昏君†無双
姓を袁、名を紹、字を本初、真なる名を麗羽。
漢王朝でも有数の名家である袁家の息女にして、冀州州牧であり、西園八校尉の序列第二位、中軍校尉でもある彼女は、このところ非常に不機嫌であった。
「面白くありませんわッ!」
「まぁまぁ姫、抑えて抑えて」
「これが抑えられますかッ」
腹心であり、袁紹軍の二枚看板の片方、文醜が宥める言葉を掛けるも、どうにも効果は薄く、掛けた当人も徒労を悟っている感がある。
いつもならば文醜は煽り立てる側に回るのが常であり、宥める側に回るのは、二枚看板の片割れである顔良の役目であった。
しかしながら、今回ばかりは文醜も不用意に煽り立てるわけにもいかない。
何故と言って、今回の袁紹の癇癪の対象は、今上帝の覚えもめでたい董仲穎だからであった。
下手に董卓と対立すれば、董卓を重用する今上帝の不興を買う恐れがある。表だっては敵対していない今でさえ今上帝からの覚えは芳しくないのだから、表面化してしまえばどうなるかは火を見るよりも明らかである、と文醜は考えた。
いつも通りに煽っても、その先にあるのが袋小路であるとなれば、いつもは効かない自制も辛うじて効くというものである。
とはいえ、やはり慣れない役をしているからか、一向に効果は出ない。
頼みの綱である顔良は、何やら来客の先触れがあったらしく不在である。血相を変えていたところを見ると大事ではあったのだろうが、こちらも大事である。
なにしろ彼女らの主は、ふとした拍子にとんでもない命令を下しかねないのだから。
現に文醜の内心などつゆ知らぬ袁紹は、憤懣やるかたないといった様子で鬱憤をぶちまける。
「陛下のお傍にあって、その補佐をするに相応しいのは、卑しい宦官でもなければぽっと出の田舎娘でもなくッ、三公を幾人も輩出した名家ッ、袁家で最も美しく華麗なこのわたくしッ、袁本初であってしかるべきではありませんのッ。それがどうしてこんな蚊帳の外に置かれるような事になっているんですのッ?」
袁紹にしてみれば、董卓などつい一年ほど前には自分の領地を通るために頭を下げに来た(という報告があった事を顔良に言われて思い出した)程度の木端役人という認識しかなかった。
それがあれよという間に三公まではいかずとも九卿の一角に名を連ね、今上帝より絶大な信頼を寄せられて、宦官どもも対董卓を意識して政略を練っていると聞く。
自意識と自己顕示欲が人一倍強い袁紹にとって、到底納得できるものではなかった。
(あ〜もう、斗詩ぃ、早く帰ってきてくれよ……)
そんな困り果てた文醜の祈りが届いたか、ほどなくして顔良は帰還する。
しかしそれは文醜に安堵を齎すものではなく、むしろさらなる混乱を呼び込むものであったのだ。
「れ、麗羽さま。あの……十常侍の張譲どのから内密の書状が……」
『上軍校尉である蹇碩が、己の兵を率いて宮中にて蜂起、董卓を誅殺し今上帝を廃位して協皇子を帝位につけんと画策している』
「つまりどういう事なのじゃ?」
身体と不釣り合いな大きな椅子にちょこんと座りながら小首を傾げる袁術を、張勲は優しい眼差しで見つめていた。
本人の資質はともかく、袁術は漢王朝有数の名家である汝南袁家、その中でも袁紹と並ぶ勢力を誇っている。
張勲は、そんな袁術の傅役に任じられるほどに有能であり、また幼く愚かでわがままな主君を厭う事も一切なく、逆に溺愛していた。
「ん〜、そうですねぇ。要は追い詰められた宦官の人たちの起死回生の一手と見せかけて、身内の軽率な人を処分して、ついでに大将軍派の足並みを乱そうって魂胆でしょうね〜」
「む、む……? じゃが、蹇碩とやらは宦官じゃろ? どうしてそれを妾に教えるのじゃ?」
看破した宦官たちの意図を伝えるも、袁術はそれを理解できない。張勲は一つにこやかに微笑むと、噛み砕いた説明を始める。
「この書状は、董卓さんたちのところには届いていないんです。届いたのはお嬢さまと、袁紹さまのところだけなんですよ。最近、董卓さんばっかり点数稼いでますからね、ここらで私たちにも機会を与えて、董卓さんの対抗馬に仕立て上げたいんでしょうね〜」
「む、そうじゃ! 最近はあの田舎者ばっかり活躍していてずるいのじゃ! 妾も活躍したいのじゃ!」
「さっすがお嬢さま! あっさりと宦官の思惑に乗せられてますね! いよっ、三国一の単純思考!」
「にょほほ、もっと褒めてたも〜」
無邪気に喜ぶ主君と戯れながら、同時に張勲は思考する。
愛して愛して已まない主君をくだらない策謀に使おうとする宦官の事を、彼女は嫌悪している。むしろ憎悪しているといっても過言ではない。
顔は優しく、思考は残忍に、張勲は思考を加速させる。
下劣な謀略の手を伸ばしてきた蛆虫どもに、その報いを受けさせるために。
「――そうです、お嬢さま。もっと、も〜っとお嬢さまの評判を高める方法を思いついたんですけど……」
いかがいたしますか、と。
見る人が見れば背筋が冷たくなるような笑みを浮かべて、張勲は囁いた。
そして、運命の日。
「や〜っておしまいなさ〜いッ。お〜ほっほっほっほっほッ」
「あらほらさっさ〜」
「あ、あらほら!? と、とにかく、突撃してくださーいッ」
中軍校尉袁本初の号令に従って、盛夏の日差しを撥ねながら煌びやかな黄金色の鎧に身を包んだ西園軍の兵が東門より突入する。
西園軍ではあるものの、その実情は軍装からして袁紹の私兵に近い。華美な装飾に重厚な作りの甲冑は、袁家の財力あってのものである。
誰が見ても袁本初の兵だとわかる軍装で、颯爽と陛下をお救いする。
さすれば陛下の覚えもよくなり、天下に華麗にして精強な袁本初の兵も喧伝する事ができる、まさに一挙両得の一手である――。
実情は兎も角として、袁紹は本気でそう思い込んでいたし、文醜も「配当がでっかいならやるべきだって、姫ッ」と煽りに煽り、顔良の制止も空しく突入の運びとなったのである。
この辺り、老練な重臣たちを本拠地である業に残してきた事が響いているのだが、それはさておき。
この東門、当然の事ながら、宮中から逃げ出そうとする宦官や女官らでごった返していた。
帝辛の指示を受けた少数の兵が確保に向かっていたのだが、袁紹勢はそれらも纏めて蹴散らしてしまっており、秩序など何処を見てもありはしない、という惨状が巻き起こっていた。
そして。
「待ちなさい、麗羽ッ」
その混乱を切り裂いて整然と袁紹軍の前に立ちはだかる一隊があった。
率いるは典軍校尉曹孟徳、腹心の夏候惇、夏侯淵を引き連れての登場である。
「あら華淋さん、そんなに急いでどうなさいましたの?」
「どうもこうもないわ。麗羽、貴女一体何をやっているのッ?」
小柄な体躯を一杯に使い、曹操は周囲の混乱を示して見せる。
女官は落涙し文官は動転し、衆寡敵せず蹴散らされた董卓勢には負傷している者もいる。
まるで宮中の出来事とは思えない惨状であった。
「何を? これは華淋さんとは思えない的外れな問い掛けですわね? 知れた事、漢に名高き袁家の! このわたくしが! 華麗に、そして颯爽と陛下をお救いせんがため、陛下の御許に向かっているのですわッ」
「……そう。やっぱり貴女、宮中で何が起こっているか知っているのね?」
「さて? まあわたくしは交友が広いですから、色々な所から色々な話が入ってきますからねぇ? お〜ほっほっほっほっほッ」
高笑いを始めた袁紹を、曹操は僅かに苦々しげな表情で見つめる。
今の袁紹の発言で、彼女の下に今回の騒動の情報が流れてきている事はほぼ間違いなくなった。
恐らく十常侍あたりからだろうと曹操は当たりを付けているし、それが何進派の内紛を誘うための物であろうという事も察していた。
(恐らくは大将軍の暗殺……董卓も含まれるかしら。後は、皇帝と陳留王(劉協の事)の身柄の確保……。宮中へは既に子受たちが突入しているみたいだし、麗羽の軍勢をこの手勢で抜けて介入するのは難しい、か……)
袁紹勢の不穏な動きを察してからこちら、曹操も警戒を強めていはしたものの、大々的に兵を集めれば逆に自分が隙を作る事になるので、備えは遅々として進まず、こうして袁紹に後れを取る結果となってしまっていた。
(私の巧より麗羽の速が勝った、か……。やはり未だ中央での政争では敵わないわね。もっと力を付けなければ……)
その為には、実よりも名を取るべき。
そう判断し、曹操は塞いでいた袁紹の進路を明け渡す。
「まあいいわ。どちらにせよ、陛下の安全は確保せねばならない事ですものね。それは有力な軍勢を率いている貴女が適任だわ」
「あ〜ら。よ〜っくわかってるじゃありませんの。ちんちくりんの華淋さんには身に余る大業ですからね。勿論、どこぞの田舎娘がなせる事でもありませんわッ。ああ陛下、今この袁本初が参りますわッ。斗詩さん、猪々子さん、行きますわよッ。お〜ほっほっほっほっほッ」
捨て台詞のように高笑いを残し、逃げ惑う女官文官を蹴散らして宮中奥深くへと向かう袁紹勢。その背を見送る曹操に、それまでずっと黙っていた夏候姉妹が声をかける。
「華淋さま、よろしかったのですか?」
「そうです、華淋さまッ。袁紹如きの軍勢など、私と秋蘭がいればッ」
「そうね。無理をすれば介入できなくもないでしょうけれど……せっかくの兵をここで損じるほどの価値を得られるかどうか。私たちの勢力はまだまだ弱小よ。袁家と違って補充が楽に利くわけではないのだから、ここは違う利を得に回るわ」
そう言うと、曹操は矢継ぎ早に指示を出す。
混乱に巻き込まれた文官女官らの救護、董卓勢と連携しての門の確保、外部との連絡の保持、等々……。
皇帝の救出や乱の鎮圧といった華々しさはないが、直接保護を受けた文官たちの心象は確実によくなるだろう。
下級役人には、宦官との関係があまり良くない名家の子女が多くいる。
今回の事で、彼らの実家にも曹孟徳の行動は伝わり、その評判は今後の人材確保に間違いなく役立ってくるはずである。
「……目先の利は貴女に譲ってあげるわ。でも、一年先、五年先の利は、私がしっかり貰い受けましょう。最後に笑うのはどっちかしらね……麗羽。そして董卓。子受がああまで言ったのだから、この程度、乗り越えて見せなさい」
この程度の混乱など、始まりに過ぎない。
遥か先を見通す才覚を持っている曹操は、そういう認識を持っていた。
持っていたが故に――ひたすらに今だけを貪ろうとする者を見落としていたのかもしれない。
「七乃、どうするのじゃ! 麗羽に先を越されてしまったのじゃ!」
「いいえ、いいんですよ。袁紹さまの手勢がいなくなってからが本番ですから。曹操さんがいらっしゃるのはちょっと邪魔っけですけど、あの人なら無暗に突っかかってきたりはしませんから」
「む〜……。そういうものなのかや?」
「ええ。そういうものです。……では皆さん、準備はよろしいですか〜?」
返答は、幾百の抜刀の刃鳴りであった。
そして、後方の事など一顧だにせず突き進む袁紹勢は。
袁紹と文醜の煽りに乗せられて、興奮状態のままに駆け続け、ついにその興奮が頂点へと達する。
「姫〜、見つけたぜッ。蹇碩隊と董卓勢がやりあってるッ」
「間違いありませんわッ。そこに陛下はおわしますッ。さあ皆さん、陛下をお救いしますわよッ」
「えッ? ちょ、ちょっと麗羽さま駄目ですよッ、あんな乱戦に突入したら「突ッ撃ぃ〜ッ!」って、あ、あぁ……」
最早お決まりのようになってきた観のある、顔良の制止を振り切って暴走する袁紹と文醜。
顔良は土煙を上げて突っ走る主君と同僚の背中を暫し見送り、のろのろと得物である大金槌を担ぎ上げて後を追い始める。
その後をおずおずと追って走り出す部下の兵たちは、その背中に溢れんばかりの哀愁を見たという。
そんな喜劇じみた袁紹勢の内情ではあったが、それが齎した事態は笑い事では到底すまされない混沌である。
「あンの、低能無駄乳女めッ……! 栄養が全部胸に行って頭に回ってないんじゃないのッ!?」
何やら私情が混じっているような詠の罵詈雑言であるが、霞たちの内心も似たようなものである。
蹇碩の部隊を真っ二つに切り裂いて月との合流を果たし後であったのが救いだろうか。
もし合流前であったなら、目の前の三つ巴どころではない大混戦の中で合流を目指さなければならなかったのだから。
「まあええ! 月っちは無事に回収できたんやから、こんなとっからはとっととおさらばやッ」
「董卓さま、陛下はどちらにッ?」
「え、えっと、部屋の小窓を抜けた先にある私室にお逃げいただいたのッ。手狭で滅多に使われない場所で、信のおける警備兵の人に護衛を任せたんだけど……」
「そっか、逃走経路の確認は予め……って、ちょ、月あんた陛下にあそこを潜らせたのッ?」
部屋の窓の大きさを思い出せば、さしもの詠も驚愕せざるを得ず、逆に霞と華雄はやるやないか、機転が利いているなと感心しきりである。
「〜ッ、ま、まあいいわ、とにかく陛下は安全と思しき所に逃げてるのよね、うん。だったら話は早いわッ。有象無象は無視して一目散に陛下の御許へッ。アンタたちは何とかこの場を凌いで、徐栄たちと繋ぎを取りなさいッ。守勢に徹して、ボクたちの帰還を待つようにッ。行けッ」
「はッ」
「んじゃ、ウチらも行くでッ」
「あ、わ、私も陛下のところにッ」
「承知、しっかりお掴まりをッ」
動揺している場合じゃあないと立て直して、詠は兵に指示を飛ばすと、霞と華雄という一騎当千の二人と、皇帝の心情を考慮して月という少数精鋭で皇帝の逃れた部屋へと駆け出した。
「あ〜ッ、斗詩ぃ、董卓たちが逃げるぜッ」
「そ、そんな事言われてもこの乱戦じゃあ……えーいッ」
「ぐあッ」
「ぐぎゃッ」
顔良の大金槌が数人の趙忠勢の兵を纏めて薙ぎ払うも焼け石に水。
旗下の兵が重甲冑に身を固めているだけに、乱戦時の移動が非常に困難となってしまっていた。
軽装の董卓勢が少しずつ離脱していく一方で、趙忠勢と袁紹勢は并州勢が巧みに追手を擦り付けていく事もあって、お互いを排除せねばそれを追う事もままならない。
結果、袁紹と趙忠は、歯噛みしながらも互いに戦力を磨り潰し合う消耗戦を繰り広げる事となる。
皇帝が避難しているはずの部屋は、使い勝手の悪さや手狭さ、地味さから使われなくなって久しく、少なくともここ十年近くは清掃の女官らが立ち入る以外に人の出入りもない場所であった。
「陛下が出入りしない、しかも利用価値の少ない場所にわざわざ宦官も出入りはしないだろうし……出入りしてる女官にしても、忘れられたような部屋の事を教えないだろうから、まず安全なはず……だと思うけど……」
少なくとも、思い当たるまでにはそれなりの時間が掛かるだろうという月の下した判断は、詠たちから見ても妥当なものであるように思われた。
事実、詠も言葉に出してその判断を支持していたのだが、当の月にとって、それは慰めとはならなかった。
現に、華雄に背負われ、自分の足で走っているわけでもないというのに、嫌な汗が滲み、心の臓は落ち着きなく鼓動していた。
そしてそれは霞に背負われている詠にしても同様である。
皇帝が既に宦官の手に囚われている可能性は低い。
それはわかっているのだが、どうしても胸騒ぎが消えないのである。
袁紹の乱入という予期せぬ事態もあったし、そも、宦官の大規模な蜂起自体が起きて欲しくはなかった事なのだ。
加えて今、不安を煽る要素がもう一つ。
「……おかしいで。静まりかけとった南門の方がまたぞろ賑やかになっとるし、東門も大分騒がしくなっとる」
「南は帝辛が上手くやってたはずよね? それに東……袁紹のせいかしら」
「曹操が動いてくれなかったのか、動いたが上手くいかなかったのか……。曹操と袁紹は知己だと聞いているが、そのせいか?」
「ん……そんな事で大勢を見誤るとは思わないけど……。兎も角、急いだ方がよさそうねッ」
「あ、あそこ、あの角を曲がればすぐだよッ」
「よっしゃ、ほな急ぐでッ。しっかり掴まっとりや賈駆っちッ」
「董卓さまも、お手を離さぬようッ」
忍び寄る不安を振り切るように、強く地を蹴り霞と華雄は駆ける。
付近に他に気配はなく、喧騒も未だ距離がある。
いよいよその角まであと一足、というところまで迫れば、抱える不安も相まって、
――これで間に合った
そう内心で思ってしまうのも無理はないだろう。
内心を確信に変える最後の一歩で以て角を踏破すれば――。
「――はい。そこで一休みです」
―――。
「全く。今回は色々とイレギュラーが多いですねぇ。これも貂蝉の仕業……しか有り得ないはずですが、さて?」
――――――。
「まあいいでしょう。事は十分に修正の範囲内です。さて董卓さん。貴女方には一端洛陽を離れてもらわねばなりません。なに、無駄骨にはなりません、どうせ皇帝も陳留王も貴女方の手に入る事になるのですから。さあ、出番ですよ、張譲、段珪」
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四半時(約三十分)ほど経って月たちと合流を果たした帝辛が目にしたのは、泣き崩れる月と、自らも大いに動揺しながらもそれを必死に叱咤する詠たちの姿であった。
皇帝劉弁、並びに陳留王劉協。十常侍の張譲・段珪に拉致され、既に洛陽を離れる。
騒乱は未だ、終わらない。