- k a r e s a n s u i -

昏君†無双

「んん? おお、貴様が董卓か! 何だ何だ、噂に聞く辣腕刺史とは思えんなりだなぁおい! がははははは!」

 詠は、思う。
 洛陽は、漢帝国の帝都であり、全ての中心と言える地である。
 そして、宮廷ともなれば、正に中心の更にど真ん中、最も高貴にして厳かな場所であるはず。
 断じて、こんな粗野な笑い声が響く場所ではない……はずなのに。

「どうしてこうなってるのよ……?」

 ポツリと漏れた困惑の声は、豪快な笑い声の前に、哀れ吹き飛ばされるのみであった。



「は、ははっ。并州牧、董仲穎にございます。大将軍閣下に於かれましては、ご機嫌麗しく……」
「うん? おお、そうだったな! 貴様を州牧に推したのは俺だったわ。……おお、あった。そら、任状だ。励めよ」
「え? わ、わっ!?」

 ほれ、とばかりに投げ渡された書類は、確かに董仲穎を并州州牧に任命する旨を記した物。
 お手玉しつつもなんとかそれを受け取り、月は――後ろに控える詠も――呆気に取られた面持ちでそれを寄越した男を見る。
 もじゃもじゃの髭面に、粗野とか野卑とかそんな印象しかしない顔立ち。中年太りの様に見える体躯は、しかしただ肥えている訳ではなさそうであり、しっかり鍛えられた筋肉を、分厚く脂肪で鎧っているのだろうと思われる。

(……成程。気品は欠片もないが、威風はある。一人のつわものとしても十分以上の力量も備えていよう。……これが、大将軍か)

 正しく、帝辛の考えたとおり。
 この粗野で野卑で品の足りない大男。彼こそが、反宦官派を束ね、月を呼び立てた張本人。姓を何、名を進、字を遂高。何皇后の弟にして漢帝国の大将軍であった。

「何進さま、お戯れが過ぎますぞ」
「なんだ建陽。俺はいつもこんなんだろうが。今更五月蝿い事を言うな! それともなにか!? この俺に宦官のタマなしどもみてぇなナヨナヨした態度を取れってのか!? それこそお前、戯れが過ぎるってもんだろうがよ! がははははは!」
「何進さま!」

 丁原の小言なぞどこ吹く風。まるで聞く気のない何進に丁原は涙目である。

「(……どういう事なの……)」
「(あ〜、そういや言っとらんかったなぁ……。なんちゅーか、これで普通やで?)」
「(……流石は洛陽、侮れないわ……)」
「(それはなんか違うんちゃうかな……)」

 そして詠。やや固めの常識人であるところの彼女にとって、目の前の状況は少しばかり刺激が強すぎたようである。
 なにこれこれが大将軍? こんなのが軍事の大権力者? 魔窟とは思っていたけどこれは予想外ね、フフフ……とまあ帝辛とは違った方向にある意味感心していた。混乱中であるともいう。
 霞の見守る視線に、少しばかり可哀相なものを見るソレが含まれている事に、気付く余裕は当然なく。
 何進と丁原の咬み合わないやり取りの前でこちらも半ば涙目になっている月に気を配る事も出来ずにいたりするのである。

「……ふん? 何だ文遠、こそこそと内緒話たぁらしくもねぇな! イイ子ちゃんの前だからって猫被ってねぇで、ズケズケと物申して見せたらどうだ?」
「え、ちょ、なんでウチに飛び火するん!?」
「おお、なんだ出来るじゃねぇか」
「あ……」
「霞……アンタね……」
「え、ちょおっ!? なんやこの賈駆の罠っ!?」
「いや、ただの自滅でしょ……大将軍閣下になんて無礼を……」

 怒りやら呆れやら状況の混沌っぷりやら、眉間に亀裂を走らせる詠。
 そんな普通に考えれば常識的と言える詠の態度に思うところがあったのか、何進の視線が詠を捉えた。

「おい、そこのちんまいの」
「ちんまっ!? ……っ、失礼いたしましたっ」
「……ふん。そうだ、おめぇだ」

 あからさまに身体的特徴をあげつらわれた詠の米神に井桁が浮かぶが、場所と相手を思い出してすまし顔を取り繕う。
 何進は詰まらないものを見る目でそれを見ていたが、鼻息一つ吐いてのっそりと立ち上がる。
 よっこいせ、とでも声が聞こえてきそうな立ち上がり方は、立場ある人間の所作とは思えない粗雑さ。
 それは当然目付役である丁原の目に留まり、生真面目な詠の癇に障る。
 思うところはあれども、しかし立場の差でそれを押し込めた二人ではあったが、しかし何進はそれを見逃さない。

「……そう、それよ。その反応」
「は……?」

 怒るでもなく、ただ悪そうな、実に似合いの笑みを浮かべる。それは当の二人の予想とは些か違っていて、思わず戸惑いの声が漏れる。

「建陽は、まぁごく普通の役人の感性してやがるからな。文和は見ての通りに堅物っぽいからな。そんな反応をするのが当然だわな。なんせ俺ぁ大将軍さまとは言え、元々は下賤な屠殺屋の倅だからな。冠に似合うような教養やら品性やらなんてもんは欠片も持ち合わせちゃいねぇ。大将軍なんてもんになったのも、皇帝に姉貴がたまたま見初められて、そのおこぼれに預かったからだしよ。ガワがどうあれ、中身は下々の者の最底辺でしかねぇのよ」

 だから、お前たちの反応は当然なのだと。
 誰にも到底言えないような――たとえ内心がどうであれ――暴言を、当の本人にあっさりと吐かれて、己の中の何処かにあった、何進に対する侮りないし不満を見透かされた二人は思わずにを震わせる。
 何進は、自身が言うように出自はどうあれ、現状は大権力者である。そんな人物に反感を見抜かれたとあっては、待っているのは身の破滅であろう。
 しかし何進からは時は感じられない。凄みのある笑みを浮かべたままである。

「……そんなだから、文遠が以前言ったように、俺にゃあ戦略眼なんてもんはありゃしねぇし、機を見る敏さなんてもんとも縁遠い。そりゃアホ呼ばわりされても仕方ないわな。ま、家業が家業だけに、どこにどう刃を入れりゃあ身体ってもんがぶった斬れるのかは熟知してんだがよ。だがそりゃあ兵の仕事で、大将軍さまにはそれほど求められちゃあいねぇんだと」

 つまんねぇ話だぜ、というぼやきからは本気でそう思っている事が伺えて。月も霞も帝辛も、思考の冷静さを取り戻した詠も。なるほどこの人物の本質は、確かに粗野な一庶民でしかないのだと理解した。

「ふん、理解したみてぇだな。そういうわけでよ、俺ぁ敬われるような人間じゃねぇ。だが実際はどうよ? 会う奴会う奴、どいつもこいつもペコペコ頭下げやがる。その内心なんてもんは、まあ言わずもがなってやつよ。ま、俺もお行儀よくしてやるつもりなんざさらさらねぇがな。政務やら指揮やらが出来ねぇ俺がやんのは、敵をブッ殺す事と、もう一つしかねぇ」
「……もう一つ、とは?」
「……文和、賈文和よ。わかりきった事を聞くんじゃねぇ。お前の頭は飾りか? 知れた事だろ? 己の欲望に忠実に振舞う事だよ。どいつもこいつもやってる事だろが? 今更目くじら立てんじゃねぇよ」

「「「………」」」

 その言葉への反応といえば、月は悲しげに目を伏せ、詠は押し殺した無表情、霞は呆れたように肩を僅かに竦め。

「……失礼ですが、閣下。その欲について、お聞かせ願えませんか」

 ただ一人、帝辛が。
 その深い色をした瞳に興味を浮かべて、ここに来て初めて声を上げた。

「……ほー。珍しいじゃねぇか」

 驚きの表情で何事かを口にしようとした詠や丁原を手で制し。こちらも初めて帝辛に意識を向ける。

「ここに連れてこられたって事は、それなりの奴なんだろうが……名乗れ」
「董卓さまに仕えております、子仰聞と申します」
「ふん……? 見ねぇ顔だし聞かねぇ姓だな。まぁそれはいい。で? 欲ってだけじゃあ納得できねぇのか?」
「……恐れながら。閣下は、ご自身で仰られたように、この宮中に於いて異端であられます。そんな閣下がお持ちになる欲……。私もこの歳になるまで色々な欲を見てきましたが、そんな欲とはあまり縁がありませんでしたので、興味がございます」
「ほぉ……? 好奇心か」
「はい。殿上人と言えば、金欲性欲権勢欲を、粘着質に追い求めるのが常という物。しかし閣下からは、あまり陰険な感じがいたしませぬ故、尚更に」
「は……ははははっ! なんだなんだ! 董卓! 面白い部下飼ってるじゃねぇか!」
「……へ? へぅ? きょ、恐縮、です……?」

 呵々大笑、とはこれの事と示して見せたいほどの大笑い。
 かつては兎も角、今は一介の州牧の部下に過ぎない身の帝辛にとって、何進は遙か雲の上の身分である。芯まで染み付いた宮廷人である丁原はもとより、月たちでさえ危ういと感じてしまう帝辛の発言であったのだが、当の何進はむしろ上機嫌であった。
 一方帝辛はといえば、一国の王をやっていただけあって、自身を含め、多種多様な欲と、それに駆られる人間を見てきている。
 それらの経験からして、何進の言う欲は、ギラついてはいるものの、陰湿な感じのしない、渇望とさえ言えようものであると感じられたのである。

「はなっから反りの合わねぇ宦官のオカマどもは兎も角、革新を狙う自称清流派のお坊ちゃんも、俺が自分の欲に正直に生きると言って見せりゃあ見切りを付けやがる。この俺の欲が、テメェらお偉方のと同じもんだと決めつけてやがるのよ。見る目がねぇってもんだろ!」
「生まれも育ちも違えば、求めるものも当然異なる……という事でありましょうか?」
「応ともよ! 当然だろうが!」

 だん、と机を一叩き。或いは、それは世に向けて叩きつけたい思いであったろうか。

「俺ぁ、知っての通り肉屋の倅だった。屠殺業ってぇのは、そりゃあ下賤な仕事らしくてなぁ。お偉いさんはもとより、ちょいと懐に余裕があって肉が食えるような奴らも、肉はさも美味そうに食うくせに、それを毎日ひいこら言いながら捌いてる俺らの事は、穢れているだのなんだのと、そりゃもうトクベツ扱いよ。有り難くって涙が出らぁ」

 そう嘯きつつも、もちろん表情は到底有り難がるようなものではない。
 が、浮かんだ怒りもすぐに消え去る。怒りはあれど、それだけではないのだ。

「そんな俺だが、姉貴が皇帝に見初められてからはどうよ? 市井の民の最底辺から郎中、中郎将から今じゃあ大将軍サマで、下にも置かれねぇ待遇だぜ? 今まで俺を歯牙にも意識の端にも引っ掛けてこなかった奴らが、ペコペコヘコヘコ頭を下げやがるし、俺の一言で何百何千何万って人間が右往左往しやがる。こんな痛快で不快な事ぁ他にねぇだろうがよ!」
「それは……」

 月の表情が硬くなる。
 彼女自身は、身分や出自で人を差別するような事はまず間違いなくしない。太原での籠城騒ぎの時の一件がそれを物語っているだろう。
 それには彼女自身が決していいところの出というわけではない、という事も絡んではいるだろう。
 涼州出身であり、家は異民族である羌族とも親しく、かつては血の交流もあったかも知れない。
 そんな辺境独特ともいえる環境が、彼女の思考を育てた事は間違い無く、そして彼女の幼馴染である詠にも、同じ事が言えるだろう。
 しかし、そんな風に受け入れる事のできる度量を持った人は少数であろう事も、彼女らはよく理解していた。
 彼女らのその出自が邪魔をして、丁原に目をつけられるまで、その才を世に示す機会を与えられずにいた事が、その証左である。
 だから、何進の言う事が、少なくとも根も葉もないわけではないという事が理解できてしまう。

「か、何進さま! 言葉が過ぎますぞ!」
「あん? 何だ建陽。テメェももとは寒門の出だろうが? 長くこんなところにいると、染まっちまって忘れちまうのか?」
「ぬ、ぐ……」
「あー、せやったなぁ。大将軍見とったらなんか引っかかるもんがある思っとったけど、昔の建陽サマに似とるんやなぁ。今じゃあ見る影もあらへんけど」
「っ! もう結構! 好きになさるがよろしい!」

 痛いところを突かれたという顔をしていた丁原は、霞の追い打ちに顔を朱に染めて鼻息も荒く部屋を出て行く。
 その背中を見送って、何進はつまらなそうに鼻を鳴らした。

「けっ。すっかり骨抜きにされちまって……」
「……建陽さまも、昔は……?」
「ん? おおよ。アイツは元は武官でなぁ。騎射の腕だけで鳴らしてたんだが、今じゃあ冠と衣と利権とで雁字搦めであのザマよ。丁建陽なんざどこにもいなくなっちまった」
「……残ったのは執金吾の丁建陽だけ、ってわけね……」
「……あれこそが、権力という魔物に食われた末路よな」

 ポツリと呟かれた帝辛の言葉には、酷く重みがあって。いざこれからその権力の魔窟へと踏み入らんとする少女たちの空気も重くなる。

(……まあ、その憂いを払うのが先達たる予の役目というもの)

 才に溢れ、意志に富む乙女らを、みすみす腐らせるような趣味を、帝辛は持ち合わせていない。

(些か異色で劇薬じみてはいるが……。まあ、薬には違いあるまい)

 そう考えを纏めると、帝辛は件の劇薬――即ち何進に水を向ける。

「となりますと……大将軍閣下は、むしろ何遂高……いや、何進であらんとしておられるわけでしょうか」
「ふん。当たり前だ。俺はそあなお上品な奴じゃあねぇからな。下賤な俺は、野卑で粗暴に権力って奴を貪るしかできねぇが……それを以て、俺は俺を見せ付けてやるのよ。誰も彼もが呑まれちまう権力って奴を逆に飲み干して! 俺は俺のままで! 下賤な肉屋の何進のままで俺はここにいるんだと! 皇帝サマやらお偉方の足の下で、必死になって生きてた奴の、そのままの姿を! 二度と忘れられねぇように、天下万民の脳裏に刻みこんでやるのさ!」

 万感の思いと渾身の力。声と共に叩き付けられたその豪腕は、いとも容易く分厚い文机の天板を叩き割る。
 正に裂帛の意志である。
 強欲ではあるだろう。善良であるとも言えないだろう。
 しかし、己の根源、信念に対しては、どこまでも純粋でもあるだろう。

「「「………」」」

 その迫力には、一級の武人である霞さえも息を飲むほどで。
 なるほど確かに、この人物は異質ではあるけれども、上に立つ人物であるのだと、理解させられた。

「……ふう。ま、何もテメェらにもここはで破天荒になれたぁ言わねぇ。ただ、権力なんざ、冠やら衣やらと同じで、所詮は装飾品でしかねぇのよ。それに着られるか着こなすかは、テメェ次第だ。この腐っちまってる漢王朝っつー場所で、己が何を成したいのか。そこの……あぁ、仰聞だったな。そいつぁよくわかってるみてぇだからな。そいつと相談しつつ上手い事やって、その上で俺に力貸してくれりゃあそれでいい。……俺はテメェらが気に入った。失望させんなよ?」
「「「「御意に」」」」





 こうして、月たちは朝廷という魔窟を照らす篝火を得る事となった。
 その火勢はあまりに強く、危険を伴う恐れもありはしたが、かつてそんな魔窟の只中にあった帝辛も合わせれば、これ程に頼れるものもなく。
 月たちは何進派の一角として、着実に朝廷内に地盤を築いていく事になる。

 そして、北方よりの涼風を得た何進の野望の炎は、留まるところを知らず更に燃え盛り。
 やがては大陸をも呑み込む燎原の大火となるのであった。

 

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