昏君†無双
皇帝、連合を反乱軍と認定。相国に全権を委任し鎮圧を下命す――。
この情報は、燎原の火の如く洛中に知れ渡る事となった。
皇帝の脆弱振りを長く見知っていた人々にしてみれば、劉弁がここまで果断な行動にでる事は予想外であった。
規模こそ大ではあったが民衆の反乱に過ぎなかった黄巾の乱にさえ後手に回りまともな対応ができなかった王朝である。況や有力諸侯が軒並み名を連ね、皇族さえもが参加するこの連合をや――。
宮中の魑魅魍魎に負けず劣らずの有力者たちは概ねそう考えており。だからこそ、袁家の要請に従って、洛陽から外へ伝わる情報を歪曲し、或いは制限したのである。
ところが蓋を開けてみれば、劉弁は高らかに軽挙を糾弾し、相国に鎮圧を命じている。
これまでも、現政権は名家名族の既得権益を侵してはいたが、直接的に圧力を掛けてはいなかった。だが、今回の件で明確に朝敵とされた連合に加担していたとなれば、対応も変わってくるのではないか……?
彼らの下に朝廷よりの使者が訪れたのは、そんな疑念に苛まれている最中であった。
「ああいった格式張った連中が猿どもに加担してるのなんてわかりきった事。でも、いい加減旗色ははっきりさせてもらわなくっちゃね」
「せやけど、あんま締め付け過ぎて暴発されたら敵わん、と」
「ならば国家の危機につきという名目で優秀な人員の提供を
「あら、人手が増えて踏み絵にもなって執金吾たるあんたの労力も減る一石三鳥じゃない。いっそ褒め言葉ね」
霞と華雄が指摘したとおり、詠が命じて送られた使者は、洛陽に入る有力者たちに人材の供出を求めるためのものである。
これまでも現政権は著名な知識人を抱える名家などに協力を依頼していたが、結果は見事に惨敗。出自の怪しい成り上がり者であり、既存の政策と掛け離れ、利権を侵害してくるのだから彼らが助力しないのは道理といえば道理であった。
「とはいえ悪いけど、もうそんなカビの生えた道理に従ってやる理由はないわね」
「うん。貧しい人はずっと貧しいままで。豊かな人だけが豊かになり続ける。そんなのって、おかしいもんね」
富める者がますます富み、持たぬ者はますます失う――。そんな道理があっていいはずがない。
漢王朝に縋らねば生きていけず、しかしその王朝からも軽んじられ、塗炭の苦しみを味わってきた涼州出身の月と詠だからこその発想であったかも知れない。
「歴史は進んで行って、常識も変わっていく。なにより、陛下が望み、街の皆さんがそれを喜んでくれてる。だったら、その意に従って、私たちが新しい道理を
「道理を布くって……なんや大それた話になっとるなぁ」
「むぅ……だが、要はより多くの人が幸福になるようなるよう努めればいいだけの事だろう」
常日頃は威勢のいい霞も尻込みするほどの壮大な話。しかしそれこそが、今この時が後に語られるであろう歴史の転換点である事の証左であろう。むしろ普段と変わらない華雄の方がおかしいと言えた。
「あら、やっぱり馬鹿は単純ね。でもまあ、正にその通り。単純に考えればいいのよ、前の洛陽の様子と、ボクたちが来てからの洛陽と。どっちがいいかなんて、一目瞭然でしょ? それに、時代は変わっていくって事の証人がいるからね。迷う必要なんてない。そうでしょう?」
「ふ……言ってくれる。だが、私には負けた側の経験しかないぞ? さてはて、一体どれほど役に立つやら」
「本気で思ってるなら、そのふてぶてしい笑みをひっこめなさいっての」
だが、それよりも妙なのはこの二人であった。詠と帝辛、これまでぎこちなかった筈の二人の遣り取りが、妙に軽妙かつ気安くなっている。華雄が単純さ故に動じないのとは違い、陣営切っての切れ者の二人の事、全て飲み込んだうえでのこの振る舞いであるはず。
話が進むにつれ明確になるその変容は、少女たちの興味をひかずにはおかなかった。
「なあなあ月、あの二人なんかあったん?」
「うむ、今までよりも随分と気安く見えるというか……」
「え? えっと……最初に情報が詠ちゃんのところに来た後、すぐに帝辛さんが呼ばれて話し合ってたみたいだけど……何があったかまでは……」
持ち寄った情報を基に詠と帝辛が案を練り、それを全員で吟味し、然る後に劉弁に上奏する、というのが会議の基本的な流れである。これまで何度も詠と帝辛が丁々発止のやり取りをしているのは目にしてきた三人には、変化は一目瞭然であったが、その原因がどこにあるのかとなると話は別である。
「ここ数日で急にこれやろ? やっぱあれなんかな?」
「あれとは……なんだ?」
「なにって、そりゃあナニやろ?」
「ナニ?」
「せやから、乳繰り合ったっちゅう事や」
「乳く……ッ!?」
「あ、あの、二人とも……」
手持無沙汰とはいえ、既に半分猥談へと突入しかけている二人を横目に、月はほんのりと顔を赤くしながら苦笑いしていた。
実のところ、月は詠の華奢な手に巻かれた痛々しい包帯の存在と、それを巻いた張本人である鯀捐からの報告を受けて、二人の間に何があったかを大まかに把握していた。
届いた急報の内容と、鯀捐が目の当たりにした尚書台の荒れ様と詠の拳の傷、そこに帝辛がいたという事。そして、今の二人の様子。
これだけあれば、大まかの事情を把握するのは容易であったし、実際それは正鵠を射ていた。
(ふふ、よかったね、詠ちゃん)
いつも傍にいて、いつも護ってくれた、強く優しく美しい、大切な友達。
どうにか心配を掛けない程度には強くなれたけれど、それでも頼られるほどにはなれなくて。そんな比翼の友が、漸く気兼ねなく休める止まり木を得られた事が、嬉しくて、そしてほんの少し寂しくて。
状況は窮地に変わりないけれども、それでも月はいつしか自然な優しい笑みを浮かべていた。
大方針は既に決まっていた事もあり、幾つかの確認を済ませれば知恵袋の話もまとまって。それを受けて、月は切り出した。
「じゃあ、二人には予定通り軍の方をお願いするね」
「お、おう、きっちり働かせてもらうで!」
「う、うむ! 任せてもらおうか!」
月から掛けられた言葉に見栄を切って見せる二人であったが、垂らした冷や汗と頭にこさえたたんこぶのせいで締まらない事この上ない。
詠の分厚い竹簡の束による折檻を受けるまで、ずっと猥談に花を咲かせていたのだから然もあらんといったところではあったが。
「随分と余裕そうだったし、さぞやいい仕事をしてくれるんでしょうね。ええ、楽しみで仕方ないわ」
「は、はは……。ほ、ほな行ってくるで!」
「で、ではな! 私もきっちりと汚名挽回してくれるぞ!」
詠の冷ややかな視線と言葉に追い立てられるように駆けだしていった姿は、ちょっと情けなかった。
「それを言うなら名誉挽回でしょうに……。あんなんで大丈夫なのかしら」
「でも、さっきのは本心だよね?」
「……まあね」
軍を率いさせるに当たり、あの二人を上回る適任は他にはいないのは間違いない。帝辛ならば同等以上の働きを見せるかもしれないが、軍務に専念させるには、帝辛の政務能力は惜しすぎた。
支配地域である洛陽での支持率は良好であり、また内部での結束も固くこれまでの丁寧な内政の成果もあり、足元はほぼ盤石である。
だがその一方で、外政の成果は殆ど上がっていないというのが実情であった。
情報戦での敗北によって、董卓一派の外部評価は散々であるし、脅迫じみた要請をせねば人材の確保もままならない。
何よりも、味方してくれる諸侯がほぼ皆無である事が問題であった。
洛陽は漢の中心であるが、現状でそれは四方を敵に囲まれている事を意味する。
兵糧は生産力の高い地域を押さえて、そこに逃散していた農民を労働力として再投入している事に加え、筋肉モリモリの謎の羊飼いがもたらした毛生え薬によって生産性が向上した事もあり、それほど悩まされてはいない。
しかし、四方に味方がいないという事は、限られた兵力を四方に分散しなければならないという事であり、戦略上、非常に大きな枷になっていた。
望みは薄いとはいえ、この状況を何とかするための見識と政治力が帝辛には求められている訳である。
「一応、月とボクの伝手を使ってみてるから、何とかこの一縷の望みを手繰り寄せたいのよ」
「二人の伝手となると……西か」
「はい。涼州にいた頃に見出して下さった大恩あるお方ですし、漢帝国への忠誠という意味では恐らく随一だと思うんです」
「それに、軍事力という面でも無視できない……いえ、重視しなければならないわ。……涼州の騎馬軍団は」
「西の古強者、馬寿成どのか……」
祖先に後漢初期の名将馬援を持ち、時に異民族と戦い、時に異民族の側に立って戦いと、紆余曲折はありながらも、軍歴と実績を最前線で重ねた傑物である。西方辺境における影響力は随一であろう彼の人物を引き込む……事は無理でも、せめて動かない事を求める事ができるかどうかは、重要な意味を持っていた。
「姜族たちの反乱に加担した事もあるけど、それも涼州の生き残りを賭けたが故の決断だったし、義理堅いお方で忠誠にも篤い事は間違いないわ。洛陽大乱の後は、向こうから接触してきてもいるから望みはある。唯一に近いこの明るい材料、手放すわけにはいかないのよ。ボクはこっちにつきっきりになると思うから……洛陽の
非協力的な有力者に対する人材の供出依頼という名の最後通牒は既に出してある。虫下しを飲んでなお留まって悪さをするような虫は、血を流してでも駆除せざるを得ない。なるべく血を流したくない月も、これ以上の譲歩はできないと了解していた。
「恐らく袁家……他にも旧弊を墨守する名家……ああ、行き過ぎた清流派も含まれるか。それらを一掃する事になるだろうから、被る汚名は途轍もないだろうが……。なに、既に似たような汚名は被っているからな、適材適所というものだ」
「……冗談でもそんな事言うもんじゃないわ」
昏君紂王の伝説をどす黒く飾る、タイ盆に炮烙、酒池肉林といった悪行の数々。それが事実である事は、当事者である帝辛の口から直接語られている。
思うところがないではないが、それらを全て飲み込んだ上で、帝辛の事を仲間として受け入れている。厭う事など当然なく、寧ろ古傷を切開するような自らの行いを、恥ずべきものであると断じていた。
「辛い仕事を押し付けといてこんな事言うのも烏滸がましいけど……ボクたちはアンタを決して切り捨てず、見捨てないわ。一蓮托生、最後まで付き合ってもらうから、覚悟しときなさい」
「詠ちゃんの言うとおりです。私たちは、自らの無能からも、帝辛さんの尽力からも、決して目を逸らしませんから」
「……二人にそこまで言ってもらえるとは。私にとってこれは栄誉の任務だな。……それに存外、少なくとも洛中では外聞はそこまで悪化しないかもしれないぞ?」
董卓一派で特筆すべきは、その内部における結束の強さであろう。
初期こそは様々な軋轢があったが、苦難を乗り越えた今では、皇帝からの信頼含め、非常に集団としての統率がとれている。
加えて、繰り返しになるが足元の民衆からの支持も非常に高い。鼻薬を嗅がされた有力者や著名人があれこれと批判し煽ってはいるものの、「そうはいっても暮らしやすくなったのは事実だし」と意に介さないものが多かった。
民衆にしてみれば、お題目ばかりで飯も仕事もくれない偉い人よりも、食わせてくれた上で道理を唱えた月を支持するのは当たり前の事であった。
加えて、連合が組まれた事が知れ渡り、その檄文の内容も明らかになると、月への支持――というよりも反董卓連合への不満は一気に膨れ上がった。
月が排されれば、今の自分たちの生活もなくなってしまう――。
その恐怖感に駆られた反応は詠たちの予想を超えており、噂を煽っていた商家があわや焼き討ちに合う寸前にまでなったのである。
寸でのところで警邏に当たっていた徐栄の一隊が制止に入り、報せを受けた月がすぐさま触れを出して抑えられたが、一歩間違えば洛陽大乱の惨禍が再来する事態だっただけに、月たちの心労と徐栄への賞賛は計り知れぬほどであった。
「確かに、民衆からの支持の高さはいい方向に予想外だったからね。手綱を握る必要はあるだろうけど、心配こそすれ恐れるほどではない、か」
余談となるが。今回の騒動が切っ掛けとなり、月の支持基盤は明確に一つの派閥として形を持ち始める事になる。
月の支持母体は一般民衆が中心ではあるが、中には知識階級の者も少数ながら存在している。少し前から、そういった者たちが中心となって月の政策や思想、その成果を考察しする研究会のような物を形成し始めていたのだが、今回の件を契機に生活に余裕がある者や向上心に富んだ者が参入し始める。
この集団は、やがて実践派の政治団体のようなものに発展していく事になるのだが……それはまだ先の話である。
「そうすると、やっぱり問題は……」
月の視線が西の空へと向けられる。思考を壁の向こう、遥か千里を隔てて広がる地へと馳せ、少女は物憂げに吐息を零した。
洛陽から向けられた視線の遥か先。そこは、中華の西の果てと言っても過言ではない。
空はいかにも寒々しく、荒涼とした大地は雪こそ少ないものの氷に覆われている。
そんな凍てつく空気を裂いて、一騎の騎馬が駆けていた。中華の地で一般にみられる貧弱な馬ではない。大柄で強靭な軍馬であった。
凍える寒さの中にあって手綱捌きには毛筋ほどの乱れもなく、矢のように駆けるその騎馬は、涼州は武威郡にある政庁へと吸い込まれていった。
「……あの小娘たちが、天下を騒がす渦中にいるとは。なかなかどうして面白いものだな」
人気のない広間にしわがれた呟きが零れる。人生の大半を戦場で声を張り上げる事に費やした喉はすっかりと嗄れていたが、そこから生まれる言葉そのものは明瞭としており、声量によらぬ力強さを秘めていた。
すっかりと白くなった髭をしごきながら、早馬が届けた竹簡を読みふける声の主こそ、西涼にその人ありと謳われる馬騰であった。
既に老境に差し掛かっている馬騰にしてみれば、月も詠もまだまだ尻に殻を付けたままの雛に過ぎない。ましてや幼少の頃に面倒を見てやったのだから、娘のような感覚である。
しかしながら、手にした竹簡に記されているのは娘の近況を知らせるような穏やかなものではない。いや、ある意味ではその通りではあったが、内容はキナ臭い事この上ないものであり。また同時に、涼州の今後を大きく左右するであろうものでもあった。
涼州は、基本的に貧しい土地である。
西方交易が盛んであった頃はその玄関口として賑わっていたが、それも今は昔。皇帝の権威が衰え交易が廃れると、収入の大半をそれに頼っていた涼州は途端に困窮する事になった。生産力に乏しい涼州は、麦をはじめとした食料を金銭で購入し賄わねばならず、その収入源が断たれる事は飢えと直結していたからである。
加えて中央の統率が及ばなくなると、姜族や匈奴といった異民族が不穏な動きを見せ始めるようになり、その脅威にも度々晒されるようになり始めた。
諸州の命運は多かれ少なかれ中央に委ねられているが、殊に涼州はその度合いが他の比にはならぬほどに高いのである。
その中央の実権を、よく知る少女二人が握ったという情報は、馬騰にとって値千金であった。
しばしば帝室への忠誠を讃えられる――あの詠でさえも忠心は本物、と考えている――馬騰であるが、辺境の過酷な環境で揉まれ続ける男が純朴な忠心だけの男の筈もない。
馬騰が帝室を支えるのは、皇帝に力がある方が西方交易が再開される目が高い……つまりは涼州の利になるから、というのが理由の大半を占める。そも、かつて異民族の討伐に赴いた際、討伐軍の主将が戦死したのを機に異民族側へと寝返った事がある馬騰自身にしてみれば、国士だなんだと持て囃されるのは滑稽な事この上ないわけであるが。
ともあれ、皇帝の信任厚い二人が、かつての恩を未だに覚えているのならば。私利私欲に奔らぬ分別があるのなら――。それを見極めようと密かに接触を取っていたのである。
だが――。
「反董卓連合、か……」
実のところ。馬騰は数度の接触を経て月を信ずるに足ると判断し、上洛して直接言葉を交わした上で助力を表明するつもりであった。
しかし上洛の打診をしようと放った使者が持ち帰ったのは、袁家や皇族を主催とした反董卓連合の結成の報であった。
流石の馬騰もこれには躊躇せざるを得ない。
軍事的、政治的に見て月たちの劣勢は明らかであり、下手に手を貸せば諸共に討ち滅ぼされかねない。
しかしその一方で、助力して生き延びたならば、西涼の影響力は甚大なものとなる事は明白であった。
「伸るか反るか、一か八か……悩ましいな」
かつてはそうではなかった。危険であればあるほど、或いは利が大きいならば、どんな死地にでも飛び込む事ができた。
だが、今の自分は涼州を、西涼という地方を背負っているという自負と責任がある。軽々に博打を打つわけには行かない。
――この躊躇、老いから来たものだとは思いたくないな。
そう、溜め息を吐いた時だった。
「ほお? 反乱軍に飛び込んでみせたほどの男が、随分と弱気じゃないかえ。嫌だ嫌だ、歳は取りたくないものよの」
「――今この場に立ち入る事は禁じていたはずだが」
「案ずるな、禁は破っておらん。なにせお主が来るより前からここにおったのだからな」
「……相変わらず心臓に悪い奴だ」
「んん? なんじゃ、図星だったのかえ? それは済まん事をしたのぉ」
「……性格の悪さも相変わらずか。その分なら聞くまでもなく息災だったようだな」
溜め息と共に振り向けば、灰の色をした髪と煙のように白い肌、そして赫々と燃え盛るような緋色の目をした女丈夫が柱の陰からぬるりと現れる。
存在に気づけなかった事といい、内心を見破られた事といい、いつも手玉に取られたような気分になる。そんな不思議な古馴染みの名を、
辺境に住まう者には異民族との混血も多く、馬騰自身も母親は羌族の出である。この韓遂もそんな一人であるが、彼女は唯の混血ではなかった。
遡れば父母共に姜族の族長に行き当たる血統で、滅びた周王朝とも血の繋がりを持ち、古き務めを今に伝える時代の観測者なのである――らしい。
らしい、というのは、その経歴全てが韓遂の自称でしかないからである。特に古き務め云々というのは馬騰にしてみれば胡散臭い事この上なかった。
とはいえ、混血の者たちや異民族から妙に慕われ一勢力を構成しているし、独特な存在感を発している辺りを考えれば、異端なれども出来物である事に違いはない。
そしてその出来物がいないはずのここにいる。この時に、この状況下で。
「……何があった。貴様、崑崙の麓まで出張っていたのではないのか」
「正に。じゃがその途中で面白い事があってのう。これは妾の血に関わる事故、急ぎ戻ってまいったのじゃ」
「血だと? この期に及んであの与太話を持ち出すという事は……」
「然り、じゃな。妾は酔狂であるという自負はあるが馬鹿ではない」
つはりは与太話ではないというのか。
時代の観測者を嘯く者が、それが与太ではないというのなら。
「……分岐点なのじゃよ、神話から伝説へ移ろった時代が、伝説から歴史へと変わっていく、その時が来ておる」
「根拠は」
「ある。――が、言っても意味がない」
「なんだと?」
馬騰の眉根に皺が寄る。この期に及んで情報を秘される事への不快感だろう。或いは不真面目であると思われたのかも知れない。
だが、言葉を選ぶ余地はあったかも知れないが、伝える事に意味を見出せないというのは韓遂の本心であった。
馬騰の言ったように、韓遂は崑崙山脈の麓まで出張っていた。近辺の異民族の慰撫が理由であったが、韓遂自身の本心は別にある。
誰に言うでもなく、また韓遂自身もはっきりとは言えなかったが、強いて言うならば風を感じたからであった。
しばしば冗談として受け取られるが、韓遂は確かに姜族の長の血を引き、また周王朝とも縁が深かった。少なくとも本人はそう信じているし、血族に代々語り継がれた事実でもあった。
その己に流れる血が、風を感じたのだ。我らが所縁の西へ行けと。その内なる声に従って、風を追うように――或いは導かれるように?――進んだその先にあったのが崑崙の山であったのだ。
そこの部族の者と話し合い、酒を酌み交わし、慰撫をする。いつも通りの仕事であったのだが、その日は不思議と酒が美味く、また酔いの回りも早かった。
神秘との交感は
「――遂、韓遂! おい
「――ん、ああ……なんでもない」
「何でもなくはなかろう! 本当に貴様一体何しに来たのだ!」
急に来たかと思えば思わせぶりな言葉を吐き、そうかと思えばぼんやりと立ち尽くす。全く以て意味がわからない。湧き上がる苛つきをねじ伏せながら、いよいよ本題を履かせようと語気を強めた矢先。ふと、韓遂の視線が馬騰のそれとかち合った。
「……じゃじゃ馬がのう。兵を集めておるそうだ」
「――は?」
ぽかん、と言う擬音は間抜けに口を開けるところからきているのでは。そう思わせるほどの馬騰の表情であった。
「崑崙から戻る途中でな、噂になっておったぞ。皇帝を惑わす奸臣を討つと息巻いておるようでな、あっぱれな義挙と評判じゃったのぅ。相変わらず真っ直ぐで、己の正義に正直。わかりやすく、また受け入れられやすい……」
「待て、それはまさか」
「それはそれで美しい事じゃが……親の心子知らず、というやつかのぅ?」
「――あの馬鹿娘が!」
「お主の若い頃にそっくりじゃて」
日頃自慢の種であり、また悩みの種でもある愛娘は、こんな時にも厄介事を巻き起こしたらしい。そんな内心の悲嘆と憤懣を声にして吐き出したが、韓遂の間髪入れぬ返しにぐうの音と一緒に押し戻される始末である。あんまりではないか、と馬騰は思った。
「天晴さすがは錦馬超、噂に違わぬ傑物よ……。皆口々に褒め称えておったわ、国士・馬騰の再来だとな。親として鼻が高いのではないかえ?」
「ええい、死体に鞭打つような真似はやめんか!」
人呼んで錦馬超。名を超、字を孟起、武勇に優れ、その一点においては父親すら凌ぐ傑物である。
であるが、それ以外……特に頭の方は直情径行を地で行き、今回の
そしてそれが理解できるが故に、描いていた展望が崩れ去る事も理解できてしまった。
「これでは……涼州の発展など夢のまた夢ではないか……!」
連合に参加した場合、西方を扼す意味は大きいかもしれないが、発起に名を連ねる事ができなかった以上、扱いは一段抑えられる事になるだろう。加えて勝利の暁にも、利益も大きいが負担と危険も大きい西方交易に、袁家を主体とするだろう次期政権が真面目に務めるとは考えにくかった。現に十常侍による専横が行われていた時も、彼らは西方交易は放置していたのだから。
中央の富は中央に留まり地方へは届かず、遙か大秦との大動脈となりうる西方交易も閉ざされる――。
そんな未来は馬騰の望むものではなかった。
そんなタイミングで――或いは満を持して――韓遂はこう切り出した。
妾が行こうか、と。
「……なに?」
「今更あの娘の手綱は取れまいし、止めれば民衆が不満を抱くじゃろう。ならばいっそ、あれはあれで行かせればよい。ただし、飽くまであやつの独断で、じゃ」
「その一方で、儂の盟友である貴様は董卓側に参陣する、という事か?」
「妾の独断という形の方がいいかもしれんのぅ。妾とお主は盟友ではあるが、同時に油断ならぬ敵でもある。足並みが揃わぬのはいつもの事じゃろう? 連合が勝てば錦馬超の名は揚がろうし、逆なら妾が誘導すれば涼州に利をもたらせよう。引き換えにお主は優柔不断と非難されるやもしれぬが、その程度は西涼全体の事を考えれば些末事であろ?」
「気安く言ってくれる……が、悪くはない、か」
どちらに転んでも、それなりに涼州の利になる。自分の名声は失われるかもしれないが、次世代に道を譲ると考えれば悪い事ではない。
何から何まで韓遂の掌の上で転がされているのは気に掛かるが、それこそ些事である、と馬騰は腹を決めた。
「……うむ、顔付きが変わったのう」
「ふん。涼州の未来の為ならば、古臭いこの名も、老い先短いこの身も惜しくはない。やらいでか」
「……その決断に感謝しよう。その選択は、人が残された導の頸木から脱するための最後の一歩となるだろう」
安堵と、それと畏れを綯交ぜにした韓遂の言葉の真意を読み取る事は馬騰にはできない。しかしできたとしても、馬騰は意に介さなかったろう。
「……何を考えているのかは儂にはわからんが。貴様が思い立って、儂が引きずられるように突き進む。思えば、今まで腐るほどに繰り返した事だ。今更根掘り葉掘り聞きやせんわ」
「くく……いい年をして拗ねて見せても可愛くはないぞ?」
「ぬぐっ、ええい貴様は!」
「おお、怖や怖や。まあ上手くやるさ」
広間の外まで漏れ聞こえる大喝に追われるように、韓遂はカラカラと笑いながら広間を飛び出した。去る背に気負いは見られず、いつも通りにまるで旋風のように過ぎ去っていく。
きっと今度もそうやって旋風のように空気をかき回して、そして色々なものの背中を押していくのだろう。
そして、やがては時代すらも――。
「……くく」
ぞくりとした。ついさっきまで弱気の虫に悩まされていたはずの老いた胸に火が灯ったようであった。
老い先の短い自分の言葉が、時代の変革の嚆矢となる――。それは、戦場で槍を振るうのとはまた違った興奮である。
「あやつめ、いつもこんな猛りを抱えておったのか」
それとも、不祥の器たる兵を楽しむ、己の度し難い愚かさ故か。
答えは、成し得た事が教えてくれるだろう。今はただ、この胸に灯った火を篝火として進むのみ――。
数日の後、各地より送り込まれていた密偵たちが一斉に急報を放つ事となる。
錦馬超、非道の佞臣を討つために挙兵、連合への参加を宣言す――。
馬騰は病床にあるため動かず、また朋友の韓遂も、会談した広間より飛び出した事から馬騰と決裂したと思しく、その後の動向は杳として知れないという――。