劉家劉家と口にした手前とやかく言えず、そもそも身代が違いすぎる相手に躍起になれば名を落としかねないため口を閉ざさるを得ない。
 となれば、ここぞとばかりに袁紹が勢いづくのは道理であった。

「素晴らしいですわ劉備さん! 血あり利あり義あり! 西の馬騰さんにも劣らぬ国士ぶりですわ!」
「とんでもありません。実績と武功のある馬騰さんと違って、私たちは如何にも小さすぎますから……」
「心配いりませんわ! この袁!本! 初! 皆さんの夢を率いてご覧に入れますわ! おーっほっほっほっほ!」

 太っ腹な態度と物資供給による諸侯からの潜在的な支持に加え、劉備の発言によって正当性を得たとなれば、もはや袁紹の連合盟主就任を妨げる要素はない。二龍は苦虫を数十匹も噛み潰したような表情ながらも「好きにするがいい」と言い残して離席し、劉表に至っては劉備に教化されたように連名で袁紹を推挙するに至った。
 こうして結果的には満場一致、袁紹は連合の盟主の座に座る事となった。



「おーっほっほっほ! 感謝しますわ劉備さん! あなたのおかげであの石頭たちを言い負かす事ができましたわ!」 「いえ、私は一刻も早く陛下をお助けに行かなきゃって思っていただけで……」

 軍議が終わると、劉備は袁紹に呼び出された。盟主就任の大きな要因となった劉備に気を良くしたのか、自ら手を取って謝辞を述べた。自信家で気分屋で大雑把な袁紹だが、だからこそ気に入りさえすれば躊躇わずにこういう事ができる。この辺り、袁紹独特の求心力といえるだろう。
 決して根は悪人ではないのだな、と劉備は袁紹への人物評を改めた。

「その意気やよし、ですわ! どこかの兄弟にも見習ってい欲しいものですわ、まったく!」

 その言葉に、劉備は曖昧な笑みを浮かべるだけで返答しなかった。二龍を批判したのは、飽くまで行動を起こそうとしなかったからであり、それ以上でも以下でもない。
 では、袁紹派どこまで考えているのか?
 高揚して口が軽くなっているのだろうが、それでも公然と皇族を批判するのは看過できない態度である。諸葛亮や鳳統は随分と袁紹の野心を疑っていたし、その疑念は劉備にも理解できるものであった。
 が、劉備は今はそれを取り沙汰するつもりはない。優先すべきは飽くまで洛陽へ迅速に、かつ確実に到達する事。全てはそれからである。

「こうなれば、ここはこの盟主たる袁本初が! 自らその範を示さねばなりませんわね! 陣形を決めましたら早速、雄々しく! 勇ましく! 華麗に前進いたしますわよ! では準備がありますので御免遊ばせ! おーっほっほっほっほっほ!」

 黙ったままの劉備を意に介せず。自己完結した袁紹は自陣の天幕へと帰って行く。その背を丁寧に頭を垂れて見送って、劉備は大きく息を吐いた。

「あー、緊張した……。これでなんとかなればいいけどなぁ」

 たったこれだけのことにこんなにも手間隙がかかってしまう現実。戦闘が始まればもっとややこしくなるだろうに、今からこんなので大丈夫なのか。一抹の不安を覚える劉備であった。





「……実に不愉快よな」

 三人の皇族のために特別に設えられた天幕は、焚かれた香と酒精の交じり合ったどこか退廃的な空気に満ちていた。中にいるのは二龍と劉表、そして徹底して躾けられた侍女のみ。
 そこに響いた劉岱の声もまた、 ねっとりとした悪意が籠っていた。

「誠に。困っしゃくれた猿めが図に乗りおって。あの玄徳とやらも、土にまじりすぎて尊き天の血も薄汚れたか」
「景升も景升よ! むざむざお墨付きを与えよって!」
「ご容赦下さいまし、表立って分裂の印象を与えては風聞が悪うございますので……。それに口を挟んでおかねば、ますます独走するやも知れませぬ。我らの追認がなければならない、と釘を刺したのだとご理解下さいませ」
「ふん……まあよいわ」
「そこまで気を回さずとも……まあ、もうよいだろうしの」

 飽きた玩具を捨てるような素っ気ない声であったが、裏腹に劉表の表情は僅かに険しくなる。

「では?」
「我らが秘策、あのような者共に開帳する必要はないという事よ」
「天下万事は劉の名の下に回る……その一幕に、三流の役者はいらぬわ」

 実のところ。劉岱たちにしてみれば、今回の反乱劇も劉家の内輪揉めに過ぎない。誰が権勢を誇ろうとも、王奔が光武帝に倒されたように、天下はまた劉の姓の下に返る。それが道理である。
 毒を以て毒を制す。董卓らによって宦官が排され外戚も無力な今、劉の姓を戴きながら古式ゆかしい秩序を乱す今上帝とその取り巻きさえ排してしまえば、三度古き正しき漢の世が訪れる。
 その輝かしい夢を現実にするための一手があるからこそ、劉岱は焦らない。ゆるりと構え、世が道理に従って巡るのを待つだけの事である。

「馬騰がこちらに付いた以上、彼奴らは西方に兵を貼り付けておかねばならぬ。水の関には猿どもが盛って群がろう。どう考えても手が足らぬよ」
「分別のない者どもには、精々その血で玉座を洗い清めておいてもらわねばな」
「袁紹の兵力、些か惜しくはございますが……」
「ああ景升、表よ。お前は猿が衣装を纏うのを見て羨むのか?」
「見栄えだけ繕っても所詮は猿、作法を知らぬ。はしゃいで動き回っておればどうなるやら。我らが躾けてやっても良いかと思ったが……」
「……成る程。不見識でございましたわ」
「うむ。……まあ暫しは好きに踊らせてやろうではないか」
「兄上の仰る通り、急いては事を仕損じますからな……」

 くつくつと含み笑いを零す二人に薄く笑みを浮かべて同調しつつ、劉表の思考は余所へと飛んでいる。
 同じ劉家といえど、劉表の立場は劉岱劉遙に及ばない。その意に従い、その権勢を盛り立てるよう動いてきた。
 だが……。

「……果たしてこのままでよいのやら……」

 零れた呟きが己の明日を案じたものなのか、連合そのものの末路を憂いたものなのか。劉表自身にも判断がつかなかった。



 翌日、連合軍は酸棗を進発した。主なところでは先陣に袁術、その他劉備や公孫賛。中陣に袁紹と馬超、加えて劉表。後方に二龍及び輜重隊が控える形となった。
 内情はどうあれ、兵力二十五万を号する堂々たる大軍勢である。動き出しさえすれば、阻む事は何人たりとも出来はせぬ、そう信じさせる威容であった。
 傲然と、或いは悠然と軍勢は進む。目指すは一路、水関――。

 

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(c)Ryuya Kose 2005