昏君†無双
――拠点フェイズ・劉弁・劉協編――
文武百官、というには数が足りないものの、朝議の間に満ちる熱気や緊張感は、半年前と比べるべくもない。
職務が山積しているという現実もあるが、多くの者が自分の頭脳や手が鈍れば、国家が滞るという事を実感している。重責であるが、この上なくやりがいがある。
得体の知れないところで性根の知れない連中がいつの間にか国を動かしていた時とはまるで違う、熱狂じみた活気が、そこにあり。
そして劉弁は、それを玉座より万感の思いで見下ろしていた。
「――陛下、以上で今朝の案件は最後でございます」
「うむ、皆の者、大儀であった。今日も各々励むがよい」
そう声を掛ける先は、三公や九卿に限らず、その場に居並ぶ全員である。
これは最近になって劉弁が自ら始めた事である。みだりに皇帝の品位を貶めるべきではないという批判もあったが、政変のしわ寄せを受けている者への士気高揚や、政権の連帯感の醸成のためとしてこれを押し通した。
雲の上の縁遠い存在である皇帝が、自分たちの事を気にかけている。
これが知れると、伝統ある名家の血筋の者の中には眉をひそめる者も少なくなかったが、叩き上げの下級官吏からの評価はうなぎ上りとなった。
打算的な側面も多々ありはするが、これも朕の大切な仲間の薫陶であるものよ、と内心で劉弁は一人ごちる。
「では司空よ、後は任せる」
「はい、お任せ下さい」
深く頭を垂れる月に背中を向け、己の執務室に向かう。
これまで月は劉弁の傍に控えその執務を輔弼してくれていたが、司空となった今はそうはいかない。今や一大派閥となった自らの勢力の領袖として取り纏めなければならないのである。
寂しさと心細さがないと言えば嘘になるが、いつまでも甘ったれた事は言っていられないし、そもそも言わせてもらえない。
今日もどうしても判断がつかないもの以外は自力で処理するようにと、こわーい太師に言い渡されている。
その代りと言ってはなんだが、今日は助っ人が一人ついていた。
「ではよろしく頼むぞ、協」
「はい、陛下」
緊張した面持ちでぎこちなく答えたのは、現時点において有力な皇位継承者にして潜在的な政敵、そして血を分けた弟である陳留王劉協であった。
現在、劉協の立場は微妙なものになっていた。
今上帝の実弟であり、次期皇帝の最有力候補である。これはいい。
しかし、次期皇帝は劉協に、という先帝の遺勅の存在が噂され、先の宦官らの蜂起の大義の一つとされ、現在主流となっている董卓派との距離も近いとはいえず――となると、途端に怪しくなってくる。
取り巻く環境も当人も手を出すには危険が過ぎるあたり、さしずめ劫火中の毬栗といったところだろうか。
で、そこにんなもんしったこっちゃねえとばかりに無造作に手を突っ込んだのが、劉弁自身であった。
そもそも劉弁自身は、劉協に対して何の隔意もない。宦官が大手を振っていた頃は、宦官に好き放題され勅の一つも碌に出せやしない父親の無様に共に憤慨し、やがてどうにもならぬ現実の前に共に消沈し。籠の鳥同士の同類意識もあって連帯感はかなり強かったと言える。
二人が疎遠となったのも、十常侍らが御輿とするために隔離し虜としたため、つまりは物理的な距離が問題であっただけであり。劉弁自身は徹頭徹尾、歳近い異母弟の事を案じ続けていたのである。
宦官という頸木が失われ、股肱の臣を得た劉弁に、弟を遠ざける理由などなかったし、人的資源の不足という現実も、それを許さなかった。
劉弁は早々に朝議の場で劉協と和解(劉弁にしてみれば敵対したわけではないので和解も何もないのだが)し、劉弁、劉協の連携を知らしめたのである。
そしてそれは上辺だけではなく、太師子受による英才教育を受けさせ始め、自らの政権の一角に組み込む意思を明確に示したのである。
因みに。一部で陛下は太師殿の扱きを分散するために陳留王を生贄にしたのだ、と実しやかに囁かれたりしたのだが。それを咎める者は何故かおらず、揃って明後日の方を向き、遠い目をするばかりであったとか……。
それはさておき。
皇帝としての劉弁の評判は、まずまずであると言ってよい。
長く国を好きにしてきた宦官が排除され、皇帝による親政が復活した。この一点だけで既に民衆にしてみれば劉弁は名君であった。
頭数の不足による政治の滞りや、洛陽の復興のための税率の据え置きなど、直接的に生活が楽になったわけではなかったが、朝廷が行動を起こしていて、それが形として見えているというのが大きかった。
軍兵に指揮を執らせて焼け出された難民を動員して復興に当たり、効率化と朝廷は見捨てていない事を示し、同時に兵たちの指揮官としての素質を磨く。
寝食を共にさせて一体感を演出し、時に霞や華雄といった市井にも名の知れた将をも派遣し、慰問、鼓舞を行い。
挙句は劉弁自身が月を抱き込んでお忍びで視察に行こうと企んで、すんでのところで太師さまにばれて、雷公鞭もないのに雷が落ちた事があった。そしてその話が
「ごほん、ごほん」
「兄う……いえ、陛下?どうかなさいましたか?」
「いや、なんでもない。始めようか」
頭数は二人でも、どちらも所詮は半人前。月が厳選した仕事は、きっと許容量のぎりぎりだろう。
半人前が二人分、兄弟力を合わせてかからなければ。
自然と緩みそうになる口元を引き締めて、劉弁は執務に取り掛かった。
その背中は、変わらない。ずっと見てきた背中と変わらない。
父親の無様に憤り、思うようにならぬ全てに嘆いていた日々と変わらない。
己が宦官の虜となり、飼い殺されていた日々に、遠目に垣間見た背中と変わらない。
帝国の北端からやってきた少女がその隣に立つようになっても変わらない。
古木のような気配を纏う男の指南を受けるようになっても変わらない。
佞臣たちから解き放たれ、名実ともに皇帝として立つようになっても。
その背中は、その大きさは変わらなかった。少なくとも、そう見えた。
けれどもそれはありえない。
歳も違えば環境も違う。耳目を塞がれ飼い殺されていた者と、厳しくも適切な指導と実践とを得てきた者とでは、差が出るのが当たり前。
だから結局は、前に進んで行っても、その背中がそれに伴って大きくなっていたから、変わらない大きさに見えただけの事。
そんな他愛のない錯覚。
「うむ、大筋はいいだろう。だが、この案件の場合はこうした方がいいだろうな――」
すらすらと筆が走り、己が作った草稿に朱が入れられるのを、劉協は内心忸怩たる思いで見つめていた。
(こんなに……こんなに差があるなんて……)
処理速度も、考え出した草案も、どれもが遥かに兄のそれに及ばない。
(いや、これはわかっていた事。下地が違うんだから、当たり前、そう、当たり前……)
「いや、朕も最初は酷いものでな。書面は黒よりも朱の方が目立つ事も珍しくはなくてな……」
「……お恥ずかしい限りです」
「なんの! 協も子太師に教えを乞うているのだから、こうして偉ぶっていられるのも今のうちであろうな」
かんらと嬉しげに笑う兄に、不出来な弟を厭う素振りはなく、劉協はほっと安堵の息を吐く。
(それにしてももどかしい……。兄上は着実に実績を上げているのに)
劉協も、自身の立場が不安定である事は薄々わかっている。だからこそ、兄が自分を疎んじる事なく、むしろ信頼してくれているのは、例えようもなく嬉しい事であった。
我ら兄弟力を合わせれば、漢王朝は不滅である。
そう信じ、少しでも兄の力になろうと日々努力している。
しかし現実はどうか。
力になるどころか、今もこうして朱をつけてもらい、足を引っ張ってばかり。いくら劉弁が気にしていなくとも、劉協自身がそれに甘んじる事を許さなかった。
(早く
本音を言えば、不満はある。
なるほど、今の兄の権勢を支えているのは董卓一派であるのは確かだろう。どれだけの信頼が結ばれているのかなど、一目見れば明らかである。
しかし。
(古くより漢を支えてきた名家名族ならばいざ知らず、あんなぽっと出の者に頼らないといけないなんて。昨今の改革にしてもそうだ。どうにも前例を外れすぎている。古くからの倣いを顧みなさすぎる)
過酷な現実にさらされた劉弁と、籠の中に閉じ込められ続けた劉協と。
その環境の違いが、ここへ来て現れる。
立ち塞がる現実を前に、かつての漢王朝に戻すのではなく、新たな漢王朝として確立させる事を選んだ、或いは選ばざるを得なかった劉弁。
その政策を、柵が取り払われた後に表に出てくるようになったため、理想を理想のまま抱き続けた劉協は受け入れる事ができずにいるのである。
とはいえ、今の劉協に何ができるわけでもなく、また兄を蹴落としてまでそれを望むわけでもない。
実務の経験を積み、判断力を鍛え、度胸も備えなければ、全盛を誇った頃の偉大なる皇帝たちに顔向けできない。
思うところはあるにせよ、太師として教鞭を(文字どおり)振るう子仰聞は、指導役としては最適であると劉協も認めるところである。
募る焦りを懸命に押し殺しつつ、劉協は静かに牙を研ぐのだった。
――拠点フェイズ・帝辛編――
「っ! っ!」
陽はとうの昔に落ち、今日の激務を終えた官吏たちも、深い眠りに沈む頃。
太師にして参録尚書事、帝辛に与えられた邸宅の中庭から、既に寝静まった家人の眠りを邪魔せぬように潜められた気合いの声が漏れ聞こえていた。
灯されるは蝋燭一つ、闇を裂くは飛雲剣U。翌日の下準備を含めた公務を全て終え、余人が眠りに就くような時間から、帝辛の鍛錬は始まっていた。
これまで使っていたのは偃月刀、飛雲剣Uは長刀。当然扱い方は異なる上に、飛雲剣Uは正真正銘の大業物。相応の鍛錬を積まねば振り回す事はできても使いこなす事はできないだろう。
当然鍛錬にも熱が入り、陽が落ちて久しい事もあって、汗ばんだ身体からはゆらりと湯気が立ち上っている。
「ふう……」
「帝辛さま」
「うむ、もう二時も経ったか」
それなりに納得がいくまで剣を振るい一呼吸入れたところで、影のように控えていた鯀捐から声が掛かる。
「はい。このままではお風邪を召してしまいます。今、お拭きしますね」
そう言うや、鯀捐は上等なふわふわの手拭いで甲斐甲斐しく上着を肌蹴た帝辛の汗を拭き取っていく。帝辛も照れの欠片もなく、どっかと腰を下ろして身を任せている。もとは一国の王だったのだから慣れたものである。
「帝辛さま、最近は特に熱が入っておられますね」
「うむ……。得物に見合う腕に仕上げなければならないからな。それに、私もいい歳だ。油断すればすぐに衰えてしまうだろうからな」
「とてもそんなお歳を召した身体には見えませんけれど……」
そう言うと鯀捐はつくづくと眼前の肉体を眺める。
確かに、肌からは青少年の弾けんばかりの張りは失われており、ところどころに皺なども見受けられる。頭髪などは既に真っ白で、そういったところだけ見て取れば、成る程老境にあるというのも納得がいくだろう。
しかし、肌の下の筋肉は全く以て衰えておらず、触れるとみっしりと締まっているのがよくわかる。白髪であると言っても、なんというかただ白いだけで潤いがないとかすぐ抜けるとか、そういう事はない。何よりも、気力が違う。
并州時代から比べても、むしろ若返っているような印象さえ受ける。これで一年半ほど前までは廃人のようであったというのは、俄かには信じられない。
(……一度焼けたから、火が付きやすいのかしら?)
案外的を射ているかも知れないなと思いながら、鯀捐は気掛かりであった事を尋ねる。
「それにしても、帝辛さま。最近無理をしてはおられませんか?」
「はは、この程度で無理などと言っては録尚書事さまに叱られてしまう」
「それは、そうですけれど……」
先ほどの自分の思考が恨めしい。
一度焼けた木は燃えやすいが、その分燃え尽きるのも……。
「……いえ、違いますね。無理をなさっているのではなくて……そう、酷く焦って、気負っておられる」
「………」
帝辛は答えない、薄く笑み――苦笑い?――を浮かべたまま。
「お気持ちは……わかるなどと軽々にはとても……。ですが、察するくらいならば私にもできます」
周りは皆年若い少女ばかり。洛陽の闇は未だ深く、抑え込んだ敵は反発の力を溜めているのだろう。
導くべき皇帝もまた幼く、そして導く己に対しても、また不安があるのだろう。
背負うと決めて、進むと決めて。それでも背負った物の重さが変わるわけではない。
鯀捐は、帝辛の事情をおおよそ把握している。直接教えられたわけではないにせよ、会話の端々に散りばめられた情報を纏めれば、なんとなく察しがついた。ともすれば、知って欲しかったのかも知れないとさえ思える。
その相手が自分だったのは、立場の違いからなのだろうな、と鯀捐は察していた。
何と言っても鯀捐は侍女である。侍女が主人を支える事の、一体どこに問題があるというのか。
そんな言い訳ができる鯀捐は、帝辛が自分以外の誰にも憚る事なく支えを求める事ができる相手なのであった。
「……今更迷いはない。それでも……どうにも気が急いて、息苦しくなる時がある」
「………」
「これから先、戦もあろう、政争もまだまだあろう。これでよいのか、他にはないか。一日を終えて振り返れば、そんな事ばかり考えてしまう」
「……ふふ、珍しいですね。そんな率直に弱音を吐かれるなんて」
「まあ、偶にはな」
「ええ。偶には、ですね」
救いを求めるでなく、慰めるでなく。吐き出し、それを受け止める。
慎ましやかな、それでいて確かな絆がそこにはあった。
そのまま、暫くの時が立つ。
汗はとうにひき、身体も冷えつつあったが、お互いが触れ合う肌は、やけに熱く感じられていた。
「……うむ。済まんな」
「……その……宜しいので?」
そうして。大きく息を吐いて、終わりを告げようとした帝辛に、鯀捐がおずおずと問い掛ける。
すい、と帝辛の視線が吸い寄せられ、鯀捐の熱を帯びたそれと絡み合う。
「……うむ。……偶には、だな」
「ええ、偶には、です……」
―――。
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―――――――――。
――拠点フェイズ・霞・華雄編――
「お、おい。見ろよあれ……」
「なんかもう人間業じゃあねーよなぁ……」
「ああ。怪獣大決戦ってい感じだもんな……」
練兵場は朝の調練の時間、いつもならば一心不乱に調練に励む兵卒たちだが、今日はそんな彼らの耳目を引きつけてならぬ一角があった。
「そぉりゃッ」
「なんのッ」
「……張将軍と華将軍か。董卓派の二枚看板は伊達じゃあないって事か」
「力と技の武威すr」
「それ以上いけない」
周囲の喧騒をよそに二人の模擬戦は続き、結局その日は兵卒たちは看取り稽古に終始する事になったのであった。
「いやー、ついつい熱が入ってしもうたなぁ」
「ああ、最近はこうやって身体を動かす時間もなかなか取れんからな」
将軍位に就き禁軍に対する多大な影響力を持つようになった霞と、宮中警護の全権を担うようになった華雄。
背負う責任も職務も激増し、また、兵や将としての働き以上に、将の将としての行動が求められるように変化している。
将軍として圧倒的な経験を持つ皇甫嵩が指導、補助をしてくれているのでどうにか回せているものの、気性的に合わないものはやっぱり合わないもので。
「こうやってたまにはぱーっとやらな気が滅入ってまうわ」
「かといって熱が入れば今度は自重せよと言われて、か。侭ならんな、やはり大身になどなるものではない。一個の
鬱憤の全てをぶつけた模擬戦ですっきりテカテカになった二人は、背中合わせに地べたに座って駄弁りながら身体の火照りを冷ましていた。
「あー、これ終わったらまた書類仕事かいな……」
「言うな、憂鬱になる……。ただでさえ鯀捐が休みなんだ……」
「あー、いっつも手伝ってもらっとるからなぁ。おらんとなると、そらしんどいわな」
「休んで欲しいが休んで欲しくない板挟みだな……」
今後の健全な自分たちの書類仕事のためにも、どうか鯀捐がすぐに良くなりますように、と手を合わせる二人である。
――某所――
「うぅ……、ま、まだ腰が……(赤面」
「ま、憂鬱な話は置いといてやな。ちょいと聞きたい事があるんやけど」
「うん? なんだ?」
「いやな、
「ああ、アレか」
奉先。姓を呂、名を布。三國無双の武勇を誇り、黄巾の乱に際しては、その武名のみで三万からなる黄巾党を壊走させたという。
それだけを聞けば、一体どんな豪傑なのかと想像するのが至当だろうが、その実態は幼げで小柄な少女なのだからわからないものである。
「や、最初は辛やんが取っ捕まえたって聞いた時は仰天したけどなぁ」
「いざ捕まえてみたらあれだからな。あれで万夫不当とは思えん」
華雄のその発言は、何も外見の印象だけから出たものではなかった。
拘束されてから一月余り。その勇名と何進大将軍を殺害した下手人という立場もあって、当初は最大級の警戒を以て尋問が行われたのだが、それは半月も続かなかった。
「抵抗するでもなく命乞いするでもなく、ただぼけらーっとしながら聞かれた事に淡々と答えるだけやもんなぁ」
「打てば響くが打たねば鳴らぬ……か。自発的な行動は食事と鍛練と飼い犬やら諸々の安否に関してのみで、他は全て受け身。尋常とは思えんな、どうにも掴めん」
「武勇は本物や、それは確かなんやけどな。それ以外がまるで赤ん坊みたいや」
「赤ん坊の無垢さか……」
霞の言葉に思うところがあったのか、華雄は暫し考え込み。そしてこんな事を言い出した。
「なんというか……巫女のような存在、なのかもしれんな」
「巫女?」
「ああ」
自分の中で考えを纏めながら、ゆっくりと華雄は持論を述べる。
「巫女というやつは、つまり神と繋がるための存在だ。そのためには強い自我は邪魔になる。つまり……赤子の無垢さが必要であるわけだ。神意を容れて神威を振るうが故に、赤子の無垢さと超常の力が両立する……のやも知れん」
「……あかん、普通やったら笑い飛ばせるんやけど……」
「そうだ。あの白装束、方士がいる」
「はあ〜、地の底から蘇った千年前の王といい、干物で占う占い師といい、黒光りする仙人といい、白装束といい……」
「おまけに最近は天の御遣いを名乗る輩もいるそうだぞ」
「天。天か……そらあかんな。以前ならわからんけど、今はあかんな」
天子。天命を受け、天の子として統べる者。それが皇帝である。それを差し置いて天から遣わされたなどとの給うのは、天子を擁する漢王朝として、宦官の専横を許していた時期ならばいざ知らず、天子たる劉弁の下纏まっている現状では捨て置いていいものではない。
「あかんけど、今は手が回らんなぁ」
「うむ。それに、なんだ、そういう政治面の話は録尚書事どのにまかせるべきだな、うん」
「うわあ……。でも気持ちはようわかる。他にウチらにわかる事といったら……」
「食事中の奉先が神憑り的に可愛らしい、という事くらいだな」
「……ああ、それはようわかるわ」
心地よい疲労感に任せて会話を揺蕩わせる二人。いつの間にか練兵場から人気は殆どなくなっていた。
「ま、ウチらはウチらがわかる事をやっていけばいいんや」
「うむ、武人の本分を熟すのみだな」
「……おほん」
「「ッ!?」」
締めのセリフに入って休憩を終わらせようとした二人であったが、そうはさせじとばかりに咳払いが響く。
慌てた二人が振り向くと、そこには。
「げえっ、義真のじっちゃん!?」
「い、いつの間に……」
「はっはっは、二人とも大身になっても鍛錬は欠かさずにいるようですな。この皇甫嵩、感心しましたぞ」
からからと笑うのは、漢王朝の宿将であり、驃騎将軍の地位にある皇甫嵩であった。
霞、華雄共に、立場的にも経験的にも為人的にも、どうにも頭の上がらない相手である。
一見好々爺にしかみえず、その実態もそれで間違いではないのだが。この老人、職務に、つまりは漢王朝から与えられた命令にとてもとても忠実であり、それを熟さぬ者に対しては非常に怖いのである。
「成る程、武人としては見上げたものですな。――しかしお二人とも既にただの武人ではないのですぞ? 将軍としての本分も、きっちり熟していただかなければなりませんなぁ」
「「は、はいッ。仰る通りですッ」」
「おわかりになったのでしたら……とっとと行かんか小娘がッ!」
「「はいぃッ」」
すたこらさっさと駆けていく二人を見送って、皇甫嵩は表情を緩める。声を大にした瞬間は悪鬼もかくやという表情だったのが嘘のようである。
「やれやれ、まだまだひよっこですな。だが、それ故に見守るのが楽しくもある。まだまだ若い者には負けておれませんな」
はっはっは、と笑いながら。
誰よりも長く漢王朝を見守ってきた男は、老境に入った今こそが、最も充実した時期であると感じていた。
「漢は、まだ大丈夫だ。このままいけば、少なくとも今上陛下の御代は平穏と再興が叶うはず……」
儚い夢と知りながらも、そう願わずにはいられない皇甫嵩であった。