昏君†無双
一九〇年 一月
――洛陽・尚書台――
そこは、理性と英知の集う場所である。
漢王朝という巨大な機構を動かす幾千の官吏、そこからの上奏を取り纏める尚書令が詰める実務の中枢であり、漢王朝の心臓部ともいうべき要所。
常日頃、理性に満ち溢れているはずのその場所が、今この時は激情と狂乱に満ちていた。
「ふっざけんじゃないわよッ!!!」
碧の髪を振り乱し、血走った目で今さっきまで震える手で読んでいた竹簡を投げ捨て、卓上を茶器や硯やらをも纏めて薙ぎ払うその様は、常の知性に満ちた振る舞いの見る影もなく、気が触れたかのようである。
否、今この時の賈文和は、正しく正気と狂気と狭間で揺らめいていたのである。
誰よりも長く、誰よりも近く。月の傍にいて、月を支えてきた。その気性、その思いを誰よりもよく知っている。あの華奢な体にどれだけの熱意が秘められているのか、今現実に、どれだけ身を粉にして働いているのか。誰よりも知っているのに。
「あの薄汚い猿どもが! よくも……よくも薄汚い欲望で穢してぇ!!!」
もしも思念に現実を侵食する力があるならば、振り下ろされた細腕は頑丈な机を粉微塵に粉砕していただろう。けれど実際には、どうあっても揺るぐ事のない現実のように机は精々が僅かな軋みを上げるだけで、詠の心をますます苛立たせるばかりである。
緊急の呼び出しを受けて駆け付けた帝辛がやって来たのは、そんな狂乱の最中であった。
「これは……! 賈尚書令、これはどうした事か!」
「どうした? どうしたですって!? どうしたも糞もないわよッ!」
「むっ。よもや……これか?」
その狂態と敵を見るかのような血走った瞳は、帝辛をして表情を強張らせるに足りる物である。
詠の有様それ自体もそうだが、詠ほどの才女がこれほどまでに取り乱す事態となれば、尋常の事態ではあるまい。
果たして、拾い上げた竹簡に記されていたのは、紛れもなく董卓を誅するための連合を呼びかける檄文、その写しであった。
「……なんたる事か」
一読して瞑目して天を仰いだ帝辛の口から、呻きが漏れる。
有力どころの名家名族、皇族すらもが名を連ね、国を蝕む董卓一派を撃たんと連合するのである。集う兵力は万では済むまい、十万でも足らぬだろう。それらかぎらつく野心と穂先を揃えて攻め寄せてくるのだ!
それは、まるでいつか見た――。
「……馬鹿な」
流れるように紡いでしまった想像を、言葉と共に吐き捨てる。
今自分がすべきは、己の過去を想起して悲劇に淫する事なのか?
否、断じて否である。
多忙にかまけ、膝元以外に目が行き届かなかったが故に後手に回ってしまいはしたが、できる事すべき事は幾らでもある。
そしてその筆頭こそが、今まさに自分の襟首に掴み掛ってきた荒ぶる少女を鎮める事であろう。
「馬鹿な? 馬鹿なですって!? あんたまさかこの事態が全くの予想外だったとか寝言ほざくんじゃあないでしょうね!?」
「……いや、名家といわれる者たちからの反感は変わらなかったし、懐柔の為に大きく動くような事もしなかったからな。いつかは暴発する可能性はあったし、その形が連合軍として発言する可能性も、承知していた」
なにしろ、月の主導する洛陽運営の政策は民意を味方に付けているため、民衆の声を根拠として追い落とすのは非常に困難である。文武百官も、人材の払底を逆手に取る形で要職重職はいわゆる董卓一派、もしくはその理念に近しい者を宛てているため、盤石とは言わないまでもそれなりに安定している。
となると、董卓一派をよしとしない者が採る手段は限られてくる。
反発の大きさや人員の不足から、月の主導する政策は洛陽から外には出ていない。つまり、洛陽から出れば月の影響力は途端に低下するのである。
洛陽、それと精々并州。対してそれ以外の全土。対決すればどちらが有利かは一目瞭然であるし、影響力と数に勝る地盤があるのならば世論の後押しを作り出すのも容易いというものである。
それをわかっていながら、董卓陣営は打つ手を持たなかった。文字通りに手が足りなかったが故に。それは、政務の中枢にいた詠も身を以て実感している。
けれども、それでも。そんな渦巻く思いが、詠に言葉を溢れさせる。
「だったら! どうして止められなかったのよ! ボクなんかよりもずっと仕事が出来る癖に! どうして……ッ」
「………」
「陛下は最近になって随分政務に習熟なさってるじゃない! なら指導の時間だって他に割けたんじゃあないの!? ボクよりも……ボクなんかよりも! 月を護れる癖に! どうして……!!!」
「………」
糾弾の言葉と共に拳を叩きつける。歳月と鍛練とを積み重ねたその胸板は分厚く、先ほど殴り付けた机とは比べ物にならない手応えを詠にもたらした。
微動だにしない、その屈強な体躯。それは自分にはない物で。自分にはない物を持っているのなら、きっと自分よりもできる事は多いはずなのに!
……この理不尽な拳を止めさせる事なんか、簡単なはずなのに。
「どうしてよ! どうして……どうして、何も言わないのよ……!」
満身の力と激情を籠めて振り下ろされた拳は、詠と帝辛、双方の心身を震わせる。身長差から見上げるような姿勢になっている詠の琥珀色の瞳から、一筋の涙が零れた。
「……わかってるわよ、こんなのただの八つ当たりだって! アンタは全力を尽くしてて、余力なんて全然なくって! でも、それでも!」
ぎり、と唇を噛み締め、ずっとずうっと押し殺していた言葉を絞り出す。
「アンタなら……! アンタなら、月を……ボクたちを護ってくれるかもって! そう思ってたのよ!」
「!」
どんなに打たれても小揺るぎもしなかった帝辛の身体がびくりと震える。
詠が帝辛に対して月を巡っての軋轢を抱えている事は気付いていた。
物心ついてからこの方、ずっと一緒にいた半身、或いは比翼。支えるのも護るのも自分の役割であったのに、いつの間にかそこには帝辛が入り込んでいた。
懸命で、必死になって神経を尖らせていた若い詠が虚心でいられなかったとしても、無理はなかっただろう。
それでも、今この言葉を絞り出してくれた事。その事実が、帝辛を奮わせたのだ。
「ボクもアンタも、霞も華雄も、徐栄たちだって! 皆みんな必死になって、頑張ってるのに! 月が、陛下が……どんなに……どんなに……ッ!」
糾弾の声は窄み、怒りの意思も萎え、襟を締め上げていた細腕も、いつしか縋る様に添えられて。
「こんなのって……こんなのってないわよぉ……」
溢れる涙の中に浮かぶ琥珀の瞳は、まるで水月のよう。
そのあまりの儚さに、知らず帝辛は詠の小さな身体を抱き締めていた。
「!」
胸に抱いた少女の身体がびくりと震えるが、構わず帝辛は静かに碧の髪を梳る。
胸の高さにも満たぬような小さな身体で、どれほどのものを支え。両の手で半ばも包めてしまえそうな小さな頭で、どれほどの知恵を巡らせてきたのか。それこそ、どれほどの言葉を以てしても及ぶまい。
故に、帝辛はただ。誠心を以て少女を慈しむ。
「ぁ……やだ、だめ……」
歳月を経た大樹に包まれるような感覚に、己の内から涙では済まされないものが溢れようとしている事に気付き、詠が掠れた声を漏らす。堪えようとする細やかな抵抗は、しかし。耳元で囁かれた、たった四つの音で挫かれる。
「構わぬ」
「……あ」
もう、駄目だった。
「あ……ぅあ」
物心ついてから、ずっと押し込めてきたものが、溢れ出す。
「――ぁああああああっ! あぁあああああああああっ!」
涙も、泣き声も。その小さな身体のどこに秘められていたのだろう。
少女の、十数年ぶりの慟哭を。帝辛はただ、その胸で受け止め続けるのであった。
どれほどの時間が過ぎたのか。
物に限らず言葉に限らず、感情に限らず。嵐のように荒れ狂っていた室内に、今や吐息以外の音はない。散らかった調度品などを除けば、嘘のような静けさである。
帝辛の胸――というより鳩尾――に顔を埋めて抱き締められている詠には帝辛の鼓動だけが。詠を抱きすくめている帝辛には、詠の細い吐息だけが。それぞれ同じように互いを包んでいる。
しかし、その内面を覗き見る事が叶うのならば、両者のそれがとても似ても似つかぬ事に気付くだろう。
(うぅわぁぁあああああボクってば何を口走って……! 八つ当たりした上にどうして護ってくれないのだの! なんて恥知らずで無様な!)
生来の気質に加え、ずっと月の世話を焼いていた事もあり、詠は一個の人格として自立する事を良しとしている。
その矜持からすれば、幾ら心が弱っていたとはいえ、感情のままに理不尽な怒りを叩きつけ喚き散らすなど論外の無様である。己への怒りのあまり、赤面して身体を震わせてしまうのも無理はないだろう。
だが、理由はそれだけではない。
(し、しかもその無様を受け入れられて、挙句にだ、抱き締められて、むむ、胸に縋って泣きじゃくるとか……!)
何の事はない。赤面と身震いは、とてつもない自己嫌悪と、それすら上回る耐え難いほどの羞恥に打ちひしがれていたがためであった。
(あらゆる意味で有り得ない……。このボクが、あ、あんな絵巻物の登場人物みたいな……うぅ……)
詠とて少女である。四書五経ばかりを読んでいるわけではなく、月に薦められて恋愛物の作品を読んだ事がある。自分には似合わないとそれきりであったが、まさか自分がそれに重なるような振る舞いをする事になるとは!
(ないないないない有り得ない――って、うわっ!?)
もやもやと浮かんできた想像を頭を振って追い散らすが、その動きが帝辛の心配を誘ってしまい、不器用ながらも頭を撫でる動きまで追加された。
(ああ、もうなるようになればいいのよ!)
そして詠は、考える事を止めた。閾値を吹っ切ったとも、開き直ったともいう。
そうして、色々なものを投げ捨ててしまえば、新しく見えてくるものもあるというもので。
(そういえば……誰かに頭を撫でられるなんて……。いや、そもそもあんなに泣いたのって、いつ振りだろう……)
いつも護る側で気を張っていて。能力的にも凡そ人の下に立った事がなく。物心つく前の幼少期を除けば、誰かに慰められたり支えられたり、或いは褒められたりした事は記憶にない。その不慣れさが、高い自尊心と相まってとてつもない羞恥を生み出しているのだと、詠は理解している。
それは、まあいい。精神衛生上あまり良くはないが、あの涙を吐き出さずにいたら、きっと己の中の何かが壊れてしまっていただろう事を、詠は今更ながらに理解していた。
確かに羞恥と自己嫌悪に苛まれてはいる。いるがしかし、言ってしまえばそれらはその程度のものでしかない。
そしてその程度のものに振り回されるほどに、心が軽くなっている事も事実であった。
思い返すのは同じ洛陽。戒めとして脳裏に刻まれている貧民街。友と一緒に、己が罪過に押し潰されそうになっていた男に手を伸ばした事。
「……あの時とは、立場が逆になっちゃったわね」
沈黙を破った呟きは、口にした本人が不思議に思うほどにするりと自然に唇から零れ落ちていた。
「いや……。結局、胸を貸しただけで、礼を言われるような事は何もできなんだ」
消え去りそうな儚さに、咄嗟に抱きとめただけで。何を諭す事もできず、道を示す事も出来ず。己があの日受けた救済に比べれば、自分がした事などどれほどの意味があったのか。
そう卑下する帝辛に、詠は首を振る。
「胸を貸してくれた。つまりは、その……泣き場所をくれた、事。気を張って……張り続けて、張り詰めて。あともう一歩で切れてしまうところだったボクにとっては、それだけで……ううん。それこそが許しであり、救いだったのよ……うん。」
そう口にするにつれ、その思いが馴染んでいく事を詠は感じていた。
自分のひねくれ具合は誰よりも知っている。
きっと、今後帝辛に対しての蟠りは消えてなくなるだろう。なくなれば……きっと、この苦境をも打開できるのではないか。
暗い考えばかりが浮かんできた今までとは打って変わって、そんな希望さえ抱けてしまう。そんな自分の現金さには苦笑してしまう。
(でも、それで月を……ボクたちの、この日常を守れるなら)
それくらい飲み下してやろうじゃあないの。
「――帝辛」
「うむ?」
「変な言い方だけど。ボクと一緒に、ボクたちを助けて。お願い」
「――任せておけ」
影の払われた、不敵な笑みを浮かべて助けを求める姿は、帝辛が思わず見とれてしまうほどに、凛々しくて美しかった――。
因みに、ここまでずっと二人は抱き合った格好のままであり。
その事に気付いて詠が――帝辛も――再び赤面と羞恥に襲われたため、御前会議は翌日に持ち越される事となった。
そして、御前会議である。
重大案件を扱うため余程の事がない限りは出席するようにとの通達がなされており、宮廷雀たちは禅譲かはたまた相国の剥奪かと囁き合いながら。聡い者や耳の早い者は表情を強張らせながら足早に謁見の間へと向かう。
事実上の与党である董卓一派を筆頭に、軍事面での抑止力と目される――実際には協力体制にあるが――皇甫嵩、朱儁など、錚々たる面々が勢揃いし、あとは皇帝の出座を待つばかりである。
そんな緊張感漂う中で、劉協は内心の動揺を必死に抑えこんでいた。
(いない……やはりいないぞ! 橋瑁、それに劉岱がいない!)
過日、自分が零した内心が際どい内容である事は劉協も承知していた。
興奮に任せて饒舌になってしまいはしたが、一夜が明けて冷静になってみると途端に不安に苛まれる事となってしまった。劉遙も橋瑁も、何事もなかったかのように振る舞うものだから返って不安になってしまうが、かといって蒸し返す気にもなれず、悶々とした日々を過ごす事になる。
一月余りが経った最近になって、漸く過度の緊張は解れる事となったのだが、その矢先に劉遙と橋瑁が姿を見せなくなり――そして今日の御前会議に先立つ通達である。嫌な予感を抱くなというのが無理な話である。
顔色を悪くしながら見守る劉協の眼前で、董卓が居住まいを正すのが見えた。
「――陛下のご出座である! 一同、平伏せよ!」
告げるや否や、いの一番に、しかし優美な所作で董卓が平伏し、文武百官がそれに続く。
相国の地位にありながら、驕る事なく変わる事なく誰よりも早く皇帝に対しての忠誠を示し、首を垂れる事ができる。その姿はまさに忠臣、今蕭何と呼ぶに相応しいものである。
その事実にもどかしいものを感じながら劉協も平伏し、劉弁の言葉を待った。
「――一同、面を上げよ」
響く声は未だ大人になりきらぬ少年のそれであり、貫禄や威厳という点では、皇甫嵩や帝辛、今は亡き何進らの方がよほど秀でている。
しかし、見ればわかるだろう。それは飽くまで経験の浅さ、年齢の若さが故であると。万座の朝臣を前にして臆せず、誰憚る事なく上位者として声を上げている。若くしてこれならば、長ずればどうなるのか想像に難くないだろう。
そして或いは、それが故に、この事態は起きたのだろうか。
「――諸々の議題を置いて、まず話さねばならぬ事がある。耳の早い者は既に知っておろうが……相国」
「……は。過日、袁本初、劉公山、劉正礼を筆頭とした者共の連名で檄文が発せられ……諸侯による連合が、結成された由にございます」
しばし、議場は水を打ったように静まり返る。
民衆の蜂起ではない。歴とした諸侯、それに皇族による武装蜂起。
それ即ち、反乱である!
その事実に思い至った途端、議場はどよめきに支配された。
なにしろ有力諸侯が反旗を翻したのである。たかが民衆の蜂起でしかなかった黄巾の乱とはわけが違う――そう考える者が殆どであった。
しかし、そのざわめきも収束していく。なんとなれば、皇帝が少なくとも見た目上は狼狽を見せていないからである。
少しずつ静まる喧騒を気にもかけず、深く重い溜息を吐いた劉弁は、冷えた眼差しを月――その向こうに浮かべる造反者たち――に向ける。
「それで、其奴らはなんと謳っているのだ? 朕の意を離れて軍を起こした以上、建前はあるのだろう?」
「は……お耳汚しでございますれば……」
「よい。聞かせよ」
「……さらば」
一度強く眼を瞑り。意を決して次に開いた時には、月は能面を被っていた。
自分が耳にしてさえ聞くに堪えず、沈着冷静な詠でさえ一時は狂乱に陥ったという内容を、この手で、この口でお伝えせねばならないなんて!
敬愛し忠誠を捧ぐ皇帝が感じるであろう屈辱と悲痛を思えば、胸が張り裂けんばかりであるが、それを捻じ伏せ蓋をし、代わりに重い口を抉じ開ける。
曰く、今や国政は董卓に壟断されている。
曰く、皇帝も佞臣に惑わされ正しき政を失っている。
曰く、洛陽は荒れ人臣は荒んでいる。これこそ罪の証であり、我らの正義は明らかである。
曰く、先帝の遺勅を今こそ果たし、国家を正道に立ち戻す。その為にたち、その為に集うべし――。
「暫し、暫し待たれよ相国どの。洛陽が荒れているとは何の事だ? 確かに人手不足が故迅速とはいえんが、質でいえば相当な復興を遂げているではないか」
月の発言を遮り、皇甫嵩が疑問の声を上げる。職分たる軍事軍政にのみ注力していた皇甫嵩ではあるが、兵力の一部を工兵として参加させているので、復興度合いは把握している。その知見とあまりにそぐわぬ名文は、看過できないものであった。
「それについては臣が」
「む、賈尚書令」
「洛陽の情報を地方へ伝えるのは主に大店の商店です。そしてその多くは袁家を筆頭とした有力諸侯と深い繋がりを持っています」
「……両者が結託したというのか」
「恐らくは。復興政策において、ボク……我々は迅速かつ広範に富が回るようにしました。大店に回してから滴り落ちるのを待っていては間に合わない恐れがありましたし、そもそも滴り落ちる筈の富が
「むぅ……」
「結果、商人を通じて地方の民意を誘導された事も、後押しとなったのでしょう。……我々は人手不足により陛下の膝元たる洛陽以外に関与する余力がありませんでした。これは我々の不徳の致すところです」
「……いや、尚書令どのをはじめ、文官諸氏の有能さと多忙さは儂も承知しておる。他の誰に、今以上の事が為せよう。少なくとも、儂にはとやかく言えん」
先の大乱において宦官が激減した事は周知の事実。頭数は減って仕事は増えて。権勢を誇りつつも、それに見合う――或いは見合わぬほどの――激務を熟す姿を知っている皇甫嵩には、それを責める言葉を持たない。
そして董卓一派に対する監視役といえる彼が沈黙する以上、他の誰もこれを糾弾する事は難しかった。
「話の腰を折ってしもうたな……。陛下、申し訳ございませぬ」
「構わぬ。お蔭でより良く理解できた……色々な事がな」
言葉を区切ると、劉弁は立ち上がり、視線を豪奢な装飾の為された壁面へと向ける。眼差しのその向こうに、民が暮らす市街が広がっている事を即座に察する事ができたのは、一体どれほどいるだろうか。
「自惚れでなければ……朕は、拙いながらも真っ当に政をやれていると思っていた。朝議にて諸賢らの意見を聞き、書面を認め、判を押し、修正案を協議し、上奏を受け……多忙極まりなかったが、この上なく充実した時間であった。そして、この宮中からも、日ごと月ごとに立ち上る炊煙が力強さを増し、微かながら聞こえる槌音が盛んである事に、手応えを感じていたのだ。我が帝国の明日は、明るいのだと」
その表情に笑みが浮かんだのは意図せずしての事だろう、すぐさま硬い表情に覆い隠されてしまったが、目の当たりにした誰もが、劉弁が本当に充実と喜びを感じていたのだと悟る。
悟ったが故に、続くであろう言葉に、うそ寒さを感じずにはおれなかった。
「だが……どうやらそれは朕の勘違いであったらしいな。朕と、朕の信任した相国を否定し、打倒するために、藩屏たる諸侯やあまつさえ皇族さえもが軽挙するとは。ほとほと朕は無能であるようだ」
「そんな……陛下」
「気遣いは無用だ、相国。目の前には現実がある。これに目を背けては、朕は本当に無能になってしまう」
気遣いの言葉を退けるそれは、確かに強さではあったろう。君臨する者としての矜持、それは確かに劉弁の中に育っている。
(でもそれを。こんな形で見たくはなかった!)
朝議に先んじて内々に劉弁へと報告を上げた時の事を思い出す。
蒼白な顔で震える劉弁に、畳み掛けるように報告を上げるのは苦行という他になく、月の心を苛んだ。けれども、報告を聞き終え、暫しの自失から自力で立ち直った劉弁の強さと、誰もが心の奥底で思っていたとある事に劉弁が到達してしまった事が、何よりも辛かった。
「……そしてもう一つ、朕は悟った事がある。先帝陛下も、父祖の歴々も、もしかしたら気付いていたのかもしれないが……恐らく、はっきりと、口に出せるほどに確信したのは、朕だけであろう」
「……陛下、それは一体……?」
恐る恐る、といった態で王允が問い掛ける。
とんでもない事が起きている。決して凡庸ではない王允である、この事態が危機的なものである事は当たり前のように理解できた。
だが、玉座に座す主君の、何かを悟りきってしまったような雰囲気は一体どうした事か。
何か。何か、とんでもない事が起きようとしているのではないか。そんな怯えが、王允の口を動かしたのである。
そして問われた劉弁はといえば、顔を強張らせる王允とは対照的に、いっそさばさばした表情をしていた。
「なに、知れた事よ。咲いた花がいつか散るように……栄華を誇った我が帝国も、散る時が迎えている。ただそれだけの事よ」
『―――』
それは先ほどの凪のような静けさとは明らかに異なる、まるで時が凍りついたような静寂であった。
心の奥底で思っていた事を暴かれた驚き、後ろめたさ。これまで在り、これからも在り続けるだろうと思っていた漢帝国の滅びが、現実のものとして迫りつつある事。そして誰であろう皇帝が、自らそれを口にするという事!
衝撃に打ち据えられ、誰もが言葉を失い、身じろぎする事もできず。文武百官が引き攣った顔を並べる様は、いっそ滑稽で。気が付けば劉弁は、くつくつと笑ってしまっていた。
「くく、そんなに驚くような事ではあるまい? 見てきた物をありのままに受け入れれば、すぐに出る答えであろう? 朕が帝位に就いてからは幾らか持ち直したと自惚れていたが、結局はこの有り様よ。最早皇帝は皇帝足りえず、帝国は帝国足り得ない。自明であろうに」
字面を追えば、捨て鉢になったとも、投げやりになったとも取れる発言である上に、この上なく不吉な言葉である。だがしかし、劉弁は皇帝であるが故に誰も咎める事ができず。まともに劉弁の顔を見る事ができる肝の座った者には、劉弁の表情に諦観の色が見えない事がわかったであろう。
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶという。古くは夏王朝より、殷、周、多くの国が興亡を繰り返した戦国時代、そして秦……。栄えた国がいつか滅びるのは、歴史が証明している。初めて太師からこれを聞かされた時は驚いたものだが……まさにその通りであったな」
「この歳まで、栄枯盛衰を存分に味わいました故……。所詮は経験でしか学べぬ愚者の賢しらな囀りに過ぎませぬ。……しかし、そんな経験でも陛下のお役に立てたのならば、そんな愚かな一生にも意味はあったのでありましょう」
静かな。しかし滲み出るほどに実感の篭められた言葉は、一字一句が帝辛の心底からの本心である。
多くの過ちを犯し、後悔を抱え。だからこそ、多くを伝え、残そうとしている。それを肌で感じたからこそ、劉弁は帝辛の秘密を知らずとも学ぶべきを学び受け入れる事ができたのである。
そして、その薫陶を受けた今、己が何を為すべきなのか。衝撃に自失こそすれ、そこから立ち戻った劉弁に、迷いはなかった。
「――だが、滅びを認める事と、座してそれを受け入れる事は別問題だ。朕は、朕が皇帝である限り、こんな私利私欲の果ての馬鹿げた終わりなど、断じて認めぬ!」
満身の力を籠めて、劉弁は地を踏み鳴らす。響く振動は、音は、そして籠められた気勢が。文武百官を正気に返す。
「我が師、太師よ! 朕はなんだ? 朕は如何なる地位にある者か!?」
「御承知の通り、漢帝国を統べる皇帝にございます」
「では司徒よ! 皇帝たる朕の座す洛陽に向けて兵を挙げた者どもは、一体なんと呼ぶべきか!?」
「は、ははっ。分別を弁えぬ反逆者にございます」
「ならば驃騎将軍よ。その反逆者に対して、如何なる行動を起こすべきか!?」
「無論、討伐あるのみにございます」
「よかろう。――相国!」
「ははっ」
玉座の前に立つ劉弁と、その前に平伏する月。二人の視線が交差する。そこにはただ、信頼と忠誠があった。
「勅命である! そちの持ち得る全てを以て、慮外者共を打ち破り、眩んだ目を覚まさせ、詰まらぬ夢想から叩き起こし、帝国が、皇帝が如何なるものであるのかを、今一度天下に知らしめよ!」
「ははっ!」
皇帝の大号令である。居並ぶ全員が、一斉に平伏する。動作はおろか、衣擦れの音でさえ一糸乱れぬ、奇跡のような瞬間であった。
程度も思いも差異はあれど、誰もが緊張と興奮に打ち震えながら首を垂れる。
月や帝辛は感涙を。皇甫嵩や霞、華雄といった武人は大きな戦乱の気配に打ち震え。
そして、劉協も、小刻みに身体を震わせながら、顔色が全く窺えぬ程に、一際深く頭を垂れていた。
そして、そんな弟の姿を、劉弁は確かに視界に捉えていた。
そして、その夜の事である。
劉弁の号令によって一つの方向へと動き始めた巨大な機構は、文武百官を巻き込んで加速している。
事ここに至ってしまえば、皇帝が為すべき事は逆に少なく、優秀な臣下の手によってその意が達されるのを待つ事の方が多い。
故に、劉弁が劉協を二人だけの酒宴に誘う流れは、自然なものであるといえよう。
「急に済まぬな。明日以降になれば、朕の下にも決裁を要するものが上がってくる故、確実に時間が取れるのは今夜しかなかったのだ」
「いえ、時間を割いて頂いて感謝しています、陛下」
「ふふ、協よ。ここには朕と協しかおらぬ。堅苦しい事はなしだ」
二人がいるのは、池の中央にある小島に作られた
「ここならば余人が立ち入る事はなく、余計な雑音もない。……よいか、ここでそなたの言葉を聞くのは朕だけなのだ」
「……はい」
「うむ、では呑もうか。朕の回りには酒飲みが多くてな、選りすぐりの銘酒を用意してもらったのだ」
笑顔で杯を薦めてくる兄に対して、劉協は辛うじて笑みを返した。引き攣っているはずのそれを見ても、劉弁は何も指摘せず、嬉しげに酒盃を傾けている。
倣って持ち上げた酒盃は、小刻みに震えていた。思い切って煽るも、味などまるでわからない。それ程に、劉協の内心は切羽詰まっていた。
「ふむ……美味いような……常と変わらぬような。粋がってみても、まだまだ子供よな。わからぬ事、間違う事は多い……。そうは思わぬか?」
「は……」
「ふむ」
それ以降、会話はなくなった。劉弁は絶え間なく、しかし舐めるように少しずつ杯を傾け。劉協はえいと一杯飲み干しては暫く黙りこみ、また一息に干しては黙りこむを繰り返す。
会話もなく、ただ杯を干す奇妙な酒会は、劉協が意を決するまで半時あまり続く事となった。
「……申し訳在りません。ぼくが迂闊な事を口にしたばかりに……」
時間を掛けて覚悟を決め、酒の勢いも借りて劉遙、橋瑁と交わした会話の内容を打ち明け。劉協はその勢いのままに、深く深く頭を下げた。
如何に皇帝の弟であるとはいえ。むしろ皇帝の弟だからこそ、国家存亡の危機を招いた責は重い。朝議の場では触れられなかったものの、こうして呼び出された以上は、何らかの形で罰を受ける事を――そしてそれがかなり重いものになるだろう事を――劉協は覚悟していた。
しかし、その劉協の覚悟と裏腹に。話を聞き終えた劉弁の反応は、穏やかなものであった。
「……成る程。然もあらん、といったところであるな」
ともすれば、この事態を予期していたとも取れる言葉に、劉協の体がびくりと震える。劉弁の視界にもそれは映っていたが、特に触れる事なく言葉を続ける。
「朕の……月のやり方が異色であると。そなたを含め……特に伝統を重んじる者から反感を買っているというのは、気付いておった。……周りを見れば見知った家名の者は少なく、帳面を見れば銭の回る道も様変わりしておる故な。受けも悪くなろうものよ。――だが、朕はこのやり方が間違っているとは思わぬ」
帝国の落日。その原因は幾つもあろうが、その一つに皇帝の権力の弱体化がある事は間違いないと劉弁は判断している。
宦官の増長を制止できず、臣下の暴走に逆らえず、結果軽んじられ、皇太子への教育もろくにされず、また弱体化が進む。
この悪しき循環を断ち切るには、皇帝権力の強化、ひいては有力諸侯の弱体化が不可欠である。
力を借りねば政権運営がままならないが、頼りすぎれば力を奪われてしまう。その恐怖感も、政策に影響しているだろう。
「朕は、民草の生活を目の当たりにした事はない。だが、宮中からも民の炊煙は遠望できる。協は、見た事があるか?」
「い、いえ……ございませぬ」
「そうか。……朕は、上がってくる報告でしか国勢を判断できぬが、この炊煙だけは朕自身が目の当たりにできる結果でな。朝夕に立ち上る炊煙は、間違いなく以前よりも多くなっておる。それはつまり、食うに困る民が減っている、という事だ。これは間違いなく成果である。こればかりは、何人たりとも否定はさせぬ。皇帝が皇帝として機能し、臣民が豊かになって。……不遜な物言いかも知れぬが、これは父上含めてここ数代の皇帝にはできなかった事だ。確かに、これまでとは違うかもしれん。だが、だからと言って間違いでもないと……朕はそう思う」
「!」
自負と実績を兼ね備え、憚る事なくそれを語るその姿は、劉協が描く皇帝像そのものと言ってよいもので。
だからこそ、その姿で、そんな理想を語る事――つまりは、幾つかの行き違いがあったといえど、此度の反乱の原因となった現在の方針を改めるつもりがないという事は、劉協の心の片隅にあった僅かな期待を打ち砕くに十分であった。
「……此度の造反、協の言葉がきっかけであった事は否めまいが、……恐らく飽くまで切っ掛けでしかないのだろうな。遅かれ早かれ、きっとこうなっておったろう。それに、下手に罰せば、それもまた火種となろう。私利私欲ではなく、国を思って口にした事であるからな」
「……は」
「だが、己の発言の重みは、よくよく注意せねばならん。くれぐれも、軽挙は謹んでくれ。そなたは、たった一人の朕の弟なのだからな……」
何処か寂しげな劉弁の言葉に、劉協はただ頭を深く垂れる事でのみ応え。二人きりの――そして最後の酒宴は、終わりを告げるのであった。
夜も更けに更け、とうに日付も変わった時分である。劉協が去った四阿に、訪れる影が二つ。
火鉢の炭も尽きかけ、染み入るような寒さの中で一人ぼんやりと立ちすくむ劉弁のその背に、現れた二人――月と帝辛は、掛ける言葉を持たなかった。
「……太師よ」
「……は」
「太師の半分も生きていない朕が言うのも滑稽だが……人生とは、侭ならぬものだなぁ……」
長い沈黙の末、溜め息と共に吐き出された言葉に籠められた悲哀を真に理解できるのは、声を掛けられた帝辛だけであっただろう。
一瞬何か言いたげな顔をした月であったが、懐かしむような噛み締めるような帝辛の横顔を目の当たりにして言葉を押しとめた。
「……人の身は、人生という大河に浮かぶ木の葉のようなものにございますれば。そして、大身であるほど、流れは激しく襲い来るものでございます」
「……大身、か……。ふふ、何故だろうな、太師に言われると、不思議と納得してしまうな……。しかし……これが朕の天命か……恨めしいものよ」
「……僭越ながら、陛下。天命だからと達観するには、陛下はまだまだ若過ぎるかと」
脳裏には悔やみきれぬ過去を、瞳には仄かな羨望を浮かべて。それは諭すような――或いは
「御身がたった独りであるのならばいざ知らず、御身の回りには御身を慕い支える者がいるのです。ましてや、殿下とも言葉を、思いを交わす事も適う。……どうか、どうか天命なぞに負けて下さいますな」
「太師……そなた……」
帝辛の瞳に映るのが、自分ではない誰かである。劉弁が察した時には、それは強い後悔と羞恥に押し流されて消えてしまったが、それだけに、劉弁の印象に強く残った。
「……出過ぎた物言いでした。何卒、ご寛恕願います」
「……父の如き師の言葉を、どうして厭おう。そうだな、経験の足らぬ若造には、突き進む事しかできぬか。露払いを任せる事にはなるが……」
「っ! ……この身を賭しましても」
「わ、私もっ。私も露払いなんて大それた事はできませんけれど、せめて御身のお傍にあってお支えする事は!」
「……ああ、そうだな。そなたらに囲まれていながら恨めしいなどと言っては、先帝たちに申し訳が立たぬ」
「……御意。この老骨の積み重ねた年月が、決して無駄ではなかった事をきっとご覧に入れます」
「私も、もう守られてばかりじゃないという事を証明してみせます」
さあ、為すべきを為そう。これまでに恥じぬよう、これからに誇れるよう。
それは、ここにいる三人の共通した思いであった。
最後の静かな夜を惜しむように。三つの影は、しばし闇夜に佇む。
そして――戦争の朝がやってくる。