- k a r e s a n s u i -

昏君†無双

 それは、一八九年末の、ある日の朝議での事である。





 大乱にて焼けた市街の復興は、それなりに順調であった。

 冬を迎えるにあたり、取り敢えず寒さを凌ぐ仮設住宅が数多く建てられており、人々はそこに住まいながら、自分たちが住むための家屋の建設に従事していた。そしてその工事も苦役ではなく、国から給金の出る公共事業(財源は先の大乱で死亡した宦官らが不正に貯蓄した財産)である。
 家を失い焼け出された民衆は、迫る冬に備えて薪や衣料品、食料を買い求め、復興事業に伴う消費と相まって、需要は増大していた。そこに財政出動と公共事業が供給されたので、景気は良化傾向に向かっていた。
 景気回復に加えて、董卓主導による民衆の慰撫政策、張遼や華雄の民衆に混じる事を厭わない姿勢、そして明確に皇帝を補佐する姿勢を鮮明にしている事などから、絶対的な人手不足による動きの鈍さこそあれど、洛陽での政権への支持は近年例を見ないほどに良好であった。



「以上が、市井での評判でございます、陛下」
「ふむ、よくわかった。さすがは司徒よな、よくまとめられておる」
「勿体なきお言葉にございます、陛下」

 三公が一にして、民政を司る司徒の任に就く王允の報告を受けた劉弁は、満足げに笑みを浮かべながら頷いた。

 居並ぶ文官武官は下級になるほどに欠員が目立つなど、未だ万座とはいかないものの、主要な官職は概ね埋まったいた。下級官吏の頭数や実務への習熟など課題は山積してはいたものの、文武百官はそれなりの名とほどほどの実を揃えつつあった。

 そんなかつての盛況を取り戻しつつある朝廷であったが、これまでと決定的に違う点がある。

「復興の状況も上々であるし、死蔵されていた財貨も廻り始めた。それもこれもそちらの尽力の賜物。良き臣下に恵まれて朕も鼻が高いぞ」

 これまでは、中常侍らがまず口を開き、それを皇帝が追認する、という流れが定番であったのだが、今ではまず口を開くのは皇帝の劉弁である。そして劉弁が作った流れに沿って議論が繰り広げられ、決議されていく。
 それは久しく見られなかった本来あるべき政治の姿であった。掛けられる労いの言葉も、文句は同じでも、それが誰の口から出たのかで大違いである。
 自然と緩みそうになる口元を意識して引き締めながら、三公が一、司徒の座に座る王允は報告を終えて元の立ち位置に引き下がる。

 豫洲刺史、尚書令を歴任し、司徒の座に至った王允。并州は太原の出身であり、有能と評判で、それに見合う結果を出し続けていた男である。
 例え上役であっても不正や誤りがあれば見過ごせない性格であり、太守にそれを疎まれていたところを、刺史にヘッドハントされた事があり、それが切っ掛けで名が売れたという中々に愉快な経歴を持っている。
 そんな少々気難しい王允であるが、この最近の喜ばしい変化に対しても、少々複雑な思いを抱いていた。

(喜ばしい。喜ばしい事ではある、が……)

 恐らく他の官吏の中にも同じ思いを抱く者は多いだろうと思われる、どうにも素直に喜べないその理由に、王允はちらりと視線を走らせる。
 決して大柄ではない自分に比しても小さな体躯、色白で華奢な、自分の半分も生きていないような小娘。そして中央政界に現れてから幾ばくも経たぬうちに皇帝の信を受け、権力の座を駆け上がり三公が一、司空にまで至った化け物。

「……?」

 真横から向けられた王允の視線に気付いたその化け物、つまりは董卓は、どうかなさいましたか、と言いたげに小首を傾げて見せた。

(……これだからやりにくいのだ……)

 なんでもないと首を振りつつ、王允は内心で溜め息を吐く。
 この董卓という少女、王允から見れば中央政界で伸し上がったのが冗談のように清廉にして清純であり、その栄達に嫉妬心を抱く自分がどうにも小さい人間であると思わされてしまうのである。
 三公の地位にありながらも決して驕るところを見せず、皇帝に対する忠誠心も本物。皇帝から多大な信頼を受け、また絶大な影響力を持っていながらも、主と従という立場を少なくとも公の場では崩す事をしない。どこかの物語に出て来そうな、絵に描いたような忠臣ぶりであった。
 また、王允が并州は太原の出身である事を知ると、その当時の事を教えて頂きたいとわざわざ邸宅を訪れ教えを乞い、同格ではあるが先達であり年上である王允に敬意を示す謙虚ぶりである。
 かといって押しに弱いのかと言えばそうでもなく、笑顔のままでがんとして譲らない強さを見せる事もあるし、并州刺史の頃には白波賊が決起した際、主力が出払って手薄な太原の指揮を一人で執ったという。

 嫉妬するのはみっともなく、自分の故郷を大いに発展させ、また敬意を示してもくれる。

(……結果として、悪い気はせんのだし、悪い奴でない事は明らかなのだ。つまるところ、引っ掛かっているのは己の小ささ、か)

 大局を見ればどうするのがいいのかなどわかりきっているのだが、ちっぽけな自尊心と対抗心がなかなかそれを許さない。
 もう一押し、何か切っ掛けでもあれば踏ん切りもつくのだが。そう考えていた王允の下に、その切っ掛けの方が転がり込んできたのは、秋もいよいよ深まり冬の気配が色濃くなった頃。そして今日この場所でこれから起こる事態、その顛末を以て、王允は決断する事にしていた。



「さて、さて。ここで朕から提案があるのだ」
「提案……で、ございますか?」
「うむ。それも司空よ、そちに深く関係のある話だ」
「……今初めて知りました」
「それはそうよ、黙っておったからな。はっはっは」

 劉弁と董卓のそのやり取りを聞いて、俄かに場はざわざわと騒がしくなる。
 皇帝と最も近い董卓が知らないとは、これは一体どういう事だろうか。これは、よもや皇帝と董卓との間に不和が生じたのではないか。
 そんな、董卓に反感を持つ者たちの淡い期待は、しかし劉弁の楽しくて仕方がない、といった様子に打ち消されてしまう。

「朕はな、司空よ。本当にそなたに感謝しておるのだ。そなたは朕の目を啓き、そして道を拓いてくれた。朕が道に迷わぬように、しかし足萎えにならぬように、示し、教え、鍛えてくれた。……本当に、朕は恵まれておる。そして、感謝しておるのだ」
「……勿体なき、勿体なき言葉にございます、陛下」

 真っ直ぐな劉弁の言葉と視線を受け、有り難くて嬉しくて、董卓はたまらず涙を浮かべて平伏した。
 その動きに一切の迷いはなく、僅かな他意も見られない。その事が、また劉弁には嬉しかった。

「ふふ……そんなそなただからこそ、朕はこうすると決めたのだ。司徒よ、よいな?」
「御意のままにございます」

 王允の返しに、再びざわめきが巻き起こる。しかも今回のは悲鳴に近いものすら混じっていた。
 なにしろ、司徒である王允に諮問したという事は、官職の任免に係わる事である可能性が高いからである。そして劉弁の様子からして、罷免の沙汰である可能性は限りなく少ない。
 しかし任命となれば、より上位の官職が用意される事になるのだが、現時点において既に董卓は司空の座にある。それ以上に高い官職となれば、実質一つしか有り得なかったからだ。

 それは、前漢創設の元勲・蕭何しょうかとその後継の曹参そうしんが就いたきり、数百年間空位であった人臣の最高位。

「董卓よ。そなたを相国に任ずる。我が太祖を支えた蕭何のように、朕とこの国を支えてくれ」

 その玉声が響いた瞬間、文武百官はおろか天地すら息を呑み、動きを止めた。
 例外はただ二つ。真っ直ぐに見つめ合った劉弁と董卓のみ。

 その時董卓は、月は。劉弁の目尻に、ほんの僅かな滴を見つけた。
 そして、次の刹那に、月はこう述べていた。

「謹んで、拝命いたします」

 誇る事も飾る事もない、ただありったけの決意と忠心を籠めた言葉だった。
 しかし、この言葉が、再び時代を動かす事になる。





 董卓、相国に就任!

 この情報は瞬く間に中華全土を駆け巡り、激震をもたらした。
 涼州の田舎出身の小娘が、三公九卿ならばまだしも、相国に至るなど、一体誰が想像できただろうか。
 これまで名家名族と言われる者たちが、どれだけ功績や財貨を積み上げても至らなかった高み。それをぽっと出の小娘に掻っ攫われるなど、自らの家柄血統を誇る者ほどに、認め難く受け入れ難い事実であった。



――冀州・業――



「こんな馬鹿な事がありますかッ!」

 主君の部屋から聞こえてきた金切声と食器の砕け散る音を耳にして、冀州袁家の大軍師、田豊は大きな溜め息を吐いた。



 田豊、字を元皓。若い頃から博学多才と評判であり、中央政界で活躍していたが、宦官の専横に嫌気がさして郷里である冀州に帰り華北袁家に仕え、袁紹が長じてからはその重臣として仕えるようになった人物である。
 そそっかしい性格の者が多い中、老練かつ安定した手腕は貴重な物であり、暴走しやすい主の安全装置として機能していた。
 田豊は当然のように今回の上洛にも同伴するつもりであったのだが、堅物の田豊の束縛を嫌った袁紹から若い世代の育成やら何やらと理屈を捏ねられ、結局留守居を命じられてしまっていたのである。

(まあ、今は危ういながらも均衡を保っておるし、顔良もついておるからそう厄介な事にはならんじゃろう……)

 胃の痛みを感じながらも自分にそう言い聞かせていた田豊であったが、その予想は脆くも崩れ去る事になる。

 変事の第一報は、田豊が独自に張り巡らせた情報網から齎された。
 その時点で判明していた事は、洛陽で大火があったという事、宮中でも何らかの政変があったらしい事、洛陽全体が混乱状態にある事のみであった。
 しかしこの時点で田豊はこの政変がかなり大規模なものであると覚悟していた。最低でも大将軍の暗殺、最悪ならば皇帝の弑逆もあり得る、と周囲に零していた事を見れば、田豊の慧眼はさすがと称されるものであったろう。

 しかしながら、情報が段々と集まるに連れて判明した真実は、田豊の想定の斜め上を行くものであった。

「……袁紹さまが軽挙に走っただけならばまだよかったのじゃが……。そこに公路さままで絡むとなるとはな」

 溜め息と共に吐き出した言葉は、内心を表すように重く低いものであった。袁術が動いた、という事は即ち張勲の悪巧みであると田豊は承知していたからである。
 袁紹の行動が家名と見栄に基づくならば、袁術のそれは幼児の欲求そのものである。そして袁術の傅役である張勲は、袁術のためならば手段を選ばないところがある。

(大方、十常侍共が公路さまも策謀の絵図に組み込もうとして、それが癇に障ったのじゃろうが……)

 その気持ちはわからないでもない。田豊も、袁紹が他者の策謀の駒とされればいい気はしない。
 しないが、その報復として宦官の大量虐殺に、同じ何進派であった董卓旗下の兵にも刃を向けるとなると、田豊の理解の範疇を越えている。

(今回の政変で、袁家は宦官、そして皇帝陛下との繋がりを殆ど失ったが、袁術さまは大将軍を暗殺した宦官を誅殺したとしてそれなりに名声を得ておる。翻って袁紹さまは、蹇碩は討ったものの出し抜かれた形になって目立った評価をされていない……)

 そして袁紹は、そんな現状に満足するような性格をしていないという事を、田豊は身に染みて理解していた。

(そこへきて董卓の相国就任の報……。儂でも苦いものを覚えるのじゃ、これは近いうちに間違いなく暴発するじゃろうな……)

 部屋からは、今も袁紹の憤慨の声と文醜の便乗する声、そして顔良の泣きそうな制止の声とが聞こえてきているが、顔良が押し切られるのは時間の問題であると思われた。

(だが単純に兵をあげるだけではただの謀反人。袁家は強大じゃが敵も多い。切っ掛けがあればよし、ないなら何としてもお諫めするか、せめて矛先を変えねば……)

 深く考え込む田豊の眉間に、深い皺が刻まれる。考えを巡らせているのもそうだが、最近とみに病むようになった胃痛を堪えているのである。
 既に老年というべき年齢に入っている田豊は、そろそろ自らの寿命を意識し始めている。自分が健在なうちに袁紹を立派な頭領に育て上げ、後進を育成し、袁紹の足元を固めておきたいのだが、ここのところの急激な動きはその猶予を与えてはくれない。
 焦りと不安を押し込みながら、田豊は深い思索の海に沈みこむのであった。





――荊州・南陽――



 絢爛なりし袁家の城、その謁見の間での事である。
 贅を尽くした豪奢な座、そこに不釣り合いなほどに小柄な少女が座っていた。

「ん〜、のう七乃や」
「はいお嬢さま。どうなさいましたか?」

 柔らかそうな小さな手に持った杯を干した少女――袁術が、ふと思い出したように傍らに控えていた張勲に問い掛けた。

「宦官を懲らしめたのはいいんじゃが、あの後火事まで起きてしまったじゃろ。妾はてっきり怒られると思っておったのじゃが、どうして何も言われないのであろ?」

 二千人以上を虐殺した蛮行を、あどけない表情のままただ「懲らしめた」と表現して見せた袁術に、罪の意識や引け目というものは一切感じられない。
 断固たる決意のもとになしたが故であるのか。何の痛痒も感じぬ性情であるが故か。

「それはそうですよ、お嬢さまに懲らしめられた宦官の人たちは、きっと心を入れ替えた筈ですから。それを思えば、不慮の事故でしかない火事の責を問う事は出来ませんよ〜」
「ふふ、当然であろ! 妾が直々にお仕置きしたのじゃ、心を入れ替えたに決まっておるのじゃ。うむ、そうすると、妾はむしろ褒められるべきじゃな!」
「まあお嬢さまったらなんて手のひら返し! よっ、この三国一の厚顔無恥!」
「にょほほ、そうであろそうであろ、もっと褒めてたも〜」

 しかしこの光景を見れば誰もが悟るであろう。
 この少女に悪意などない、確固たる意志もない。ただただ、何も知らない無知、或いは無垢な子供であるのだと。
 董卓ばかり活躍してずるい、宦官ばかり権力を持ってずるい、異母姉である袁術に先を越されて悔しい。
 その行動理念は駄々をこねる子供と大差ない――否、まさにそれそのもの。
 そして、それは傅役である張勲が、かくあれかしと望んだ結果でもあった。

(そう……お嬢さまはそれでいいんです。汚い事も血生臭い事もな〜んにも知らない、綺麗で可愛くて愛らしいお嬢さまのままで。そんなお嬢さまに汚らわしい謀略の手を伸ばしてきた宦官たちも、きっと今頃改心している事でしょうし。なにしろ死で以て償ったわけですから)

 袁術の耳目を塞ぎ、象牙の塔に押し込めているのは、何も悪意からではない。主君である袁術が愛しくて愛しくて仕方がなく、俗世の穢れに触れさせる事が我慢ならなかったが故である。
 宦官を虐殺したのも、袁紹を出し抜いたのも。
 文官を適当に間引いて董卓たちの政権に打撃を与えておいた・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・のも、愛しい主がそう望んだから、自分の智謀を尽くしただけ。

 全ては、愛しい美羽お嬢さまのためであった。

「でもお嬢さま。陛下は董卓さんに相国なんて凄い位をあげるばっかりで、お嬢さまにはな〜んにもくれませんよね」
「むぅ……それなのじゃ。七乃や、その相国とやらは何百年も就いた人がいなかったとっておきなのじゃろ? 陛下はどうして董卓なんかにそんな凄いものをあげてしまわれたのじゃろ」
「それは勿論、董卓さんが陛下に無理やりいう事を聞かせてるからですよ。董卓さんの悪行は、街でも噂になっていますよ?」
「なんと、そうなのかや?」
「ええ、本当ですよ」

 ――だって、私が流している噂ですもの。

「むう、許せんのじゃ!」
「じゃあ〜、董卓さんをやっつけちゃいましょうか?」

 にこり、と。慈愛に満ちた表情で張勲は告げる。主の望みは知れている。後はそれを如何になすか。そのための発言であり、そのために色々と仕込んできたのだ。

「じゃが、それだと宦官どもの時と同じで、妾たちが悪者にされてしまうのではないかや?」
「あらお嬢さまにしては珍しくわかってるじゃあないですか〜。それじゃあ、大義名分があれば……いいって事ですよねぇ?」
「む……む? そういう事……になるのかの?」
「でしたら大丈夫ですよお嬢さま。遠からず、きっと何とかなりますよ」
「むぅ……まあ七乃が言うならそうなのであろうな」
「ええ、いつものようにお任せ下さいお嬢さま」
「うむ、任せるのじゃ! ではさっそく七乃には蜂蜜水のお代わりをお願いしようかの」
「はぁい、かしこまりましたわお嬢さまっ」

 主に完璧な笑顔を一つ向け、張勲は謁見の間を退出し、厨房へと向かう。袁術に提供される食事は、すべて張勲が管理しており、下女などには近寄らせもしない徹底ぶりであった。
 その、道すがら。

「――張勲さま」
「はい、お疲れ様です。どうでしたか、北の方は」
「概ね張勲さまの予想通りかと」
「でしょうねぇ。あの金髪くるくるさんも芸がないんですから。……じゃあ、軍備の方は予定通り増強しておいてくださいね。お嬢さまから許可は出ましたから」
「了解」

 人知れず、そんなやり取りがあったという。





 そして、洛陽での事である。



 董卓の相国就任の方は、当然のように洛陽市中にも知れ渡った。親政に回帰した皇帝と、それを強力に補佐する董卓という構図は市井にもよく知られており、殊に洛陽の復興事業は董卓が主導していた事は、洛陽の民で知らない者はいないとまで言われていた。
 そんな洛陽市民たちは、この報を聞き、まずは一様に驚きの声を上げ、次の瞬間には判を押したように千歳を声高に唱えた。その歓呼の声は市中を埋め、宮中にまで木霊し、それを耳にした劉弁が「我が蕭何よ、遥々市中から響くあの声は、一体何の声であろうか」と満面の笑みで董卓に尋ねるほどであったという。
 王允も、任命された時の董卓の態度や変わらぬ忠義、民衆の反応を見て取って董卓支持を鮮明にしていた。諸侯の反応は織り込み済みである事を考えれば、反響は概ね予想の範囲内であると言えた。 

「とはいえ、油断はできないな。これだけの変化があったのだ、必ずどこかに歪みが生じているはずだ」
「伝統のある名家名族の反応には要注意ね。特に袁家のバカ二人は絶対にやらかすに決まってるわ」

 知恵袋たる子受と賈駆は、執金吾たる華雄(とその手綱を握る徐栄)に宮中の引き締めを命じるなど警戒を怠らず、諸侯の動静にも少ない人員をやりくりしつつ、可能な範囲で注意を払っていた。



 そんな、外に目立つ難問があったからだろうか。
 劉弁も董卓も、二人の知恵袋も。すぐ傍にわだかまっていた歪みを見落としてしまったのは。



「……どうだろうか、正礼小父の目にはどのように映る?」

 そこは、書に溢れた部屋であった。
 古今を問わず、政経軍を問わず。少しでも必要だと思ったものを全て掻き集めたような豊富さであり、そのどれもが何度も読み込まれた事を示すように草臥れている。
 しかしそこに満ちる空気は、歴史と知性から想起されるような静かなものではなく、どこか鬼気迫った張りつめたものであった。

 その部屋の主の名は劉協。今上帝の異母帝であり、陳留王の座にある少年である。

「は……綿密に練られた、なんとも劇術的な案であるかと」

 充血した目と色濃い隈、眉間に刻まれた深い皺に喰いしばった歯。焦燥を色濃く伝えてくるそれらを一つ一つ確認しながら、司空の属官にして皇族の一人である劉遙――字を正礼――は、受け取った政策案を評してそう述べる。

「芸術的……つまりそれは実際的ではないという事か」

 呻きにも似た声に混じって聞こえる歯ぎしりの音。忌憚なく述べよと予め言われていたとはいえ、恐縮せずにはいられない……。劉遙は、さもそう見えるように顔を伏せた。

 この劉遙という男、兄であり現在は寃州刺史を務める劉岱――字を公山――共々清廉にして人望ありと名高く、二龍の二つ名で以て知られていた。
 自らの血統を誇り、またそれに見合った能力と人格を兼ね備えた稀有な人材で、劉弁も重用して劉協の補佐させていたのだが、劉遙自身は決して心穏やかではなかった。

(今上帝は古き伝統を蔑ろにし、長く使える名家名族を軽んじ、あまつさえ辺境の雑じり物を重用している。これでは漢は漢ではなくなってしまうではないか!)

 その心中の叫びは、彼だけの独り善がりでは決してなかった。否、漢に仕えて長い名家名族であればあるほど、その思いを共有する者は多かったと言える。
 それは数百年も続く漢王朝の常識に従った当然の思いでもあり、また状況や時勢の変化に適応できない悪しき旧弊でもあった。また、董卓一派の多くが辺境出身であり、純粋な漢民族であるか怪しい者が殆どだった事も影響していただろう。
 ただ、その隔意が妬みや差別からのみ生じたわけでは決してなく、国を思う心から生じているのも確かであった。
 惜しむらくは、その「国」が示す物が「漢王朝」という国体に限られてしまっていた事だろう。

 かくて軋轢は生じ、何も知らない民衆が現体制を称賛するたびにそれは広がっていく。
 そして、決定打となったのが、董卓の相国就任であった。

 その座は漢の元勲たる者のみが至った、ある意味で皇帝以上に意味のある座。その神聖なる座に、何故! 何故――。



「何故あのような小娘が就く事が許されるのか!?」

 董卓相国就任の晩。劉遙は自らの邸宅にてそう声を荒げていた。

「劉遙どの、お静かに。余人に聞かれては困りますぞ……」
橋瑁きょうぼうよ……。私はこれでも耐えているのだ。背に負うものがなければ地団太を踏んでいたかも知れないのを、踏み止まっているのだ」
「……心中、お察しいたします」

 痛ましげに眼差しを伏せるのは橋瑁、字を元偉という。彼もまた漢に仕えて長い血族の一員であり、父親は大尉にまで上り詰めたほどである。人品卑しからず、古き良き漢の復活を夢見る、現体制の一角を担う才人である。
 劉遙の邸宅に招かれたのは、何れもが橋瑁のような宦官による専横に心を痛めていた名家名族――いうなれば復古派とでもいうべき人々であった。この一派は、劉弁の下で董卓が権力を拡大していく過程で、自然発生的に劉岱劉遙の兄弟の下に集う形で形成された集団である。
 皇帝の下に運営される、古き良き漢を復活させる。この一途な思いが彼らを集めたのである。

 ――新進気鋭の董卓を擁し、改革を進める劉弁の下に、ではなく。旧きを重んじる二龍の下に。

「正礼さま……。このままでは、漢は漢でなくなってしまいます」
「然様、宦官の壟断が解消されたのはまこと重畳。しかし血筋も不確かな者どもに国家を担う重職が蚕食されるなど、断じて許し難い事」
「何とかならないでしょうか……」

 集った者どもは皆口々に劉遙に訴える。
 そこには、確かに嫉妬の念もあったろう。けれども十常侍たちのそれと決定的に違うのは、そこに確かに国を思う気持ちがある事だった。
 ただ、彼らの思う「国」というものは飽くまでも古き良き漢を指すのであって、改革が行われ、新しい風が入りつつある現政権はそれに含まれていないのが、悲劇であった。

「……諸君らの思い、この劉遙の心に確かに届いている」

 手をかざして一同を制し、劉遙は重々しく口を開いた。
 先ほどまでのが激昂が嘘のように落ち着いたその振る舞いには、確かな知性と、そして威厳が溢れていた。

「私も今の漢の在り方には心を痛めている。ただ豊かになるだけ、ただ力が強くなるだけで、古き秩序は失われつつある……。私のこの胸の痛みは、諸君らの、そしてこの漢という国の痛みなのだと、私は確信している」
「おお……」
「正礼さま……」

 ある者は感激に打ち震え、ある者は涙を浮かべて劉遙の言葉に聞き入っている。一同の視線、そして期待を一身に浴びる劉遙は、しかしゆっくりと首を振った。

「しかし……しかし、諸君。現体制は強固であり、董卓の権限、軍事力は強大そのもの。かつての宦官どもの比ではない。そして……残念ながら皇帝の信任も厚く、我らの思いは届かないだろう……」
「なんと……」
「では、我らは指を咥えて漢が失われていくのを見ているしかないのですかっ」

 劉遙さま、正礼さま。そう口々に繰り返される声は、懇願と信頼の証。自分には才と力があり、そして信頼がある。その実感が、劉遙の背中を押した。

「……否。この危難にあって何もしないなど、漢の臣の名折れである」
「おお、流石は正礼さま!」
「されど、具体的には如何なさるのか。この洛陽では、我らはどうにも動き難くありますが」
「うむ。まず、思い返して欲しい。親愛なる我が兄、劉岱は先だって一体どこの刺史になったのかを。私にも刺史の内示が出ている事は、諸君らも知っての通りであるが、果たしてそれはどこの州であったのかを」

 復古派の支柱である二龍の動向には、皆の耳目が注がれている。故に、誰もがすぐに脳裏に任地を思い浮かべ……そして、その近隣に誰が存在するのかに思い至る。

劉岱の任地は寃州、そして劉遙に内示されたのは、揚州である。
 そのいずれもが、袁家の二大派閥の根拠地、冀州と荊州と隣接した州であった……。

「新参の田舎者に憤激しているのは、洛陽の外にもいる。つまりは、そういう事だ」



「……さて、そろそろ殿下もお疲れでしょう。本日のところは、これまでといたしましょう」

 そして、劉遙は追想から立ち戻る。
 劉遙が提示した条件に沿って、劉協が政策を立案し、それを評価する。ここのところ熟すべき執務を終えた後は、こうして劉遙の指導を受けるのが劉協の日常であった。
 本来ならば太師の任にある帝辛がその役を務めるのであるが、未だ成長途上にある劉弁への指導、参録尚書事としての執務、加えて張遼や華雄といった董卓一派の武官たちの補佐と訓練に指導、そして彼を慕って集う若手の文官武官の勉強会と、劉協の指導に割く時間が確保できなかった事があり、劉遙が代役として立てられた。
 もちろん、本来ならば劉協への指導の方が優先されるべき事項であったのだが、当の劉協の希望と、劉弁がそれを容れた事が大きく影響していた。

「いや、まだ時間はあるし課題も残っているぞ」
「闇雲に熟せば身に着くというものではございませぬ。時には時間を置く事、違う手を打つ事も必要でございますれば」
「……正礼小父がそういうのなら」

 同じ劉の姓を持ち、歴とした皇族である劉遙は、そう間をおかずに劉協の信任を得た。過ごした時間は董卓や帝辛の方が長いのだが、思想と血統は劉協にとってその差を埋めるに足るものであったのだろう。
 兄に追い付く事に躍起になっている劉協を御す事は、当の劉弁に近しい董卓一派には難しい事であった。その点劉遙は先の理由に加えて董卓とは距離を置いていた事もあり、劉協も素直に言う事を聞くようになっていた。

 女官(これも大乱の以前から仕えていた古参の者)に茶を淹れるように命じ、資料や書類を片付けると、張りつめていた劉協の精神もようやく緩みを見せる。現状への不満、自身の力量の不足、兄への劣等感。公においても私においても、どうにも気が休まらなかった劉協であったが、流石に尊敬する劉遙直々の指導、その直後ともなると多少なりとも弛緩してしまうのは無理はない事であろう。

 そして、老獪な劉遙には、その精神の緩みを看破する事など児戯にも等しい事であった。

「時に殿下……。少々お聞きしたい事がございますが、宜しいでしょうか?」
「よいぞ、なんだ?」
「些か込み入った話になりますが……。仲穎閣下の相国就任に関してでございます」
「っ……」
「おお、茶が参りましたな。これは間の悪い」

 眉間に皺がぎゅうとより、一気に激しそうになった劉協であるが、まさに水を注すように運ばれてきた茶杯に機先を制された形になる。たかだか女官如きに見っともない姿を晒す事は、劉協の矜持に反する事である。なにより、余人に聞かれたくない内容でもある為、言葉を飲み込むざるを得ない。
 気を取り直して茶を喫し、女官が退席した後に促されれば、劉遙がそう誘導した通りに、劉協の口は不思議と軽くなっていた。

「……予は董卓は好かぬ」
「………」
「古くからの倣いを破り、長く漢に仕える血筋を蔑ろにしておる。漢の漢たる故を冒し、己の勢力を広げるなど言語道断」
「………」
「それに……そもそも奴はその血筋も明らかじゃない。卑しい西戎の混ざり者かもしれない奴が宮中を闊歩しているかと思うと……」
「………」
「でも、状況が状況だけに仕方がない面もある、というのは理解できる。兄上も、こんな状況でなければあんな田舎者たちを用いはしないに決まっている。……そうだ、状況が打開できれば、きっと兄上も……漢も正しい姿へと立ち戻れるはずだ……!」

 初めは陳留王としての仮面を被ってぽつぽつと零された言葉は、次第に熱を帯び。遂には仮面を脱ぎ捨てて、我知らず席を立って熱弁を振るうほどに。
 そんな劉協の様子を、劉遙はただ静かに見守っていた。

「はぁ……はぁ……。すまぬ……無様を見せた」
「……いいえ、いいえ。臣は嬉しゅうございます」

 興奮の赤面を恥じらいのそれに変え、脱力したように腰を下ろした劉協をに向けて、劉遙は殊更穏やかな表情と言葉を向ける。内心には不安もあるが、しかしそれを組み伏せる事が出来る物を、劉協の言葉に見出したが故に。

「殿下の、この漢を愛するお心。臣の魂魄を振るわせるほどに伝わりました。この老僕如きが殿下と同じ志であるとは、万の軍勢……いえ、天が味方に付いたような思いでございます」
「!!!」

 天が味方に付いたような。それは、劉協を天として見た、即ち皇帝として仰ぐと発言したも同然である。

「め、滅多な事を言うでないぞ。予と正礼小父しかいないからいいものの……」
「は……出過ぎた発言でございました」
「……だが、嬉しく思うぞ。……なかなか予と思いを共にする者が少なくてな。兄上も……」
「……仲穎閣下を引き立てたのは、陛下ご自身でございますから。仲穎閣下は……形として陛下の方針そのものであると言えます。故に、仲穎閣下を用い続けるしかないのでございましょう」
「それは……そうか。董卓を用いる事を止めれば、兄上は自らを否定する事になってしまう……」
「御意。陛下は、自縄自縛に陥っておられるのでしょう。故に、殿下のお声を受け入れる事ができないのではないかと」

 劉協は陳留王であるが、同時に皇位継承権を保有している。その劉協の言葉を容れて己を否定するという事は、成る程易々とできる事ではないだろう。

「……臣ならば……いえ、臣たちならば、或いはお聞き入れいただけるやも知れませぬが……」
「それは、どういう事だ?」
「は……」

 ぱん、と劉遙が手を叩くと、それを合図として一人の痩せぎすの男が深く頭を垂れたまま入室する。

「これなるは橋瑁、字を元偉、東郡太守にございます」
「橋瑁……先の大尉の息子であるか」
「! 父をご存じで」
「うむ。直接の面識はないが……あれこそまさに名臣であるな」
「おお……なんと勿体なきお言葉……」
「このように……この橋瑁をはじめ、我が兄など多くの名士が我らと心を同じくしております。殿下のごいこう・・・・の下に我らが一致団結すれば、状況の打開も不可能ではないと愚考いたします」
「おお……。漢は……漢は、在りし日の姿を取り戻せるというのだな?」
「そう確信しております」

 劉協は理解する。自身の意向・・に従ってくれるこの者たちならば、きっと兄を説得し、翻意させる事ができるだろうと。

「そうか……。予の言葉では難しいかもしれぬが、これならば……。うむ、すまぬが、正礼小父に任せよう」

 その、決定的な劉協の言葉を受けて劉遙と橋瑁が一瞬鋭く目を光らせた。

 劉遙は曲解する。殿下はご自身の威光・・の下に我らを結集させ、そして後を任されたのだと。

(殿下はお怒りになるだろう……。だが、これも漢の為……。きっとご理解下さるはず)

 悲壮な決意の下、歯車は動き出す。
 荊州にて脈動し、洛陽にて唸りを上げた動きは、冀州へ、陳留へ、平原へ、そして中華全土へ。何人たりとも抗えぬ、巨大なうねりとなり、時代を動かし始めるのであった。

 

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