- k a r e s a n s u i -

昏君†無双

 噴き上がる鮮血を背負い、飛将を落とした男が仁王立つ。
 口上の一つも上げず、身振りの一つもせず。
 ただそこに立つだけで意識の全てを引き寄せる。
 飛将を落とすとはそれだけの功績であり、鮮血を背負うとは、それを彩るに相応しいとさえ思われる。
 こうして場の空気を完全に支配した帝辛の言葉に、投降した兵たちは一言も漏らさぬように耳をそばだてて聞き入る。

「まず第一に。貴様らは神聖なる宮中に於いて許可なく刀剣を持ち込み、あまつさえこれを振るい、陛下の忠臣である大将軍閣下を害し奉った。これは紛れもなき大罪である!」

 大喝に対し答える声はなく、只々うな垂れるばかり。
 斬首を待つ罪人のようなそれは、真実その通りであったのかもしれない。
 西園軍といえど、それを構成する兵は徴兵された農民に過ぎず、そんな彼らにとって、宮中など別世界に等しく、殿上人など雲の上の住人である。
 そして自分たちがその雲の上から地の獄へと大将軍を叩き落としたのである。
 直接手を下したわけではないだとか、命令に逆らえなかっただとか。
 そんな事は本来言い訳にもならないほどの大罪である。

 そう、本来ならば。

「しかし今は非常時だ。貴様らに一々縄を打つ手間も惜しければ、使い道のある兵を遊ばせるのも惜しい」

 つい、と釣り針を差し出して。

「我々に協力し、事態の収束に功ありと認められた者は、此度の罪の減免を奏上する。見事汚名を雪ぎ、陛下の覚えを塗り替えるほどの働きを見せれば……或いはその首、繋がるかも知れん」

 そして加えて丁原が、今わの際の言葉にて怪しげな方士の存在と、その方士が左道邪術を用いて事態に関わっている恐れがある事を伝えれば、後は入れ食い状態であった。
 反乱に加担したという負い目と、それを挽回する機会を与えられたという恩に加え、上に立つのが飛将を落とした男ともなればむべなるかな。
 こうして何進暗殺に加担した蹇碩隊の降兵は、帝辛の統率下に入る事となったのである。



 一気に戦力を増した帝辛は、兵の半分を突入前から付き従ってくれた何進隊の兵、その中でもこれはと見た呉匡ごきょうという男に預け、何進の遺体の回収と、嘉徳殿から宮門に至るまでの制圧を命じた。
 何進の救出こそ叶わなかったものの、皇帝と月の救出という大目標はまだ残っているのである。
 そして、宦官側の最大戦力であると思われる蹇碩隊と呂布が何進の殺害に投入されていたのは、好材料であると言えた。

「私はこのまま進み、詠たちとの合流を目指す。お前たちは南門の徐栄と連携して退路を確保せよ。大将軍さまの亡骸は、大将軍府にお運びするのがいいだろう」
「は、お任せ下さい。仰聞さまもお気を付けて」
「うむ」

 蹇碩と呂布を除き、兵力差も詰める事ができた。呂布の敗北という情報を前面に押し出せば、更に切り崩す事も可能だろう。
 詠たちの行く手を阻む戦力も高が知れるとなれば、後の問題は時間ともう一つ。

(袁紹か……。切れ者とは程遠いとはいえ、行動如何によっては十分に流れが変わりかねないな……)

 何にせよ、急ぐに越した事はない。
 詮無い考えを振り捨てて、帝辛は増えた兵たちを引き連れ走り出した。





 時は幾らか遡る。

 月は、今日もいつものように侍中としての勤めを果たすため、巨大な卓に向かって執務を行なっている劉弁の背後に控えていた。
 いわゆる董卓派が力をつけてから、以前は劉弁のもとまで回ってこなかった重要な案件も、軍事面を中心に回ってくるようになり、経験のない劉弁だけでは判断に困るものも多くなっていた。
 そうなると、月も侍中として資料を探し、また前例を調べと忙しくなり、不慣れな劉弁共々、てんてこ舞いな日々を過ごしていた。

 しかし実のところ、二人ともそれを苦には感じていなかった。
 劉弁は、この労苦こそが皇帝としての実感であったし、月は為政者として日々成長していく劉弁の姿を見る事ができて、それだけで報われる思いであったからである。

 そんな忙しくも充実した時間を打ち破ったのは、静かな空間に似つかぬ緊張した面持ちで部屋に入ってきた警備の兵であり、齎された報せもまた、本来宮中に似つかぬはずのものであった。

「戦闘か、それに類するような音、ですか?」
「はい。まだかなり遠いので仔細はわかりませんが、これまでこのような事はありませんでしたので、念の為にと思い、報告致しました」

 答えたのは、不定期に行われる帝辛の特別訓練を受けた事のある兵であった。
 人となりをよく知っているわけではないし、十常侍との繋がりがないとは言い切れなかったが、帝辛による(月からしてみれば拷問にも等しい)篩い分けを潜り抜けたのだからと、月はその兵を信用する事にしていた。
 そしてその兵も、その信用に答えて、自らの職務を忠実に行なっており、この報告に繋がったのである。

「仲穎は、叔父上から何か聞いていないのか?」
「いえ、特には……」

 何進から知らされていないという事は、その必要がないと判断されたからか、それとも何進の与り知らぬ事であるからか。
 そして、もし何進の与り知らぬ事であるならば、それはきっとろくでもない事なのだろう。

「既に警備の兵の一部を抽出して情報収集に向かわせております。勝手な判断をお許し下さい」
「いえ、いい判断だと思います。どうにもいい予感はしませんし……」
「仲穎、大丈夫なのか?」

 劉弁の声には不安の色が濃い。
 無理もない事だろう、と月は思う。
 刺史として、その前は一官吏として現場で活動していた自分でさえ、太原で防衛戦を覚悟した時は、実際に戦う事はなかったというのに、筆舌に尽くし難い恐怖を感じたのだ。
 皇族として、政争の道具として、そして傀儡の皇帝として全てから蚊帳の外に置かれてきた劉弁ならば、この不穏な空気はどれほどの恐れをもたらすのだろうか。



(私が、頑張らないと)



 それは忠誠心から来たものであったろう。
 当然責任感からでもあったし、もしかしたら母性のような感情も交じっていたかも知れない。
 とにかく、ここで劉弁の支えとなれるのは自分だけである以上、自分が何とかしなければならない。
 それに、月には確信があった。
 あの太原での時と同じように、ひょっとしたらそれ以上の。
 だからだろうか、劉弁に向けた言葉は、月自身が思っていた以上に、落ち着いたものになっていた。

 

「陛下、まずは一つ深呼吸をいたしましょう。正しい対応は、正しい情報からのみ導き出されます。落ち着いていなければ、情報を集める事も吟味する事もままなりません」
「そうはいうが……」
「私など、并州の刺史を務めていた折に、味方の軍勢の帰還を賊の来襲と勘違いして大騒ぎを引き起こしてしまった事がありますから。その事で皆にこっぴどく叱られたものです。陛下も想像なさってみては如何でしょう? 文和に文遠に華雄、極め付けに仰聞が挙ってお説教をしてくる様子を」
「う、む……。それは、成る程、確かに落ち着かなければな、うん……」

 そういって遠い目をして見せれば、帝辛の厳しい指導の一端を知る劉弁も、頭に上りかけた血が半ば強制的に引いていく。
 そうして狙い通りに劉弁を落ち着かせれば、たとえ兵が持ち帰った情報がよくないものであったとしても、幾らか落ち着いて受け止められるというものであった。

「そうですか、趙忠どのが……」
「は。手勢数十を引き連れて、こちらに向かっている様子です。また、その他複数個所でも武力蜂起が起こっており、聞くに堪えない流言を流して回っております」
「……その流言の内容、詳しくわかりますか?」
「……は、その……」
「構いません、今必要なのは気遣いではなく、正しい情報です」
「……は。……佞臣董卓を排し、何進を誅せよ、と。何れも張譲さま、段珪さまら、十常侍の方々が主導しているようです」

 平伏した兵が述べた言葉は、月の想像通りであり、劉弁の理解の外にあった。

「……馬鹿な。出過ぎる事なく朕を支えてくれているだけの仲穎が佞臣ならば、この世に忠臣など一人もなくなってしまうわ! 趙忠め、何を考えている!?」
「……言葉通りの事、でしょうね。彼らが仰ぐのは、自らに都合のいい傀儡の皇帝なのでしょう。私がお傍に就くようになってから、陛下は皇帝を飾りとしか見做さない十常侍から距離を置かれるようになりました。それは私が権力を握るために陛下に取り入り、お耳に毒を注いだためである、という事にしたのでしょう。何進大将軍は、対立派閥の首領ですからこの機会に、という事でしょうか」
「なんだ……なんだそれは……! それでは、朕は……皇帝とは、一体……!」

 突きつけられた余りの現実に悲憤慷慨する劉弁を前にして、いよいよ月の腹も座ってくる。
 自分がここにいながら、劉弁にこんな表情をさせるなどあってはならない事である。
 跪き、臣下の礼を取りながら、月は劉弁に伝える。

「陛下、これらの行動が陛下のご意向に沿わぬ身勝手な物である以上、これは最早反逆にございます。何進大将軍と私を排して権力を手中にしようとする以上、陛下を虜とせんと目論むのは必定かと思われます」
「う……で、では早く逃げねばならぬ! 朕はもう置物に戻るのは嫌だ! 董卓よ、頼む、朕を助けてくれ!」
「御意のままに。もとよりこの身はそのために」

 責任感と歓喜の感情が沸き起こるのを自覚し、それに誘われるように立ち上がる。
 恐怖もあるし、不安もあったが、しかしそれを表に出すような事はしない。
 いたずらに劉弁の不安を煽るような真似はできないし、なにより。

「この場には私がおりますし……私の頼れる仲間たちが、必ず助けに来てくれますから」





「さて、蹇碩めの軽挙がいい目くらましになっている今が好機か」

 手勢を引き連れた趙忠は、薄い笑みを浮かべながら一人ごちる。
 そこには同じ宦官である蹇碩に対する心配や共感といったものは感じらず、発言からして利用する対象としか捉えていない事が窺えた。

「全く、飾りにしかすぎん皇帝なぞに忠義を捧げるとは……酔狂にも程がある。皇帝といえども所詮は人間、いつかは滅ぶ。この世にあって確かなものは財貨に権力。仕えるならばそれを置いて他に何があるというのか……」

 だからこそ、張譲、段珪らの策謀に協調し、蹇碩を売ったのだから。

「まあ、よい。とにかく、皇帝陛下の身柄を確保せねば」

 恐らく皇帝の周辺では事態は正確には把握できていないだろうと趙忠は考えている。
 動揺しているところに乗り込んで、何進派が蜂起したと訴えて、保護を名目に身柄を確保してしまえばいい。先手を取っており、かつ既に宮中にいる自分たちの方が圧倒的に有利なのだ。
 皇帝の傍には、あのにっくき董仲穎がいるだろうが、それでもたかが小娘一人。口先でも武力でも、どりらでもどうにでもできる自信があったし、事実その通りではあっただろう。
 率いる兵は圧倒的な武力になっているし、彼自身はこの宮中の闇の中を生き抜き、宦官の最高位である大長秋にまで上り詰めたという経歴を持つ怪物である。
 如何に月が優秀であっても、年季が違っている。
 己が有利を確信しながら趙忠は進む。
 皇帝がいるはずの執務室は間近に迫っており、異常は見受けられない。
 事態にまだ気付いていないのか、脅えて引き籠っているのか。
 ……気付いているのなら、この有様はまず有り得ないはず。
 それでも気を引き締め直して、趙忠はいよいよ執務室の扉の前に立つ。
 警護の兵は、引き連れた完全武装の兵に怖気づいたと見え、僅かに表情を引き攣らせていた。

「十常侍が一、趙忠である。陛下に火急の要件があって参った。ここを通せ」

 高圧的に、それでいて極自然に。
 当然のようにその結果も是の返答であると趙忠は疑っていなかった。
 故に、返答を待たずして部屋に入ろうとした自身を阻むように差し出された棍に、暫し困惑の眼差しを向ける事になった。

「何のつもりだ、これは」

 詰問、と言っていい声色で趙忠が問い質す。
 しかし警護の兵は答えない。視線さえ向けず、彫像のようにそこに立つばかり。
 代わりに質問に答えたのは、鈴が鳴るような、しかし力の籠った少女の声であった。

「そちらこそ、なんのつもりですか。陛下のおわす場に、そのような物々しい出で立ちで押し入ろうなど」
「貴様、仲穎」

 扉を開け、しかしそこを塞ぐように月は仁王立つ。
 一気に険しくなった趙忠の視線を真っ向から受け止める。
 その事実に僅か不快感を抱くも、しかしそれをおくびにも出さず、高圧的な態度を変えず、趙忠は威圧するように言い立てる。

「貴様の耳は節穴か? こうしていても聞こえるだろう、あの騒動が。何進が我ら宦官を排除し権力を握らんと蜂起したのだ。貴様、何進と近しかったな。そんな貴様の下に陛下がおられるなど危ういにも程がある。陛下は我々がお守りする」
「聞くに堪えませんね。大将軍は二心なきお方。そのような策謀とは無縁です。そも、大将軍が蜂起したという情報自体信ずるに値しません。武装した兵を、兵権を持たぬ者が引き連れている事こそ不信にして不穏。そのような者どもに、陛下の安寧を任せられようはずがありませんね。そも、宮殿内部の警備は光禄勲たる私の管轄、あなたたちがでしゃばる事ではありません」
「この者らは西園軍の兵である。上軍校尉である蹇碩は、首謀者である何進の成敗に向かわねばならないので、かつて車騎将軍を務めた私に兵を預けられたのだ」
「語るに落ちましたね。西園軍は陛下直属の兵、陛下の命なくして動こうはずもなし。陛下はそのような命令は発しておられませんし、断じて上軍校尉の勝手で動かしていいものでもありません。これこそ、この騒乱があなたたちの手によるものである証では?」
「では、陛下が何進めの手に落ちるのをみすみす見逃せとでも? そら、化けの皮が剥がれたぞ。何進と結託し、陛下を虜としようというのだろうが」

 もとより相容れぬ両者である。
 言い合ったところで水掛け論に終始する事は明々白々、引き下がる事もあろうはずもない。
 最早――否、端から語るに及ばず。
 趙忠がそう思うのは当たり前であり、月がそれに抗しようとするのも当然であった。

「者ども、これなるは逆臣何進の一味であるぞ! ひっ捕らえて陛下の御身を取り戻せ!」
「そら見た事か! これら全て宦官どもによる反乱である! 忠臣たちよ、陛下の身をお守りせよ!」

 反応が早かったのは、警護の兵。趙忠を突き飛ばし、西園軍の兵がそれを慌てて支える隙に、月を引っ掴んで執務室に飛び込み、分厚い扉を固く閉じる。

「うぬっ! ええい何をやっている! 相手は袋の鼠だ、さっさと突破しろ!」

 趙忠が口角泡を飛ばせば、慌てふためき閉ざされた扉に兵が群がる。
 そこはさすがに皇帝の居室、美しく飾りが施されていながらも、頑強な作りの扉であったが、それでも突破ができないほどの物ではなく。
 今暫し時間を掛ければ、皇帝の身柄も董卓の首も手中に転がり込む事は間違いない事であると思われた。

「……うむ。所詮は袋の鼠。慌てる事はないか。陛下も董卓に何を吹き込まれたとて……じっくりとお話・・すればわかって下さる事は間違いなかろう」



「……さて。袋に入ったのは鼠ばかりで龍はいないと知ったなら、どう思うんでしょうね」

 卓に椅子、水瓶など。ありったけの重量物を扉の前に集めながら月が零した言葉に、それを手伝う警備兵たちが微妙に引き攣った笑みを浮かべる。
 鼠だなんてとんでもない。ここにいるのは鼠よりももっと可憐で、もっと鋭い牙をも備えた怪物である。
 北方の雄と称されたのは誇張でもなんでもないのだと、肌身に染みて思い知らされていた。

 そう、月の言葉の通り、この部屋に既に皇帝劉弁はいない。
 事もあろうに、月は明かり採りの窓を脱出口として、袋に穴を開けて見せたのである。

「……ここを、通るのか?」
「はい(笑顔)」
「……狭いな?」
「はい(笑顔)」
「………」
「………(笑顔のような何か)」

 後に、その場にいた者たちは口々に「あれは怖かった」と語るのだが、閑話休題それはさておき
 侍中に就任してから、月は帝辛と詠の勧めに従って、足の及ぶ範囲を隅々まで調べ、有事の際の脱出経路を調べ上げていた。
 今回劉弁を脱出させたのもそのうちの一つであり、ほど近い場所にある皇帝の私室へと繋がっていた。
 この場に趙忠たちを釘づけにして時間を稼ぎ、詠たちの救助を待つ。
 後手に回り数に劣る現状を鑑みて、月が選択した方針であった。
 つまり、月にとっては太原防衛戦とやる事は変わらない。
 先頭を切って動き、部下を鼓舞し、結束を高め、そして仲間を信じる。
 それだけの、簡単なお仕事。

(でも、怖いものは怖いんだよね……)

 可愛い顔して強心臓、といった立ち居振る舞いではあるが、その実冷や汗ダラダラ膝ガクブルである。
 ただ、こんな外見の自分が堂々としていれば、周りが奮起してくれるのだという事を、月は理解していた。
 その甲斐あってか、大きく重い机を全員で扉の前に運び終える頃には、月は兵たちからの忠誠を勝ち取っていた。

 ――後は、ただ耐え、待つのみ。

 覚悟を決めて。
 月は、封鎖を突き破らんと突き立てられた白刃の切っ先が覗き始めた扉を静かに見据える。
 やがて扉が食い破られ、積み上げられた障害物が蹴散らされても、喜悦に歪む趙忠の顔が見え始めても。
 その冷静な態度に異変を悟り、室内に皇帝がいない事を理解した趙忠が、その表情を見るに堪えない憎悪のそれに変えても。月のその姿勢は揺らぐ事はなかった。

「……貴様、仲穎! 陛下をどこにやった!?」
「さて、どこでしょうね? ご覧のとおり、私の下にいらっしゃらないのは確かですよ」
「――ッ! 言えッ! 皇帝はどこにいるのだッ!?」
「おや、私の所にいないのですから、貴方たちの言う逆臣の手から離れているのですよ? ここは一先ず安心するところではないですか? まあ、どちらにせよ陛下に対しての仮初の敬意すらもかなぐり捨てた貴方に教える筈もありませんけれど」

 そして、初めて表情を変えたかと思えば、浮かべたのはあからさまなまでの侮蔑である。
 柔らかい微笑みを湛えるのが常の人物が、滅多に見せない侮蔑の表情。それがただの小娘と侮っていた相手から向けられたとなれば、さて趙忠の怒りのほどは、その悪鬼も裸足で逃げ出さんばかりに歪められた表情が物語っているだろう。

「き、貴様……ッ」
「先にある大事を忘れ、目先の些事に囚われる。桓帝の頃よりの貴方たちの栄達も、今から始まる凋落も、全てそこに起因しています。この結末も、いわば必然のもの。諦めて縛に就きなさい」

 淡々と、諭すように告げられる言葉は、月という人物の人柄を表していて。
 故に、趙忠には耐えられる物ではなかった。

「こ……の小娘がッ!? 殺せぇええええッ!!!」

 血走った目で口角泡を飛ばし。
 言葉と共に、凶器と狂気が放たれる。
 抗い得ぬ暴虐に抗おうと、護衛兵が棍と肉体を盾にせんと身を挺し、反逆の徒がそれを押し潰そうと迫る。
 正しく絶体絶命の窮地に立たされて、それでもなお。
 月の信頼は揺らがなかった。



 そして、それは正しく報われる事になる。



「――待たせたな」
「よっく持たせたやん。後は任せぃ」



 肉を打ち、骨を割る音は後方より。
 何事かと視線を向けるよりも早く、それは飛び込んできた。

「そらそらそらぁ! 騎兵隊の到着やッ! 馬はあらへんけどなッ!」
「はッ、こんな雑魚に馬など要らんわッ!」
「霞さんッ! 華雄さんッ!」

 無警戒の背後を痛撃し、動揺も露わな兵を掻き分けて現れたのは誰であろう、張文遠と華雄その人である。

「賈駆っちもおるで! 後ろで手勢を率いてきとる! ウチらと賈駆っちでこいつら挟み撃ち、形勢逆転やッ」

 一騎当千の二人を先行させてまず月のもとに到達させ、遅れて詠が後詰を務め、挟撃の態をなす。
 成る程確かに形だけを見れば霞の言うとおりであるが、しかし状況は言うほど好転したわけではない。
 月のもとにいるのは霞と華雄ただ二人であるし、数の上では未だに趙忠の方が優勢である。
 その差を少しでも埋めるために、敵方に動揺を齎さんとの一手であったが、果たしてそれは図に当たる事となる。

「ええいッ、この程度で浮足立つとは何事かッ!」

 趙忠の怒声も空しく、前門の虎に腰砕けの者、後門の狼に泡を食う者と統率のとの字も掻き消える。
 もとより、ろくな調練も熟さずに、ただ命令と後の褒賞という標に従っただけの兵たちである。
 人として、兵として余りに未熟な彼らは、その上に立つ趙忠の力量不足も相まって完全に算を乱す事となり、最早形勢は今度こそ完全に逆転した。
 今暫し圧を掛け、然る後に降伏勧告を出せば、趙忠はともかく、兵たちが膝を突くのは確実であった。
 武人である霞と華雄は、線上の雰囲気からそれを感じ取り、軍師である詠は状況から判断してそれを導き出した。
 名だたる者どもが導き出した結末へ、事態は河水が上流から下流へと流れるように推移していく。
 もしその流れを変えようと思うのならば、大勢を顧みずにただ己の事のみを考えた、いっそ豪快にして傲慢な横槍しか有り得まいと思われた。
 

 何処からか、高笑いが木霊していた――。

 

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(c)Ryuya Kose 2005