- k a r e s a n s u i -

昏君†無双

「わかんない……わかんないのよッ。本当に、何があったのかッ。全然……全然わかんないのよ……ッ」
「……確かに気配はあらへんかった。あの角を曲がる、曲がったその時まで、確実に、や」
「身体に異常はない。殴られて昏倒した、という訳でもない。本当に、角を曲がったその刹那から、こうして目が覚めるまで。切り取ったように記憶がないのだ……」

 茫然自失の月に、半狂乱の詠。只々唇を噛む事しかできない霞と華雄。
 後手に回らざるを得なかった状況で、どうにか拮抗から挽回へ持っていき、ひっくり返したと思った矢先での不可解にして理不尽といっていい、皇帝を奪われるという致命的な再逆転。
 それも現場にいたはずの自分たちが気付けずに、門の警備に当たっていた徐栄隊からの急報でそれを知るというていたらく。
 何もできず、気付けばそうなっていたという、理解の及ばぬ事態への恐れも、意気消沈に拍車をかけていた。
 しかしながら帝辛には、一つ思い当たる事がある。

「うむ……。その奇怪な出来事についてだが、私の方でも心当たりがあったぞ」

 戦力の再編を指示しながら、丁原と呂布の一件を説明する。

「……成程な、つまり人の精神に干渉する事のできるモンが暗躍しとるっちゅうわけか」
「眉唾物、とは言い切れんな」

 華雄の脳裏に浮かぶのは、いつぞや太原で出会った占い師。あれも様々な意味で尋常のものではなかったと思い返す。

「受け入れがたい事だけど……そう理解するしかなさそうね……」

 目の前に生き証人がいる事だし、と溜め息を吐きながら詠が再起動する。
 占いや祈祷が一定の重きをなす時代である。既に帝辛という存在を受け入れている以上、今更何をかいわんや、と開き直り気味ではあったが。

「ともあれ、張譲たちが城外に逃れたのは確実。急いで追撃するわよッ」

 袁紹や曹操の動きは気になるが、それも今は置いておくしかなくなってしまった。どんなに軍事的に有利であったとしても、皇帝が奪われては元も子もない。
 宮中から兵を引き払うと、大将軍府を仮の拠点として兵や保護した官吏を収容し、守将に徐栄、呉匡を当ててすぐさま追撃の兵を出す。
 ここまでで半時(約一時間)足らずが経過していた。
 宮中の混乱を考えれば十分素早い展開ではあったが、それでも焦りは募る。
 そも、張譲らがどの方向に逃げたのか、宮中に耳目を集めていたがために、把握できていなかったのである。
 候補としては長安、皇族である劉焉が治める益州、同じく皇族の劉岱が治めるエン州などが候補に挙がっていたが、断定には至らず。
 三方それぞれに追撃を出さざるを得ないか、というところで張遼が近づいてくる一隊に気が付いた。

「なんや、騎馬の一隊が近づいて来とるで。百騎っちゅうとこやな」
「なに? というか、あの旗は……」
「あれ? 漆黒の華旗、って……」
「私の旗……まさか、胡軫こしんかッ」
「胡軫……確か、洛陽に残ったお前の部下だったな。そうか、十常侍の妨害で合流が叶わなかったが、この騒ぎで頸木が外れたか」

 華雄が并州行きを命ぜられた際。彼女は最初凡そ一万もの兵を連れて行こうとして、帝辛に諭されて七千を洛陽に残していた。
 その残された七千を統括していたのが、胡軫である。
 上洛した折、華雄は胡軫と繋ぎを取ろうとしたのだが、七千もの軍勢を何進派に合流させる事を危惧した宦官たちの横槍により、合流どころかむしろばらばらに配属されてしまい、今の今まで面会すらできずにいたのであった。
 しかしながら、胡軫は地道にこつこつと仲間たちと連絡を取り、華雄との合流を目指して水面下での活動を続けており、宦官による統制が失われた今、敬愛する元上官に一臂の力を貸すために蜂起したのである。

「将軍、華雄将軍ッ。お久しゅうございますッ。洛陽市中に散らばる元華雄隊凡そ七千、ただ今をもちまして将軍の下に帰参いたしましたッ」
「うむッ、やはり胡軫か。無事の合流嬉しく思うぞッ。この状況下での加勢とは、百万の軍を得たにも等しいぞ!」
「はは、それだけではございません。市中に散った同胞より、洛陽を脱した宦官どもと思しき一行を捕捉しております。……そちらにおわすのが董侍中と察しまするが、この報せをもちまして、忠誠の証とさせていただきたくッ」

 胡軫が言うや否や、騎兵百騎が一斉に敬礼をする。
 騎乗したままであるのを無礼と見做すような者はいようはずもなく、また居並ぶもののふたちの表情からも、その言に偽りない事が窺える。
 しかし、たった今宦官どもの策謀に絡め捕られたばかりの身としては、そう易々と信じられるものではない。

「……申し出はありがたいわ、凄く。でも、ボクたちはアンタたちを知らず、アンタたちもボクたちを知らない。それでどうやって信を得ようっていう訳?」

 華雄と離れていた間に、宦官に調略された者はいないのか、今からでも欲に駆られて裏切る者はいないのか。
 先刻の詠の狂乱を知る者からすれば、それを疑心暗鬼と断ずる事はできはしない。
 しかし、胡軫たち、そして華雄はきょとんとした表情を浮かべ、かと思えば大口を開けて一笑に伏してみせた。

「これはこれは、異な事を申される。董侍中と華雄将軍との間に主従の縁が結ばれてより凡そ十月。それだけの期間があれば信頼が生まれいずるは必定というもの。現に将軍は実にいきいきとしてお仕えしておられる様子。ならば我らもそれに倣うのは当たり前の事でござろう?」

 だって華雄が仕えているから。
 身も蓋もない言い方をすればそういう事である。
 あんまりと言えばあんまりであるが、同時にこれ以上なく華雄の部下らしい言い種である。
 この将にしてこの兵ありかと、問答無用で納得させる何かがそこにはあった。

「ふふ、そういう事でしたら納得ですね。董仲穎の名において、皆さんを胸襟開いて受け入れましょう」
「ははッ、ありがたき幸せッ」

 詠よしっかりしろ割り切るのだ、ええい要は華雄が増えたようなものよッ、あかんそれは賈駆っちと辛の胃に穴が開いてまう、おいそれは一体どういう事だ。
 等々、一瞬だけ弛緩した空気が流れるが、月が歓迎を表明し、胡軫がそれを受け入れれば意識が切り替わる。

「その馬車は、一路西へと進路を取りましてございます。辿る道を鑑みれば、向かう先はまず間違いなく長安でございましょう。予備の馬を連れてきておりますので、こちらをお使い下され」
「お、これは至れり尽くせりやな。有り難く借り受けるで」
「は、神速将軍のお眼鏡に適うほどの駿馬とは参りませぬが、ご容赦下され」
「なんの。二足の足しかなかったとしても、宦官ずれに後れを取るような我らではない。況や騎馬を得ようものならな」
「うむッ、では胡軫よ、久方の共闘だが、先導頼むぞッ」
「はッ、お任せあれッ」

 予め華雄との合流を目指していたのだろう、胡軫は自身らの乗騎以外にも騎馬を用意してしていた。
 これを借り受け、月も詠も含めてさっそく追撃に出る。

「こう見えても、涼州の出ですから。私も詠ちゃんも、それなりに乗れますよ」

 とは月の言葉であるが、なるほど交戦時の行軍速度にも問題なく追従できていて、月を危険に晒す事を渋る華雄も渋々これを認めざるを得なかった。
 そも、この場にいる面々の中で、最も政治力を持ち、皇帝からの信の篤い月を連れていく事は、皇帝の心情面を考慮すれば、むしろ歓迎すべきものであろう。
 加えて、目標とした一向には軍勢がほとんどいない事もわかっている。
 どこぞの軍勢に合流される前に捕捉してしまえばいいのだから、ここで逡巡するよりもこのまま統率された軍勢の只中にあった方がいいだろうし、寧ろ混沌の坩堝と化した洛陽にその身を残していく方が危険であろう。
 こうした判断の末、董卓勢の首脳は一時的に揃って洛陽を離れる事となった。

 どこかの誰かがかくあれかしと、そう望んだように。





 がたごとと軋みを上げて走る馬車の内部は、ぎゅうぎゅうに押し込められた金銀財宝やら重要書類やらで溢れ返っていた。
 そんな中に荷物同様に押し込められた劉弁は、久し振りに会った腹違いの弟に抱き着かれながら、目まぐるしく推移した事態を必死に把握しようと思考を巡らせていた。

「(……仲穎の手引きで虎口を脱して、見つかる危険の極めて薄いはずの私室に護衛と共に潜んでいた。ここまではいい。問題は……)」

 気が付けば――そう、それは気が付けばとしか言いようがなかったのだ。
 いつ見つかるか、見つかればどうなるかという筆舌に尽くし難い緊張感の中で、まさか眠ってしまったわけでもないというのに。
 気が付けば、護衛の兵は打ち倒され、自身を傀儡としていた張譲、段珪に囚われてしまっていたのである。
 籠の鳥を嫌い頸木から逃れた自分を張譲らがどう思っているのか、想像するに容易い事であった。
 しかも張譲らは劉協の身柄をも抑えており、もはやこれまでかと劉弁が覚悟を決めたのも無理ない事であった。
 物理的には疎遠であったとはいえ、同じ血を分け、自分の亡き後は帝位を継ぐであろう弟である。
 せめてこの一時だけでも護り、兄として皇帝としての背中を見せ、茨の道を歩く事になるだろう弟への支えとなろう……。
 そんな悲壮な覚悟を決めた劉弁であったが、しかし張譲らは連れ出された劉弁に対して不気味なほどに反応を示さなかった。
 恐ろしいほどに淡々と長安への脱出の手筈を整え、馬車に財宝やら共々劉弁と劉協を押し込むと、すぐさま出立したのであった。

「(興味すら失ったか、今はそれどころではないからか……。どうにもしっくりこない。命があるだけましと言えばそうであろうが、朕が虜となった事で仲穎らの動きが制限されてしまうのではないのか……。なんとか隙を見つけて逃げ出さねばならぬ……)」

 この窮地にあっても、なおあきらめずに打開策を求めて足掻く事ができる。
 それは、ここ数ヶ月での確かな成長の現れであった。
 もし帝辛や月がここにいれば、その成長に眦を下げただろうが、その二人はここにはいない。
 いるのは、恐怖に震えながら羨望と疑問、そして僅かな嫉妬が綯交ぜになった眼差しを向ける少年。
 即ち陳留王、劉協のみである。



 劉弁と劉協の関係は、些か以上に複雑なものである。
 そも、劉協の生母である王美人からして、劉弁の生母であり皇后である何氏の嫉妬を受けて毒殺されているのである。
 誰がどちらを担ぐのかという勢力争いは日常茶飯事、そんな陰惨な政争の真っただ中において思春期を過ごした二人であったが、しかし辛うじてではあったかもしれないが、その関係は致命的な破綻をきたしてはいなかった。

 それは、所詮二人とも無力な籠の鳥に過ぎないという諦念に基づいた共感があったからであろう。
 次期皇帝であろうが、王に封ぜられようが、政争に使われる御輿である事に変わりはなく、価値がなくなれば殺されてしまう事にも変わりがない。
 それならば、そんな些細な事で気を立てていても精神の擦り減り具合が酷くなるだけ。
 だから、心の奥底で互いの身を案じていたとしても、ただそれだけでしかなかった。

 そんな状況が変わったのは、董仲穎が現れてからである。
 何進に呼ばれて上洛し、光禄勲の地位を得たかと思えば侍中となり、劉弁に拝謁し――そしてその信を得た。しかも宦官を抑え込んで、である。
 その後も月の為人と詠たちの実績とで、その信を更に確かなものへと変えていく。
 そしてその交流の中で、劉弁は一個の人間として、そして統治者として成長していく。
 このままいけば、やがては泥濘より解き放たれ、昇龍となって天へと翔けるだろう。

 ――未だ澱んだ泥沼に囚われたままの劉協を置き去りにして。

 劉協は、先帝が次期皇帝に望んだとされているために、宦官派の切り札としてその身柄を押さえられていた。
 宦官らにしてみれば、御輿として帝位についてしまえさえすればよいため、当然のように意志を萎えさせ、学ばせる事もしなかった。
 兄が龍とならんとしているというのに、自分は未だ泥沼で喘ぐ鯉のまま。
 憧憬と共に、そこに嫉妬の念が生まれたとしても、おかしくはないだろう。



 とはいえ、この状況である。
 恐怖と不安がその他の感情を圧倒していたため、心細さに耐えかねた劉協は、兄の身体にしがみ付いた。

「協?」

 弟の震える華奢な体を感じて、劉弁は思索から引き戻される。

「済まぬな、どうやってこの窮地を脱しようか考え込んでおったのだ」
「……兄上は、怖くないのですか?」
「怖くないはずがなかろう? 見よ、朕の手も震えておるわ」

 掲げて見せた手は、しっとりと汗に濡れ、確かに小刻みに震え、劉弁の恐怖を示していた。

「朕も、協と同じで怖くて堪らぬ。堪らぬが、このまま震えていても、何も変わらぬ。なればこそ、考えねばならぬ。朕はそう学んだ故な」

 言いながら、我ながら随分と図太くなったものだと劉弁は思う。
 仲穎に出会う前の自分ならば、まず間違いなく劉協のように震える事しかできなかっただろう。
 それが今ではどうにか恐怖を押さえて、泥臭くも脱出の算段を探している。
 指導鞭撻が確かに己の血肉となっている事が嬉しかったし、何よりも。

「なに、朕がついておる。何と言っても朕は皇帝であるし、何よりそなたの兄であるからな。可愛い弟一人護れんで、どうして国を治められよう。案ずるでない」

 脅える弟を支え励ます兄でいられる事。
 その事実が嬉しく誇らしかった。
 そして、胸に誇りを抱いていればこそ、震えながらであろうとも、前を見据えていられるのである。

「よいか、協。そなたは一人ではない。朕がついておる。そして、朕も一人ではない。そなたがおるからこそ、朕はこうして立ち向かえるのだ。それに、だ」

 遠く、耳を澄ませば聞こえるだろう。
 がたがたと落ち着きなく遁走する馬車の軋む音に混じって、逞しく迷いのない、統率された馬蹄の音が。

「何と言っても、朕には頼れる臣が……。いや、敢えてこう言おう。仲間が、おるからな」

 並走する他の馬車や護衛の兵が動揺する声が聞こえる中、劉弁は誇らしげに弟に告げるのだった。



「見つけたでぇッ。どうする賈駆っちッ?」
「馬車をそれぞれ孤立させなさいッ。分散して浸透、連携を断つのよッ。陛下の身柄を盾にされる前にッ。護衛は適当に蹴散らせばいいわッ」
「軽く言うッ。できるか胡軫ッ」
「ご命令とあらばッ」
「よし、では……突撃ぃ!」
「……うむ。相変わらず見事な突撃。しかも今回は知恵袋も御者もついているときた。安心して見ていられるというものだな」
「ほらそこっ、駄弁ってないでアンタも仕事するッ。まだ終わったわけじゃないんだからねッ」
「そ、そうですよッ。もし陛下のお心が傷つかれていては画竜点睛を欠いてしまいますッ」
「む、これはしたり。では、気合いを入れ直して、参るとしようッ」

 勿論、誰もがここが大詰めであると知っている。
 後手を踏まされ翻弄されもしたけれど、ここを乗り切ればなんとかなると、ここを乗り切れねばどうにもならぬと。
 そうして。
 これだけの面子の誰も彼もが油断なく事に臨んだ甲斐あってか、ここに至る経緯に反して、あっさりと言っていいほど容易に皇帝と、そして陳留王の身柄を保護する事ができたのである。





「張譲、段珪らは舌を噛み切って自死、持ち出された重要書類、宝物の類も回収、そして陛下と殿下もご無事、か」

 どうにかなったか、という安堵が帝辛の偽らざる内心である。
 張譲、段珪の遺体の回収、隊の再編を終えた一行は、既に洛陽への帰還の途についていた。
 月と詠は、劉弁たっての願いで劉協と共に一つの馬車に同乗し、二人の慰撫に努めている。
 華雄は胡軫と共に行軍の指揮を執っているため、手の空いていた帝辛の傍には、同じく手隙の霞しかいない。

「なんや納得いかん事ばっかり起こっとったような気もするんやけど、まあどうにかなった……って事でええよな?」
「うむ……。大将軍閣下が討たれたとはいえ、策謀の根源たる十常侍は壊滅、陛下の安全も確保できたとなれば、これ以上事は起こるまい……。いや、起こって欲しくないというのが正直なところだな」
「あー、それはウチも同感や……」

 立て続けに、余りに多く事が起こりすぎて、さしもの二人も疲労の色が隠せない。
 後は政敵の消えた洛陽に戻り、陛下に堂々と政治を主導していただき、政を立て直せばよい。
 さすれば時間は掛かるだろうが国が安寧を取り戻す事もできるだろう。
 二人はそう思っていたし、皇族二人の相手をしている月と詠にしても、似たようなものであった。


 どちらにせよ、一行が洛陽に戻った時には、確かに事は既に終わっていて。
 はや取り返しのつかない事態となっていたのである。
 彼らがそれを悟ったのは、土気色の顔をした徐栄らの出迎えを受けた時であった。





「陛下と殿下におかれましては、一旦安全な大将軍府にお運び下さいますよう……。宮中は、とても正視に耐えません……」

 地に減り込まんばかりに伏して詫び続ける二人を宥め賺し、武人三人のみが宮中へ踏み入れたのは、呉匡のその言葉があったからであった。



「これは……」
「なんちゅう……」
「確かに、これはお見せするわけには……」

 戦場を知る三人をして、眉を顰めざるを得ない。
 漢帝国の中枢も中枢、洛陽の宮中とは思えないほどの、酸鼻極まりない光景が広がっていた。
 凡そ見渡す限りの血痕、場所によっては死体が七分に地が三分という地獄絵図である。

「中軍……いえ、袁紹の部隊が乱入して暫く経った後でした。……袁術めの部隊が突入してきたのは」

 嫌悪も露わに語る徐栄が言うには、門を人数を以て強引に突破した袁術勢は、突入するや白刃を煌めかせ、徐栄の部隊を蹴散らしたという。
 鎮圧を旨として行動していた徐栄に対し、袁術勢は容赦なく真剣を振るったのである。
 予期せぬ襲撃に徐栄勢は瞬く間に数十人からの兵を喪い混乱、部隊としての統率を保てなくなる。
 そして徐栄勢が崩壊したのを見て取るや、袁術勢の凶器は逃げ惑う宦官らに容赦なく向けられたのである。

「無秩序な逃散を防ぐために、纏めて留め置いていたのが裏目に出ました。宦官たちは悉く鏖殺、体格などが似ていた女官や文官らも少なからず巻き添えを食いました……。その犠牲たるや、百や二百では到底ききません……」
「後事を頼まれていたというのにこの失態、誠に弁解のしようも……」

 報告する徐栄も謝罪を述べる呉匡も項垂れて、この首打って償いとすると言わんばかりである。

「……いや、これは責めても始まるまい。洛陽を空けて追手を掛けたのは我ら首脳の判断であるし……何よりこんな蛮行に出るなど、どうして予想がつこう……」

 宦官の排除は、確かに考慮はされていた。
 しかしそれは飽くまでも張譲ら十常侍、首脳陣を排するに留まるものであった。
 何と言っても、宦官は最早なしでは政が回らないほどに浸透しているのである。
 陰謀に携わる事もなく、現場で粛々と実務に励む宦官も多くいたし、権限を握っているだけあって決裁を司る役職にも宦官は多く就いていた。
 それを纏めて排せば、政治が機能不全に陥るのは火を見るより明らかであり。
 宦官とも多くの交流がある筈の袁家の人間が、それを理解できないはずがないのである。

「せやけど、実際にはこれやで?」
「これは、はなから仕組まれていた、という事か?」
「そう考える他ないだろうな……」

 徐栄らによれば、既に袁紹も袁術も、洛陽から逃げ去ったという。徐栄に加勢していた曹操も、衆寡敵せずと判断したのか、兵を引いて陳留へと向かったという。
 それを思えば、害悪である宦官を排除した、という名を獲得して、面倒事は擦り付けようという魂胆なのだろう。
 或いは、この虐殺の汚名も被せるつもりでいるのかも知れない。
 帝辛が己の予想を伝えると、面々の顔色は一層悪くなる。

「あかん。これを月に伝えるんはしんどいで……」
「馬鹿を言え、董卓さまはこれを陛下にお伝えせねばならんのだぞ……?」
「どちらにせよ……とんでもない事になったな……」

 皇帝を救出し、乱を収めて凱旋した誇らしさなどとうに吹き飛び。
 更にこの先を思えば、暗澹とした思いは到底抑えきれぬものであった。





「……以上が、事の顛末でございます、陛下……」

 戴く主を喪った大将軍府は、一夜明けてなお重苦しい雰囲気に包まれていた。
 それは天子たる皇帝を迎えていても変わる事はなく、むしろ事の次第を月が報告するにつれ、更に悪化していくように思えた。

 何進大将軍の暗殺に端を発した大乱は、明けてまざまざとその爪痕を露わにしていた。
 主だったものでは何進大将軍をはじめ、中常侍の張譲、段珪が死亡。蹇碩も統率を失った配下の兵か袁術の手勢かに惨殺され、他にも趙忠、段珪らも同じ末路を辿ったという。
 中、下級の役職についていた宦官も同様で、宮中にあった宦官の殆どが虐殺の憂き目にあい、他にも数十からの文官女官も巻き添えをくい、死者は合わせて二千有余名。
 宦官誅殺を高らかに謳った袁術は既に本拠たる南陽へと退去し、強引に突入し混乱を招いた袁紹も業へと去っている。そしてその二勢力の猛威にさらされた曹操も陳留へと撤退、その他の有力者も混乱を避け洛陽を去る者が後を絶たない。
 朝廷の機能は殆ど麻痺状態に陥るという有様であった。

 その余りの血生臭さに、迂遠な言い回しをして報告した月ではあったが、それでも結果は変わるわけでもなく。
 報告を聞き終えた劉弁の顔は蒼白となっていた。

「……失われたものは余りに多く、今後の政にきたす支障は計り知れません。お傍にありながら一時とは言え陛下をお守りできなかった事がこの結果を招いた事は明々白々、かくなる上は、如何なる処罰をもお受けする所存でございます」

 言葉と共に、その場にいる董卓一派、その全員が跪き、斬首を待つ咎人のように首を垂れた。

『………』

 重苦しさはいよいよ頂点に達し、耐えかねて時すらも歩みを止めてしまったかのようであった。

 そんな沈黙の中、事態の重大さに押し潰されそうになりながら、劉弁は思考する。
 目の前には今、有りの侭を報告し、唯一生き残った当事者として、つまり責任を取れる者として、罰を待っている忠臣たち。
 彼ら彼女らが死力を尽くしてくれたのは知っている。なにしろ、目の前で起こった事なのだから。
 そして、その尽力も、この結果を見れば及ばなかった、という事になるのだろう。
 信賞必罰は綱紀の基。ならば、これを罰しなければならないのだろうか。
 そう自問し――そしてすぐさま自答する。

 断じて否である、と。

 罪を問われるべきは乱を起こした宦官らであり、乗じて勝手をした袁術らであろう。
 そして、そんな付け入る隙を作ったのは、歴代の皇帝に他ならぬ。
 他に責任を問うような真似ができるようになったのも、これ全て董卓らの尽力によって、皇帝に力が戻ったからである。
 それを無視して罪を問う事は、劉弁にはできなかった。
 国家が皇帝の物であるならば、功罪もこれ全て皇帝の物であろう。

 ――ならば、朕も背負わねばならぬ。朕は、皇帝なのだから。



「……面を上げよ」
「……しかし」
「上げよ、と言ったぞ?」
「……は」

 合わせる顔がないという思いを封じつつ、月は顔を上げ、そして見た。

「成る程、確かに。昨日を思えば目も眩み、明日からを思えば足も萎えてしまいそうな有様よな」

 語る劉弁の顔は、心労の色が濃く。しかし、諦めはなかった。

「……だが、国や人がどうあろうと、明日は変わらずに来るのだ。ならば、それでも立ち向かわねばなるまい。そして朕が立つには、最早そなたらは不可欠だ。多くの官吏を失った今となれば、なおの事」

 実際問題、今の朝廷は圧倒的に手が足りていない。
 その上有能を誇る董卓一派を処断すればどうなるか、それは火を見るよりも明らかである。

「失った人、物、時間は確かに計り知れないが……それでも、朕はそなたらを得たのだ。朕もこの国も、杖なしには立てぬ老人のようなもの。今更どうして杖を手放せよう? へし折れ共に倒れるその時まで、一蓮托生というものだろう」
「……陛、下」

 信じられぬ思いで、月はまじまじと劉弁を見た。

「罰というならば、これからの計り知れぬ苦難を以て罰としよう。どんな罰でも受けるのだろう? よもや言を違えるような事、あるまいな?」

 まだ幼さを残しながら、不敵に笑って見せるその姿には、紛れもない上に立つ者の風格が備わっているように思われた。

「っ……」

 不意に、胸が詰まる。
 侍中として傍で仕えるようになってから、月は劉弁の成長を間近で見てきたのだ。
 宦官の眼を憚り、政争の駒になる事を恐れ、縮こまるばかりだったのが嘘のように、今、意志を言葉を強く発している。
 仕える臣として、見守る姉代わりとして、こんなに嬉しい事はない。
 それは帝辛たちも一緒だったのだろう。
 ふ、とひとつ吐かれたため息をきっかけに、空気が変わる。

「やれやれ……。今まで教育役を務めてきたが……これはお役御免の頃合いか」
「なんの、武の方面はまだまだだ。むしろ気骨ある事がわかったからな、ますます扱き甲斐があるというものだろう」
「せやなぁ。馬術の方もまだまだ伸び代はあるし、先が楽しみやな」
「ちょっと、口を慎みなさい。それにあんたたちにばっかり任せてたら脳筋一直線になっちゃうじゃないのッ」

 見出された光明は、珍しくも詠にまでが軽口を叩かせる。
 確かに失われたものは計り知れないが、それでも、得たものは確かにあったのだ。

 一頻り笑いあった頃、徐に月が居住まいを正し、居並ぶ面々もそれに倣う。

「我ら一同、その罰喜んでお受けいたします。身命を賭し、一層の忠勤に励みます」
「うむ。どうか、朕と共に歩んでくれ、我が仲間たちよ」
『御意のままにッ』





 こうして、多大な損失とたった一つの大きな成果を残して洛陽の大乱は終わりを告げた。
 洛陽は皇帝の信任を一身に集め、旧何進派の派閥を糾合した董仲穎の手によって纏められようとしている。
 しかしその一方で、天下の膝元で起こったこの乱は、漢王朝の衰退を改めて衆目に晒す事にもなった。
 ある者はこれを喜び、またある者はこれに不快を示し。またある者は、これを次の策謀の布石とする。
 様々な思惑を含みながら、始まりは終わりを迎え。
 やがて来る次なる時代のうねりに備え、人は短い凪の時に羽を休めるのであった。

 

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(c)Ryuya Kose 2005