昏君†無双
――洛陽・宮殿西門――
「馬鹿な、何故ここが確保されていない!? 袁紹は何をやっている!」
宮殿西門前は、正に混沌の坩堝であった。
逃げ惑う文官たちと泣き叫ぶ女官たちで溢れたそこは、喉の奥から絞り出したような華雄の驚愕の声をあっという間に呑みこんでしまうほどの喧騒に満ちていた。
冷静さを取り戻した詠は、さっそく宮中への突入を決断、その突入場所を宮殿西門及び南門とした。
西園八校尉の隊舎や詰所は、設立時に閲兵式が行われた演習場がある宮殿の西側に置かれている。
そのため、詠は宮殿西門は既に行動を起こしていると情報のあった袁紹が確保しているものと推測したのである。
そして南門。こちらは何進がここを通って参内したため、その後を追っていけば確実に追い付けるとの判断があった。
しかし、いざ西門に辿り着いた帝辛たちの目に飛び込んできたのは、逃げ惑う文官女官と、無秩序に右往左往するだけの、所属も雑多な兵たちであった。
いてしかるべき袁紹旗下の兵など何処にもいなかったのである。
「これは……いよいよ怪しいわね……。共謀しての事か、ただ呼応しただけかはわからないけど……。この有様を放置するんだから、禄でもない思惑なのは間違いないか」
そして詠は状況から袁紹への疑念を更に強くする。
何進を呼び出したのが蹇碩である以上、宮中にて武力を行使しているのはまず間違いなく蹇碩である。
そして、既に兵を動かしているはずの袁紹は、混乱の収拾を行っていない。
何故、事が起きる前に動きがあったのか。その動きは何のためなのか。
「……ううん、それを考えるのは後! 霞と華雄はボクと一緒に突入! 陛下と月の身柄の確保を最優先にするわ! 門の確保は徐栄、アンタがやりなさい! 火事場泥棒が混じってるかも知れないから、逃げ出してきた奴らは出来る限り散らばらないように集めといて!」
「「「了解!」」」
「んじゃ、突入!」
「いよっしゃ、、張遼隊、行っくでぇ!」
「張遼隊に遅れるな! 華雄隊、続けぇ!」
鬨の声と共に雪崩れ込む味方に遅れじと、詠も駆け出す。
ここから先は時間との勝負、一つの判断が大きく未来に関わってくるだろう。
(だから、ボクはこっちに専念する。そっちは任せたわよ、帝辛……!)
――洛陽・宮殿南門――
「仰聞さま! 南門、確保に成功しました!」
「典軍校尉どのへの伝令、既に発してあります!」
詠たちと別れ、何進直属の兵を連れて一人南門へと向かった帝辛は、既に指揮下に入った兵たちをほぼ完全に統率していた。
何よりも優先される皇帝と月の身の安全のためには、機動力こそが第一に優先され、確実に守り抜くための戦闘力が第二に必要とされる。
霞と華雄、そして彼女らが率いる并州兵をそちらに割り振ったのもそのためである。
そのため一人で南門の確保、並びに何進の救出に向かう形になった帝辛は、手勢として何進と切り離されてしまった大将軍直属の兵を引き連れていた。
皇帝警護の兵を
一方の帝辛は、これ幸いと王の資質を最大限に活かして彼らを統率、図抜けた戦力がいないにも係わらず、同時刻の詠たちよりも速やかに門を確保していた。
「よし……今頃は西門も制圧出来ているだろうから、これで二ヵ所確保したか。だが、私はもう宮中に向かわねばならない」
「では残りの二ヵ所は」
「そのための伝令だ。曹操ならば上手くやるだろうよ」
これ以上門の確保に時間を掛けられない帝辛は、それが出来るだろう者、即ち曹操にそれを頼む事にしていた。
言葉を交わした時間は決して多い訳ではないが、頼みにするに不足があるとは到底思えなかった。
「こちらの思惑を超えて動く事はあるだろうが、それでも袁紹のような戯けた動きはしないだろう。必ず自らの飛躍の糧とするように動くはずだ。事によると、もう動いているかも知れないな」
「成る程……では、そのように」
「うむ、頼んだぞ。……さて」
風の様に走り去る伝令の背を見送って、くるりと振り向いたその表情は、既に戦士の物だった。
「では諸君、大将軍の忠実なる兵士諸君。政争の時間は一先ずここまで。ここからは、戦争の時間だ」
居並ぶは、志願者の中から選抜された精兵百名。何れもが宮中で蛮行に及んだ不届き者に瞋恚の炎を燃やし、危難にある何進の身を一心に案じている。
「陛下の御許には、張遼と華雄が賈駆と共に急行しているから案ずる必要はない。なればこそ、諸君は一心不乱に大将軍を救い、狼藉者を討ち果たす事に集中してくれ」
余所に意識を飛ばす必要を、凡そ帝辛は感じない。
任せ、任されたのだから、後はそれを果たすのみ。
「征くぞ!」
野太い応の声を引き連れて、帝辛は駆けだした。
目指すは、未だ孤軍奮闘を続けているだろう大将軍何進の許。
「ふ、ふほ、ふほほほほほほっ。愉快、実に愉快よの! ふほほほほほっ!」
細く甲高く、酷く耳障りな嗤い声。
上軍校尉である蹇碩は、眼前で繰り広げられる戦いともいえぬ戦いに、久方ぶりに胸のすく思いであった。
蹇碩が先の皇帝より任じられた上軍校尉という役職は、西園軍はおろか、大将軍にさえ命令権を持つ。
その影響力たるや、軍権の最高位である大尉に比肩せんばかり、であるはずなのだが。
当然というべきか、何進は兵からの声望を盾に、蹇碩の事を殆ど無視したのである。
如何に命令権を持っていようとも、命令を発するような事態も起きず、あるいは起こせなかったため、直属の兵を除けば相変わらず宦官の握る軍事力は些細なものであった。
「それがどうだ、頼みの綱の武力で、今こうしてお前は袋の鼠よ。実に皮肉な事であるのぉ! ふほほほほほっ」
そんな嘲りの声も、何進には聞こえていなかった。
否、声そのものは届いていたのだが、その内容を理解する余裕など、毛先ほどもなかったのである。
響く刃鳴りはもう幾度目か。
五を超えた事は疑いようもないが、さて十に至ったかは定かならず、果てはそれさえ超えたかなど、神ならぬ身では知りえぬ事であろうとさえ思えるほど。
……神。武神というのは、成る程少女の形をしてたった今、目の前に顕現しているのだろう、と何進は現実逃避気味に脳裏の片隅で思う。
(ほんと、冗談じゃねぇなぁこりゃあ……。俺もそれなりに使えるたぁ思ってたんだが……)
速さと力。そのどちらもが圧倒的。
打ち合う度に弾き飛ばされそうになる獲物を必死に握る両手は、既に痺れすぎて感覚などとうになく。
最初に使っていた槍などとっくに打ち壊され、今握る大剣も度を越した刃毀れで、既にただの鉄の棒と化している。
寧ろ折れていないだけ幸運であると言えるだろう。
(……いや、運じゃあねぇな。そんなモンじゃあこいつからは逃れられねぇ。かといって、俺の腕でもねぇ。するってぇと……)
力でも技でも相手でも環境でもない、つまりは呂布自身のどこかに……?
と、そこまで考えて、何進は無益に気付いた。
(はんっ、考えるのは俺の仕事じゃあねぇか。それに……どのみちもうお仕舞い、か)
内心を言葉にするような余裕もなく。ただ、強烈な衝撃と共に己の手から吹き飛ばされた大剣を視界の片隅に収める。
別段大振りだったわけでも、一際力が籠っていたというわけでもない。
それはもう、ただ単に、限界だったのだ。
切返しの斬撃が己の頸部目指して繰り出されるのが、やけにゆっくり、はっきりと見える。
己の命が弾指の間をおかずして喪われるだろう事を自覚して、それでも何進の顔に浮かぶのは、無念ではなかった。
否、無念でないはずはないのだ。
こんなところで死んでしまう事自体が受け入れがたい事であるし、宦官の策にかかる事も腹立たしい。可愛い甥御の無事を見届けられない事も口惜しい。
だが。それを上回るものがあったのだ。
天下無双の飛将軍と打ち合って、今この瞬間まで持ちこたえる事ができたのだから。
後を任せるに不足ない者たちに、「次」を託す事ができるのだから。
故に何進は、迫りくる白刃には目もくれず、ただその意と威に満ちた目をしっかりと見据えて叫ぶ事ができるのだ。
「子受!!! 後は任せたぜ!!!」
どしゅ、と。
やけに耳に残る音がして、鮮血と共に首が舞う。
弧を描いて飛ぶそれは、やがてどちゃりと湿った音を立てて石畳の上に落下した。
そして落下の勢いでころりころりと転がって、やがてごろりと、天を睨むような形で止まった。
何の因果であろうか、そこは、何進の死を目の当たりにして思わず足を止めた、駆け付けたばかりの帝辛の足元であった。
どさりと、首を失った何進の身体が地に崩れる。
目を丸くして事を見つめていた蹇碩が、その音にはじかれたように笑い出す。
「ふほっ! ふほほほほほほっ! 死んだ! 死によった! 豚の首を薙ぐように死によったわこやつ! なんと似合いの最後である事よな! ふほほほほほほほっ!」
甲高い哄笑と、遠いざわめき。
それ以外の音は消えていた。蹇碩の兵たちは自分たちのしでかした事の重大さに今頃気づいて硬直しており。
帝辛が連れてきた兵たちは、衝撃と怒りのあまりに一時的に頭が真っ白になっており。
下手人である呂布は、誇るでもなくただぼんやりと立ち尽くすばかり。
そして帝辛は。
「くっ……」
虫が這いずるような嫌な疼きが首筋に走る。
その不快さを噛み殺しながら、惨状から目を離さない。目を背けたい悲惨さではあるが、逃避は何も生まないと教えられたがために。
そしてそれ故に、気づいたのだ。
「―――」
己の足元にある、何進の首。
卓越した仙道か何かならばともかく、只人が首を断たれて生きていられる道理はない。
故に紛れもなく目の前にあるのはただの肉の塊に過ぎない。
そのはずなのに、その眼は違うのだ。
紛れもなく死んでいるのに、その眼だけは、そう、まるで生きているかのように、意志に満ちているように見えるのだ。
しかもその意志は、怨念でもなく、執念でもなく。
彼が最期に残した言葉。そこに籠められたものと同質の。死という究極の陰とはかけ離れた、陽の気質のもの。
それは例えば、自分もそれに救われた、明日への、次代への、希望であるような。
「……委細、承知仕った」
気付けば、帝辛はそう答えていて。
まるでそれを聞き届けて力尽きたかのように、生首の眼がどろりと澱み、紛れもない死者のそれに変わった。
「っ!? おのれっ! よくも遂高さまをっ!」
弾かれたかのように上がる激憤の声と抜剣の音。
目の前で、敬愛する主が、薄汚い宦官の策謀にかかり落命したのだ。
その怒りは如何ほどであろうか。
如何ほどであっても――それを許すつもりは、なかったが。
「止めよ」
「なっ、何故止められるか仰聞どのっ!」
手にした棍――宮中では帯剣不可という原則を、帝辛は守っていた――を横に突き出して、背後でいきり立つ兵たちを押しとめて、帝辛はゆっくりと彼らに向かって振り返る
「お前たちの怒りも忠義もわからないこの子仰聞ではない。ではない、が――」
国にも、民にも、己の息子たちにさえ、何一つ遺してやれなかったという思いを抱える帝辛にとって、何進の姿は、酷く羨ましく見えた。
そして。
降りしきる紅い雨、分かたれた道、二度と戻らぬとわかっていた筈の輝かしい時間。
知らないけれど、識っている、その光景。
胸の内に込み上げる熱いものを吐き出すように、帝辛は言葉を紡ぐ。
「――任せると。そう託されたのだ。それに応えるもまた、道理だろう」
だから、任せろ、と。
ゆっくりと、一歩。踏み出したその背中がそう語っていた。
「………………わかり、申した。我らの思いとこれからを。お任せいたします」
短くも、重い沈黙の後。納刀の音と共に、彼らが一歩下がる。
今この場にいる何進に従っていた兵たちが、帝辛の旗下に入った瞬間であった。
「……では。子仰聞、義と理を以て貴様ら大逆の徒を誅す。行くぞ!」
蹇碩隊の一員であったその男は、そもそも今回の蜂起に納得などしていなかった。
悪評蔓延る宦官の指揮下に入らなければならなくなった事も業腹であったし、可憐にして清廉と兵の中で評判の董仲穎に敵対する事になるのも残念であった。
極めつけが、この宮中での蜂起である。
命じられるままに動いてみれば、帯剣禁止のはずの宮中に完全武装で入ってしまっており、気付けば何進大将軍を攻囲してしまっていた。
途中からは全てはまるで夢幻のようで、自分は一体何をやっているのだろう、という疑問を小さく抱えたまま、身体は勝手に命令をこなしていく。
そしてついさっき、何進大将軍の首が文字通り宙を舞うに至って、漸く彼は現実感を取り戻した。
「ふ、ふほほ、成る程威勢がよろしいが、貴様に何ができるというのだ? ええ?」
何進を討ち取ったという事実と、それをなした飛将軍という最大の武力が手元にあるという余裕が蹇碩の口を軽くしているのだろう。
今までその力に怯えているだけだった蹇碩の無様を知っている彼にしてみれば、それは酷く滑稽に思えた。
思えばそもそも。どうして俺は疑問に思うだけで、抵抗をしなかったのだろう……?
「ええい、貴様ら何を呑気に見ているのだ! あれは仰聞だぞ! 彼奴も陛下のお耳に毒を吹き込む大罪人! あんな老いぼれとっとと討ち取ってしまえ!」
ほら、今もそう。疑問に思っているのは確かなのに、身体は勝手に武器を取って仰聞どのに打ち掛かっているではないか。
ああ、一体俺は何をやっているのか。夢なら覚めてくれればいいのに。
頬の一つでも張れば、目覚めるんだろうか――。
「憤ッ!」
「………………は?」
じゅうぶんな溜めのもとに繰り出された棍の一撃は、不用意に打ち掛かってきた兵の頬に吸い込まれる。
聞仲の仕込みにより、絶技を納めるまでに至っていた技量は、新たな刺激を糧に更に磨きがかかっていた。
殊に、来るべき加齢による力の衰えを補うために重視された、威力を無駄なく逃さず目標に伝えきる技法は、哀れな兵の頭部を血霞に変えるという結末を以て成果を見る。
一振りすれば当たった場所が消し飛び、一突きすればそこに風穴が開く。
後には頭部か胸部かを失った死体が案山子か何かのように突っ立っていて、それもやがて気が付いたように崩れ落ちる。
それは無駄を極限まで削いだ、恐るべき絶技であり、蹇碩の薄っぺらな余裕を削ぎ落して余りあるものであった。
「ひ……ひぃいいっ!? な、なんだ貴様!? 何なんだ貴様!?」
「今上帝の治める漢帝国、その一臣下である子仰聞。それ以外に何がある」
「ぬぐっ……! ええい、呂布! ちょうどいい、こやつも殺せ! 殺して董卓ずれの手足をもぎ取るのだ!」
「………」
応じて一歩。進み出るは呂奉先。無双と名高い武人であり、現に帝辛もその圧倒的な戦いを、一端とはいえ目にしている。
油断などできよう筈もなく、しかし退く事など微塵も考えず。
無言無表情のままにゆらゆら近づいてくる赤髪に褐色の肌をした小柄な少女に対し、帝辛も棍を肩に担いだ姿勢でずんずんと歩み寄る。
そして、間合いの一歩外まで二人の距離が詰まり、互いに一撃を繰り出さんと獲物を振りかぶる、その瞬間。
ふわりと漂う匂いがあった。
それは微かに甘く、多分に蠱惑的な――。
(この、匂い。まさか――)
耳をつんざく轟音を立てて打ち合わされる戟と棍、それがもたらした衝撃よりも更に大きなものを、鼻孔に飛び込んできたその匂いはもたらした。
蘇るのは遠く色褪せない記憶。
甘く、蠱惑的で退廃的な、彼女の――。
「――っぐおっ!?」
それた意識は、二度目の激突の衝撃によって強制的に戻される。
気もそぞろなままに振るった程度の一撃では、飛将軍の一撃には抗し得ない。
吹き飛びそうな棍を握り締め、ぎしりと軋む関節の悲鳴を無視して、三撃目に備える。
(華雄より重く霞より速い! とても人間の枠に収まるものとは思えん! まるで武成王と戦っているようだ……!)
三度目の激突、既に敵手を仮想武成王と認識した帝辛は、真っ向から打ち合う愚を避け、威力を受け流しあわよくば体勢を狂わそうと画策する。
が、しかし崩れない。
小柄な体躯からは想像できないほどの下半身の強靭さは、まるで堅固な城壁に向かって打ち込んでいるかのよう。
そしてその印象は違うところにも由来していた。
(壁打ちとは言い得て妙だ、なっ! まるで独り相撲をしているようだ……!)
何進が抱いた違和感の正体と、彼が持ち堪える事ができた理由。
それはつまり。
「非礼を詫びるぞ武成王! こんな木偶人形が、お前と同格の筈がない! そして!」
心ここに在らず、といった様子の目立つ呂布であったが、真実文字通りの状態であったのだろう、と帝辛は確信する。
血臭に紛れて漂うあの匂い、それが確信を裏付ける。
そしてそうであるならば。
「かつての余なら知らず、今の余がそんな木偶人形如きに遅れを取るなどありはせん!」
「……っ!?」
切り返しの瞬間、動きが止まるその弾指の時を逃さず、力を籠めて弾き飛ばす。
ようやく、しかし僅かに呂布の体勢が崩れる。
確保した僅かな時間を逃さず、大きく踏み込んで呂布に文字通り肉薄する。
そして大きく肺腑の奥底隅々まで行き渡るように息を吸い、丹田に力を籠め、裂帛の気合を籠める。
――武成王曰く、
「――喝!!!」
相手の吐息が肌で感じられる距離で、華雄と霞が皇帝との謁見の際に出した声、それを凌駕する大喝。
兵たちも敵味方問わず耳を塞ぎ、蹇碩に至っては腰を抜かしてへたり込む始末。
そして、呂布はというと。
「―――」
大声に驚いて固まったというような挙動ではない、明らかに不自然な硬直。むしろ自失から戻ったような、目が覚めたばかりで状況の把握ができていないような。
――どちらにせよ、隙には違いなかったが。
「ふっ!」
「!? が……っは、ぁ」
鳩尾に、一発。
一対一での戦闘中に真正面からの不意打ち、という稀有な攻撃を無防備に受けて。
誰もが茫然と見つめる中、飛将軍が、地に落ちた。
『―――』
誰もが声を失う中、帝辛の荒い呼吸だけが響いている。
百も数えぬ僅かな時間であったが、呂布との戦闘は帝辛に恐ろしく消耗を強いていた。
しかし、それもやがては治まる時が来る。
ふう、と一つ息を吐いて、静かに、しかしはっきりと口にする。
「呂奉先。この子仰聞が倒したり……!」
「ひ……ひぃいいいいいぃい!?」
静寂を破ったのは、絹を裂くような悲鳴。
上軍校尉、蹇碩。呂布という借り物の武威に縋っての蜂起であったというのに、その呂布が敗れるなど。あの飛将軍が地に落ちるなど!
「あ……あり得ぬ! 呂布だぞ!? 黄巾の賊三万を一人で追い払った呂布だぞ!? それが……それが、こんな……!?」
蹇碩の悲鳴が呼び水となり、兵たちの凍り付いていた思考が動きだす。
確かにあり得ない光景ではある、がしかし、目の前にあるのはなんなのか。
立っているのは誰か? 倒れているのは誰か?
夢か幻か、己の見ている者がまやかしでないのか。
自問する声問い掛ける声答える声、それらがざわめきとなり、そして誰もがそれを受け入れた――否、受け入れざるを得なかった。
「……飛将軍が負けた。呂奉先が敗れたぞ!」
「倒したのは子仰聞だ! 董仲穎の腹心だ!」
「……宦官派が負けた! 大将軍派が勝ったぞ!」
或いは愕然と、或いは猛然と。
飛び交う声が、衝撃と興奮と絶望を掻き立てて、そして臨界を超えるその瞬間。
「ひ、ひは、ひゃぁああああ!?」
脱兎、まず逃げ出したのは蹇碩である、恥も外聞もなく、この場における宦官派の大将が、真っ先に。
そうなれば、後は雪崩を打つのは明白で、宦官派の兵も一人二人十人と、逃げ出す者が出始める、その機先を制して帝辛は告げる。
「逆心なき者は武器を捨てて投降せよ! 逃げる者は討つ!」
ここで蜘蛛の子を散らしてしまえば後の処理が面倒になるし、宮中に巣を張る大蜘蛛も、それに紛れて逃げ出しかねない。
現時点では相変わらず数の有利は相手にある以上、呂布を倒した虚名を使って無血で制圧するのが最善であるとの判断であった。
結果、雪崩をうったのは手放された武器ばかり。
誰も彼もが跪いて降伏した後に残ったのは。
「…………儂は、なにを……」
悪い夢から覚めたように、顔面蒼白で立ち竦む丁原であった。
「……建陽どの」
「お前は……仰聞、か。……そうか……儂は、大将軍に刃を向けた、のか……」
まるで他人事のように呆然と呟く丁原は、この暴挙に加担した重要人物とはとても思えない。
やはりか、という内心を億尾にも出さず、帝辛は詰問といっていい口調で問い掛ける。
「これは異な事を。貴方が大将軍暗殺に加担したのは明々白々、白々しいにも程がある」
「……だが、そうとしか言えん。まるでこの身が我が意を離れていたような……。戯言と思われるだろうが、な……」
「……左道邪術に掛けられたとでも?」
「左道邪術……そうだ!」
口元を歪め、如何にも呆れ果てたような表情を作り、さも有り得ない、といった口調でそう水を向ければ、果たして丁原はハッとしたように声を跳ね上げる。
「道士……そう、道士服の、眼鏡をかけた優男……。張譲からの使いだという彼奴に会ってから……そこから、記憶がない」
道士服、との言葉にピクリと帝辛の眉が跳ねる。
「ふむ……。その辺りも含め、詳しく話を伺いたい」
「……すまんが、無理な相談だ。宦官の誘いに乗って反旗を翻して大将軍を討った、という事実以外に語るべき事もない。道士についても、会ったのはその一度きりで、人相も碌に覚えておらん。……なにより」
暗に勧められた投降の誘いをにべもなく断り、丁原は手近な所に落ちていた剣を一振り手に取る。
「ふん……警戒せんのだな」
「必要があると?」
「生意気な。……だが、そうでもなければ、やっていけないのだろうな。だから儂は、ここで終わりよ」
自嘲して、丁原はどっかと座りこみ、上半身を肌蹴させる。
醜く弛んだ肉体には、往年の面影はなく、刻まれた傷跡だけが、かつて戦士であった事の証である。
「……蹇碩が逃げ、捕まる保証がない以上は、他の誰かがこの場での騒動の責を負わねばならん。それに……一刻も早く、遂高さまに詫びに参らねばならんのでな」
「……承知した。正直、あまり貴方だけに時間を掛けてもいられないので、片を付けて頂けるならありがたい」
「ふん、抜かせ。……では、後は任せる」
「………」
無言で一礼し、帝辛は踵を返す。
そして背後からの刃が肉を裂く音と粘っこい水音を聞き届け、この場を治めるために口を開くのだった。