昏君†無双
田畑を耕す鋤鍬の音の代わりに、雑草を刈る鎌や水を撒く柄杓の音が響くようになった、初夏。
洛陽は宮中、その一角にある西園八校尉が利用する大規模な練兵場に響く声、音も様変わりしていた。
「脇が甘い! それでは剣に力が伝わらんぞ!」
「は、はいっ!」
威厳ある、やや低いがよく通る叱責の声と、それに正に懸命といった風に返される声。
誠心打ち込んでいる事が窺えて、それはそれで好感が持てるのだが、それで訓練が温くなる訳でもなく。
「そのまま素振り百本、また脇が甘くなれば初めからやり直し!」
「はっ!? は、はいぃいい!」
仁王立ち、仔細も見逃さぬと言わんばかりの帝辛の容赦ない指導に、劉弁は半ば涙目やけくそで返事を返すのだった。
月の侍中就任からおよそ二月。
宮中の様相は、季節の移ろいに同調するかのように変化していた。
まず真っ先に挙げられるのは今上帝劉弁の変化である。
劉弁の諮問役となった月であるが、その働きぶりは当の劉弁はおろか、対立している張譲でさえ感嘆の念を抱かざるを得ないものであった。
成る程、月は并州の州牧として一勢力の棟梁となっているが、その性根を鑑みればむしろ補佐に回る方が向いていたのだろう。
そしてそこに劉弁の境遇が月の琴線に触れれば、その慈母の如き心は唸りを上げて行動力は通常の三割り増し、政務から心の悩みまで完全対応致します……とまあ肉親顔負けの甲斐甲斐しさを発揮。
そしてそれが家族関係欠乏症の劉弁に会心の一撃、見事信用と信頼を勝ち取り、今では張譲をも凌がんばかりの重用されっぷりである。
そして月が重用されれば、自然と彼女の周囲もそれに倣う形になる。
月の側近と表現してもいい詠は、御史中丞として既に辣腕を振るいに振るっていたし、帝辛、霞、華雄もそれぞれ羽林・虎賁の各中郎将、騎都尉として腑抜けていた官軍を鍛え直し、漢王朝の誇る曉将・皇甫嵩を唸らせる働きを見せていた。
これらの働きや評判は、これまでは何進派の躍進を快く思わない張譲らによって劉弁の元には届かずにいたのだが、宦官派の影響力の低下と共に、その情報制限も低下。
詠らの評判は劉弁の知るところとなり、月共々近習に招かれる事も増えた。
そしてその中でも帝辛は、些か別格ともいえる扱いを受ける事となっていた。
即ち、冒頭にあるとおりの劉弁の武芸指南役、である。
「九十九っ……百ぅっ!」
ぶおぅん、と。勢いなどなく、それでも型だけは綺麗に保って木剣が唐竹に振られる。
勢いのままに投げ出したくなるところを何とか堪えて、正眼に構える基本の型を取り、帝辛の「それまで」の声で、劉弁は剣を投げ出してどっかりと尻餅をついた。
「お疲れ様です、陛下」
「ああ……本っ当に疲れたぞ……。これで残心を忘れていたらと思うと……」
「勿論、その時は一からやり直してもらうつもりでした」
「………」
しれっと恐ろしい事を平然と言ってのける帝辛に、劉弁は戦慄を禁じ得ない。
そもそも出会った最初から、自分に対して敬意は欠かさねど、媚びも畏れもしないこの男が苦手だった。
それは女官に宦官ばかりの空間に突如闖入した異質に対しての恐れだったかもしれないし、堂々と男らしい姿勢に対する嫉妬や羨望が故だったかも知れない。
どちらにせよ、劉弁は帝辛に対して苦手意識を抱いていた。
出自ははっきりとしていないにも拘らず、自分に支配者のなんたるかを滔々と語ったかと思えば、皇帝警護の兵を稽古と称して叩きのめし、再教育を施し始める。
お前は一体どこの完璧超人だ、と叫びたくなったのも一度や二度ではない。
説教や威風に辟易して、より一層月に傾倒していくのは、劉弁にしてみれば仕方のない事であった。
あったのだが。
「あ〜、あれやな。微温湯にばっか浸かっとったら堕落してまいますからなぁ」
「ここは一つ、心身共に引き締めるためにも」
「少し……肝を冷やしましょうか」
実のところ、武官組にしてみれば、もどかしい事この上なかったのである。
甘ったれて月に縋ってばかりで、環境が変わっても自身は何一つ変わっていない劉弁。
軍でならば一発修正を加えてやればいいのだが、流石に皇帝に対してそれは出来ない。
というか、宦官による皇帝、皇太子の傀儡化教育が顕著になって以来、皇帝を正しく教育出来る人材など存在していないのだ。
ただ、瞼の裏に色濃く国父とも言うべき漢の姿を焼き付けた男は、皇帝ではなくとも王、即ち支配者への教育がどんなものであるのかという事を、熟知していた。
それからの数週間について、語るべき事は多くない。
言えるとすれば、それは豊満と禁鞭の繰り返しであり、月たちまでもが帝辛に対して思わず背筋を伸ばしてしまうようになってしまった、という事。
そして、別にこれは自分だけがアレを味わった事への意趣返しでもなんでもないのだ、と自己弁護する誰かさんがいた、という事だろうか。
閑話休題。
「しかし、陛下も随分と見違えられましたな」
「……ん、そうか? ……そうか」
思わずどこか遠いところに向けてしまっていた視線を振れば、頭の天辺から爪先までをとっくりと眺める帝辛。
鑑定されているようでむず痒く、ついぺたくたと自分の腕やら頬やらを触る劉弁であったが、それで自分でも気が付いた。
触れればすぐに骨と筋が感じられた腕は、そこそこの筋肉が付き、しなやかな弾力が感じられるようになっており。
不健康にこけ、張りつやも失っていた土気色の肌は、今では血色もよく、気持ちと同様に張りがあった。
成る程確かに一目瞭然の変化であろう。
「萎えた身体からは萎えた意思しか生まれませぬ。これは実体験ですので間違いなき事。今の陛下であれば、政も陛下ご自身による親政へと轡を向ける事も不可能ではないでしょうな」
「やはり……その必要があるか……?」
「この国は漢帝国でありますれば」
帝国。帝の統べる国。
「……なればこそ、今はもっと学び、鍛えねばな」
幼少の頃抱いた、父祖のように堕落した皇帝にはなりたくないという願望に手が届きそうになっていると気付かされて一瞬色めき立った劉弁ではあったが。
眼前に立つ男の覇気、内心で我が第二のが母と慕う月の優しさと強さを兼ね備えた精神、政軍両略を教わる機会の多い詠の知識智謀……。
それと比べる――事がおこがましいほどに、自分は未熟である。
今この時までの十七年を思えば、これから力を身につける数年間を耐えるなど造作もな「良くぞ仰られましたな。では差し当たり素振り百本追加という事で」……くない事で。
劉弁の両目から、はらりと汗が零れたのも、無理ない事であった。
一方、こちらは昼なお暗い宮廷の奥。伏魔殿の中枢ともいえる張譲の執務室である。
そこには部屋の主であり宦官の首魁でもある張譲を始め、趙忠や段珪、蹇碩といった大物が勢揃いしていた。
誰もが煌びやかな衣装に身を包み、また目も眩むほどの権勢を誇る者ばかりであるのだが、場の空気はそれに反して暗く重いものであった。
「まこと、憎たらしきは仲穎よな……」
甲高い声で重々しく吐き捨てる張譲は、自身の派閥の衰退を誰よりも感じ取っていた。
唯一にして絶対の武器であった皇帝に対する影響力は、月という存在によって殆ど無効化されてしまい、自我や支配者としての自覚がしっかりとしてきた劉弁は、未だに傀儡のような扱いをしようとしてくる張譲に対して、はっきりと距離を置き始めていた。
実務を行う役人の多くが宦官である事から、政権内における影響力自体はそこまで低下していないものの、それが衰えるのも時間の問題だろう。
「もう手を拱いてはおれませんぞ張譲殿! 早く何かしらの手を打たねば!」
「蹇碩よ、そう焦るでない」
「焦るでないですと? 何を暢気な! 私の立場も考えていただきたい!」
蹇碩は、皇帝直属の軍である西園八校尉の最上位である上軍校尉に任じられている宦官である。
命令系統上では、大将軍である何進にさえ命令権を持つ、宦官派唯一といっていい軍事力の源なのだが、何進がその命令に従うはずもなく、また何進派の勢力伸張に呼応するように中軍校尉である袁紹、その従姉妹である袁術らも公然と反宦官を唱え始めている始末であった。
「袁家の猿娘どもの旗色は明らかであるし、あの忌々しい曹操めは何を考えているのかさっぱりわからんが、今更狼藉を躊躇うような輩ではあるまい……。最早私の手には負えんのですぞ」
「ふむ……。確かに、このままではの……」
「……そろそろ、潮時かも知れませんな」
『――!』
ぽつり。今まで沈黙を守ってきた趙忠の、囁き程度の一言。
しかしそれは少なからぬ衝撃を以て、部屋に響いた。
「それはつまり……」
「いよいよ以て、亡き霊帝陛下の御遺志を果たすべきであると……?」
霊帝は、第二皇子である劉協を次期皇帝にと願っていた――。
宦官が政治を壟断するためにでっち上げた、などと言われているこの話であるが。
実のところ、これは真実でった。
私的な場での私的な発言であったため、拘束力を持つ事はなかったが、宦官たちの中では一つの方針・或いは大義名分として存在していた。
しかし蹇碩が劉協の戴冠に懸ける思いは、張譲らのそれとは違い、生半なものではなかった。
「それは素晴らしい! 私は生前の霊帝陛下より、協殿下をよろしく頼むと直々に頼まれておるのです! 我が忠と、我らの利が合致するならば、これ躊躇う理由はありませぬぞ!」
「……成る程、確かに。蹇碩殿の忠の心は見上げたものですな」
基本的に利を求めて行動する張譲らにとって、果たして急に熱弁をふるい始めた蹇碩はどう映るのか。
それを物語るように、張譲の言葉は酷く冷めたものであったが。
(嫉妬の熱病に冒された袁家の小娘に、まやかしの忠に浮かれる道化……。さて、これは使えるか……?)
張譲の脳は、熱を放たんばかりに回天を目指して回転するのであった。
「あら」
「む……」
その邂逅は、淀んだ微温湯の中でもがくような洛陽での生活に辟易していた彼女にとっては歓迎すべきものであったろう。
少なくとも、彼女――曹孟徳には私腹を肥やす事にしか頭の回らない宦官や役人との会話を喜ぶ趣味はないし、そんなものより今宮中で台風の目の一つとなっている目の前の男との一時の会話を楽しむ方が有益であると感じられた。
「久しいわね、子仰聞」
「これは孟徳殿。お久し振りにございます」
「ふふ……そこまで畏まらなくてもいいわ。以前と違って貴方は中郎将の一角なのだから、それなりの礼儀さえ弁えていれば、とやかく言われないし言わないわ」
「……さて、その匙加減が私には難しくありまして」
拱手し深く頭を垂れたかと思えば、ぽりぽりと頭を掻いて困った顔をして見せもする。
そんな自然な振る舞いからして、宦官たちのような嫌らしさがないこの男の事を、曹操は決して嫌ってはいなかった。
そも、彼女が嫌うのは愚鈍な人間であり、努力をしない人間である。
今まで彼女が見てきた男は、名家の出身であったり有名な私塾の出であったりと、側はいい者達が多かったのであるが、家名を笠に着て威張り散らすばかりの無能であったり、知識ばかりで実戦が全く出来ない頭でっかちであったりと、なんとも残念な者ばかりであった。
男が全てそうではない、と理解はしているものの、男を見る目に幾らかの色眼鏡がかかる事になったのは致し方ない事であろう。彼女の女好きに拍車がかかったのも、この辺りが影響しているのかも知れない。
さて、そこへ来て帝辛である。
元は無位無官の出自さえ定かならぬ男であったらしいのが、新進気鋭の董卓とやらの配下となってからはあれよという間に頭角を現し、今では典軍校尉となった自分に肩を並べる立場にある。
官位だけでなく、その実力も一晩で書類の山脈を踏破して見せたかと思えば、その足で向かった練兵場で禁軍兵士を相手に無双乱舞(模擬)と、文武両道を自負する曹操をして、感心せざるを得ない働き振りである。
心技体兼ね備えた傑物。それが曹操の帝辛に対する評価であった。
そしてそれだけに、彼女には気になる事があった。
「ねえ仰聞? あなた、この後時間はあるかしら」
「それにしても、いつの間にか貴方とは官位で並ばれてしまったわね。貴方の仕える董卓に至っては、九卿の一角……。ちょっと前までは同じ地方官吏だったというのに、あれよと駆け上がったものね」
急ぎの用件は入っていないと答えた帝辛を誘い、曹操はお気に入りの東屋に来ていた。
手ずから淹れた茶は帝辛にも好評で、それを切っ掛けに話は弾み、帝辛の口調も砕けたものとなっていた。
場が暖まった頃合を見計らって、曹操は二杯目の茶と共に本命の話題を切り出した。
「幸いにも我らが主は人の輪に恵まれていたからな……。後は、そうだな……人徳、というやつか」
「へぇ? まだ一度もあった事はないのだけれど、噂どおりに可愛い顔をして、その実やり手って事なのかしら」
「やり手と言うか、寧ろ手弱女という言葉が似合うだろうな。曹操とは正反対の人柄だな」
「あら、言うじゃない。じゃあ聞くけど、貴方の目には私はどういう人物として映っているのかしら」
「ふむ……」
言われて帝辛は茶器を置き、とっくりと曹操を眺める。
身体の線は細く、ぱっと見ではまず華奢と言ってよい体躯である。しかし嘗ては戦場にて大鎌を振るい、黄巾の賊徒を薙ぎ払っていたというし、しっかりと鍛えているのだろう。
とは言え、肉付きが薄いのは確かであるし、あまり男好きのする身体ではない。
その分、といえばいいのか。特級の美人である事は疑いようもなく、不敵な表情や佇まいからは、その小さな身体にぎっしりと押し込められた才気・覇気が滲み出している。
「……平世にあっては乱を齎し、乱世にあっては平を齎す……などと言っては、首筋が涼しくなりそうだな」
「! へえ、管輅という占い師も、似たような事を言っていたわ。曰く、乱世の奸雄、治世の能臣と」
「ほう。私の相馬眼も悪くはない、という事か」
「悪くないどころじゃないわね」
そう言って、曹操はじぃと帝辛を見つめ。そして言い放った。
「貴方……ウチに来るつもりはないかしら?」
ぴくり、と帝辛の眉が動く。それを目の端で確認しながら曹操は続ける。
「地方から洛陽に上がってきた貴方ならわかるでしょうけれど、安定し、豊かなのは私や貴方の主といった地方の有力者たちの領土ばかり。最も王朝の支配力の強いこの洛陽でさえも、安寧は宮中に限った話。貧困は王朝のお膝元さえ蝕み、人心に至っては言わずもがな。歴史上、こういう状態にまで至った王朝がどうなったのか……。まあ、これ以上は言わずもがな、という奴ね」
「……そう、だな。よく、わかっているつもりだ」
「……そう、ならば問いましょう。こんな時代に必要とされる人物とは何か?」
「………」
文王姫昌、武王姫発、もしかしたら伯邑考、そして太公望。
対極を考えれば、聞仲。彼もそうだったろう。
その誰もが、そう呼ばれるに相応しいものばかり。
即ち。
「……英傑、或いは英雄と呼ぶべき、時代動かす事の出来る人材」
「ご明察」
よく出来ました、と言わんばかりの笑みは、しかしすぐに不敵なそれに取って代わられる。
「そして私は、自分がそう呼ばれるに足ると自負しているわ」
「………」
「ふふ、やっぱり貴方は驚かないのね。貴方も、わかっているのでしょう?」
「………」
答える言葉を持たず、ただ苦い表情を浮かべるばかりの帝辛とは対照的に、曹操は不敵さに獰猛ささえ加味したような顔。
身内以外では初めて秘めたる野望を口にする事への興奮が故だろうか。
「時代は英雄を求めており、そして英雄もまた活躍の場を求めるようになるでしょう。子受、私は貴方にも英雄たり得る人物であると思っているわ。そしてそんな貴方には、董卓の部下、という環境は不適切である、ともね」
「不適切……とは?」
「簡単な事。董卓は、確かに一角以上の人物ではあるのでしょうけれど、それでも漢帝国に忠実な、保守的な人物でしかない。旧態に固執するような者の下にいては、新たな時代の流れに乗る事は出来ないわ。……ええ、言い切りましょう。滅びる定めにある王朝に、貴方ほどの才を食い潰させる訳にはいかないのよ。だから、私と来なさい、子仰聞」
それはつまり、漢王朝の滅亡をはっきりと口にし、その後に自分が新たな国を興す、という宣言に他ならず。
一度国家の滅亡を、そのど真ん中で体感或いは体現した帝辛には、この曹操の宣言は重く響いた。
しかし、それだけに己の立ち居地を見直す事にも繋がるのだろう。
しばしの黙考の後、帝辛は真っ直ぐに曹操の瞳を見つめる。
「……過ぎた評価、などと言えば逆に礼を失するか……。いや、望外の評価をもらえた事には素直に感謝しよう。……だが、その勧誘には応じられない」
「あら、何故かしら?」
聞き返す曹操の目に、誘いを素気無く断られた事に対する不満の色はなく、むしろ面白がるように目を細めている。
「……まず第一に、私には月たちに対する恩がある。生きる屍に喝を入れ、立ち直らせてくれた。これは命の恩にも等しい。その恩を受けておきながら、鞍替えするなど、私には出来ない。第二に……私には為すべき事があるのだ。齢を重ね、古きをよく知る老人が為すべき役目。そしてそれは、新旧で言えば旧にあたる側でしか出来ない事だ。故に、その誘いは受けられない」
「為すべき事ね……。貴方はそれが自分の天命であると、そう判断しているのね」
「天命……天命、か。いや、これはそんな大それたものではないだろうな。」
こちらにやってきた当時はわからなかった事ではあるが。神界にいる神々の役目や、そもそも自身がここにいる事、そしていつぞや華雄が見たという、神妙不可思議にして胡散臭い占い師の事を考えれば……。
(……何故だろう、ただダラダラと時間を費やすだけだった予に対する嫉妬とか嫌がらせとか、そういうのが理由のような気がしてならない……)
勿論、聞仲の親心とか、単に適材適所であるとか、そういう面もあるのだろうけれど。
「……まあ、兎に角私が今ここにいる以上、私には今ここで為すべき事がある。ただそれだけの事。予定調和の天命なんぞに従ったつもりは、断じてない」
「そう、残念ね。手酷く振られてしまったわ」
歴史の道標に従った役割を演じ、そして破滅した帝辛は、当然のように天命というものを嫌っている。
それを知らない曹操は、帝辛の些か過剰とも思える反応に興味を抱くも、それをおくびにも出さずにさも残念そうに嘆いてみせる。
「ああ、いや、誘いを受けられないのは確かだが、強く否定したかったのは天命云々という件であってだな」
「ふふっ、そう慌てなくてもいいわよ、ああ可笑しい」
ころころと鈴の鳴るような声で笑う曹操に対し、帝辛は憮然とした表情……と見せかけて、口元が笑っていた。楽しい会話に少々箍が緩んでいたし、目の前で笑っているのは特級の美人であるし、何より彼は帝辛、紂王なのだから然もあらん。
それはさておき。
「さて、断られたのは残念だけれど、楽しい思いもさせてもらった事だし、良しとしましょうか。……それに、今に私も貴方たちもそれどころじゃあなくなるでしょうから、ね。本気で誘うのはそれを乗り越えてからにしましょうか」
「何……?」
すう、と曹操の目が細まり、真面目な雰囲気が立ち戻る。
「ええ、ここからが今日の本題。私にも貴方たちにも、大きく関わってくる情報があるのよ――」
時は中平五年、八月。
時代は再び動き出そうとしていた。
そして――。
「ふむ……。今回は些か勝手が違うようですね……。どうにも異分子が紛れ込んでいるようです」
「ふん。関係ねぇな。どうせやる事は変わらねぇんだ」
何処とも知れぬ、誰も知らぬ場所で。
歴史の歯車もまた、蠢動を始めていた――。