- k a r e s a n s u i -

昏君†無双

 その日、ふと喉の渇きを覚えた月が目を覚ましたのは、いつもより一刻あまり早い時分だった。
 そんな時間に目覚めたのも、控えているだろう侍女を呼ばずに自分で水を飲みに行ったのも、その後すぐに寝所に戻らず、空を見ようと城壁の上までわざわざ足を伸ばしてみたのも。
 ひょっとしたら、何がしかの予感があったからかも知れなかった。

「………」
「……どこを見ているんですか?」

 先客がいた事にも、この時は何故か驚きを覚えず。月は彼――帝辛の隣に歩を進め、そう問うた。
 視線を追えば、そこにはただ南天が、星々を抱えて広がっている。

「空……いや、天、というべきか。それを見透かせぬかと思ってみて、な」

 どこか煙に巻くような、濁すような言い方ではあったが。それでも、自分がここに来たのと似たようなものなのだろうな、と。月は、そう漠然と理解した。

「夜明けと……どうやら、嵐が来るみたいですね」

 視線の先。相変わらずの南天と。そして僅かに白み始めた稜線と、そしてそれと対立するかのように沸き立ち始めた黒雲を認め、月は呟いた。
 帝辛は沈黙を以てそれに応え。月もそれを気に留めず。
 そんな風にして二人が眺めた空は、正しく先触れであったのだ。



 ――今上帝・劉宏崩御。霊帝と諡される――
 ――また、霊帝の長子にして何進大将軍の甥にあたる劉弁、第十三代皇帝に即位す――



 この報が中華全土に轟いたのは、それから幾らも日が経たぬ内の事であった。





「洛陽からの急使?」
「はっ。執金吾たる丁建陽どのよりの書状を携えておられます」
「ちっ……いいわ、通しなさい」
「はっ」
「………」

 詠とその急使の応対をしたのだろう官吏との会話を横目に、帝辛は内心で溜め息を吐いた。

 霊帝崩御の報が届いてから数ヶ月。他の州はさておき、并州は比較的早期に動揺を鎮め、平静を保っていた。
 比較的中央から遠い辺境である事が、この場合はいい方向に働いたと言えるだろう。
 しかしながら、この平静が長く続くと考えられるほど呑気な人間は誰もおらず、詠などは胃の痛む日々を送っていたのだが、遂にやって来たのがよりにもよって丁原からの書状である。

「ったく……。思ったとおりの展開ね」
「多少無理をして軍事力を強化しておいたのは、さて良かったのか悪かったのか」
「月の意向は国力の向上と、それに伴う民衆の生活環境の良化だっていうのに。それに反してやった事だもの、『良かった』にしないといけないわよ」

 ふん、と詠は鼻息も荒い。
 彼女の言ったとおり、并州はここのところ軍事を重視した政策を行っていた。
 この方針は、月の本来の意向とはかけ離れたものである。
 しかしながら、 以前実際に洛陽で丁原と言葉を交わした帝辛は、彼が并州に軍事力を求めようとしているのをはっきりと聞いており、その旨はもちろん報告済みであった。
 この情報を受けた并州首脳陣は、場合によっては黄巾の乱を上回る混乱に巻き込まれるかも知れないとして、最低でも軍事力の保持、可能ならばさらなる増強を図る方針を決定していたのである。

「まあ、なんにせよ事が事だものね。主だった面子には招集をかけておいて頂戴。ボクも後から行くわ」
「うむ」

 頷いて、帝辛は詠の執務室を去る。
 これから開かれる評議は、正に董卓一派の未来を左右するものになるだろう。
 自然、帝辛の表情は引き締まったものになっていった。





 并州は太原、政庁の評議の間。
 正に并州の心臓部ともいえるその場所に居並ぶは、正しく并州の屋台骨を支える面々であった。

 上座に坐すは并州刺史・董卓。下座筆頭に賈駆、張遼、帝辛、華雄と重臣が居並び、その後ろに牛輔、李儒、徐栄、郭、張済、李確といった、前政権から生き残った古兵たち。
 錚々たる面子であったが、しかし彼らの表情は決して明るいものではなかった。

「まあ、仲穎さまが州牧となられた事。これ自体は非常にめでたい事ですな」
「まあ、今の并州の栄え様を見れば、遅いくらいでしょうね」

 そう。丁原からの書状には、まず月が并州の刺史から州牧に任じられた事が記されていたのである。
 州牧とは、漢王朝の地方行政に於ける最高位の役職である。それを考えれば、なるほど確かに徐栄と張済の言うとおりに、名誉でめでたい事ではあるのだが、それだけならばこうも空気が暗くなるはずもなく。

「オマケがなければもっと素直に喜べたんだけどね」

 溜め息と一緒に詠が机に放り出した丁原からの書簡。そこに書かれている、州牧叙任以外の内容が、場の空気を著しく重くしていたのである。

「何進大将軍からの召集やもんなぁ……。差し引きしたら足が出てまうやろ」
「額面上は丁原からだが……まあ後ろに何進がいるのは間違いないだろう」
「……つまり、宦官排除のために戦力を提供せよ、というわけでありますか」
「そうなるな」

 帝辛の返答に、郭の鉄面皮が僅かに歪む。
 命令に忠実な軍人気質の彼をして、素直には聞き難い命令であるところの今回の件――何進大将軍発の、洛陽への召集――は、つまるところ朝廷における権力闘争が原因である。

 黄巾の乱がどうにか終息し、中華の地はひとまず平穏を取り戻しはしたものの。それを成し遂げた原動力は、袁紹や曹操、そして董卓――月といった地方の有力者たちである。
 もちろん、霞に華雄、皇甫嵩といった驍将の活躍もあって、官軍、ひいては何進もそれなりの成果を上げていた。
 当然民衆の賞賛・評価は主に地方有力者、ついで官軍へと向けられる事となる。
 殊に曹操や月など目覚しい働きをした者は、世の評価も鰻登りで、着実に力を付けている。

 反対に大きく権威を失墜させたのが漢王朝そのものであり、またそれを牛耳る宦官たちであった。
 政治の実権を握っていながら、何ら有効な対策を講じる事ができず、宮廷闘争に耽るばかり。
 何進が遅まきかつ非効率的ながらも軍事力によって対策に乗り出したのも、政治的に対立関係にある宦官との差別化を図る意図があっての事だろう。
 そして市井での宦官の悪評を追い風に、何進は発言力のさらなる強化と、宦官の排除とを一気に推し進めようと決意したのである。

「で、そのための実行戦力が霞と華雄の抜けた官軍じゃあ不安だから、地方の実力者を引き込もうって魂胆よ」
「今のところは河北の巨人、袁本初や騎都尉の王匡に東郡太守の橋瑁などが加わっているようだな。陳留の曹孟徳の名前も見えるが……こちらはさほど乗り気ではないようだ」
「ふむ……まあ孟徳どのは、お父上の曹大尉や養祖父で大長秋の季興どのの事がありますからな。とはいえ、身内だからと対応を誤るとも……さて、儂には思えませぬな」
「なんやそんな立場が微妙な奴にも声かけとるんか。形振り構わずって感じやけど、宦官の権勢を思えば間違っとらへん、か」
「か、かん、宦官たちには、圧倒的な資金力と権力がありますから、そ、そそれに対抗するには、そうするしかな、ない、かと」
「武力対政治力の戦いですか……」

 李儒の呟きで、それぞれ思う事を口に出していった面々が改めて思案顔になる。
 正直、ここにいる面々にしてみれば、いくら漢帝国の一員であるといえども、洛陽のお偉方のあれこれなど対岸の火事に等しい。特に立場のそれほど高くない者たちにとっては尚更である。
 魔窟・洛陽どんな事が起こっているのか、それを主に中堅の者たちに知らしめるための一連の会話であったが……ここにまだ発言していなかった人物が一人。

「……よくわからんが、洛陽に嫌な奴がいて、それをどうにかしたいから呼ばれた、という事でいいのか?」

 それが誰であるのかは、敢えて語らないが。その誰かさんの言葉に、議事進行役の詠はうんと一つ頷いた。

「アンタがそれだけ理解出来てるんなら、他の皆は問題ないわね。じゃあ本題。――ボクたちが採るべき道は、どれか?」
「ちょっと待て、それはどういう意味だ?」
「選択した結果の重さを考えれば、正に伸るか反るか、といったところじゃな」
「確の爺やまで!?」

 話題の理解度の最低基準となりつつある華雄を尻目に話は進む。

「并州は、洛陽からはまず遠いと言っていいわ。応じなくても、すぐにどうこうされるような事はないでしょうね。何進も怒りはするでしょうけど、本命宦官を放ってまでボクたちに手を出すほど馬鹿でも有能でもないでしょう」
「でも詠ちゃん、それだと召集に応じてる冀州の袁家との関係が悪くなっちゃうんじゃない?」
「せやなぁ……。賈駆っちの言うとおり、すぐにどうこうされるっちゅー事はないんやろうけど、後々の禍根になるんは間違いないやろなぁ」
「……つまり、要請に応えてドロドロの政争に巻き込まれるか、拒否して後々に巨人と数多の梟雄に囲まれる事になるか。まあ宦官側が勝利すれば、そちらに取り込まれる羽目にもなり得ますな。まあいざ立ったとなれば、実行戦力に乏しい宦官側が勝てる見込みは薄いので、そちらは考えにくいですな。……以上、おわかりですか? 華雄どの」
「お、おぉ。解説すまんな徐栄。……しかし、なんという二択だ……」

 どうにか理解したと見える華雄の零した言葉は、その場の全員の心情を代弁していただろう。
 前者は、何進派が宦官派に勝利する事が前提であるが、何進派の、ひいては朝廷の中での発言力が大幅に強化されるであろう点が利点として挙げられる。
 しかし、そのためには古狸に古狐、魑魅魍魎とさえ思える老獪な政治屋・宦官どもとの陰謀合戦を切り抜けねばならない。また今上帝劉弁は、生母である何皇后が擁護する宦官派によって擁立されているため、政治的には宦官派が相当な優位に立っている。下手を打てばあっという間に社会的・政治的に抹殺されてしまうだろうし、下手を打たずとも物理的に抹殺されてしまう事も十二分に考えられる。
 では後者の方がいいのかと言えば、こちらもそうとは言い切れない。
 確かに軍を率いて洛陽まで向かう必要がないために、国力や兵力を温存・強化できるという利点はあるものの、何進大将軍の要請を蹴ったという事実は、市井・朝廷での評判に色濃く影を落とすだろう。
 それに月が思ったように、何進に積極的に与している袁紹との関係悪化は避けられない事態となるだろうし、それを口実に物理的に攻め込まれる可能性もある。

 どちらを選んでも茨の道、利点も欠点もそれぞれ在る故に、判断が難しく。
 自然、その場の面々の視線は、決定権をもつ存在の下へ向けられる。

「――っ」
(む……)
(月……)
(へぇ……やるやん)

 僅かに息を飲みはしたものの、目を瞑り沈思黙考するその姿。そこに、半年前には見る影もなかった、上に立つ者の風格を垣間見て。最も付き合いの長い三人はそれぞれ内心で感嘆の声を上げ。
 それ以外の者たちも、粛々とその言葉を待つ。
 決して長くはなく、途方もなく重い意味を持つ沈黙を、やがて鈴の音のような声が静かに破る。

「……行きましょう、洛陽へ」

 きつく握られた手。血の気が引いて白さを増した肌。すっくと立ち上がる一瞬に笑っていた膝。
 誰の目にも、緊張していると見て取れたけれども。続く言葉を紡ぐ唇とともに開かれた目には、ただ決意の色のみが。

「もしも召集を蹴ったら、大将軍に歯向かった私たちは、当然責められる事になるだろうし、そうなれば、懸念として挙げられたように、要請に応じた他の諸侯から粛清の名の下に并州に攻め込まれる事にもなりましょう」

 増えた人口、順調に活動する経済、豊富に蓄えられつつある実り。
 文字通りに血が滲む努力の末に生み出されたそれらも、戦火の前には儚いもの。
 白波の脅威の前に、自ら慣れぬ力仕事をしてまで民衆を守ろうとした月に、そんな愛する彼らと彼らの財産を蹂躙される事など、どうして許せよう。

「そうなるくらいなら、私は洛陽に行きます。四百年の欲望と妄執の汚泥にも飛び込みましょう。もしもそれに囚われても、皆と一緒に切り抜けましょう。皆なら……ううん、私たちなら、きっとできる。そうですよね?」

 翡翠の瞳が一同を見渡す。それに導かれるように、霞が、華雄が、徐栄が、郭が、張済が、李確が。牛輔が、李儒が。跪き頭を垂れる。

『我らが主の仰せのままに!』
「詠ちゃん、それに帝辛さんは?」
「――ったり前じゃないの! なんたってこのボクがついてるんだもの! 并州の民にも富にも、月にも指一本だって触れさせないわ!」
「……うん。詠ちゃんがそうやってずっと隣で支えてきてくれて、引っ張って励ましてくれたから、今の私はこんな風にしていられるんだって思うの。これからも二人で一緒に頑張っていこうね」

 ふん、と薄い胸を張り、そう言ってのける詠。
 その拍子に目尻から散った万感の思いの雫を見ない振りして、帝辛も続く。

「私は、詠ほど長く共に過ごしてきたわけではないから、どれだけ力になれていたかはわからぬが……。皺と白髪に見合う程度の経験は積んできたつもりだ。年の功があるし、男手でもある。そっくり面倒を見られるくらいの度量も、まああるだろう。醜の御盾、文武ぶんぶと存分に振り回してくれ」
「……はい。若輩者ばっかりの私たちがここまでこれたのも、帝辛さんの経験と落ち着きがあったからです。これからも頼りにさせてもらいますね」
「は、任されましょう」

 初期の董卓陣営の中で、唯一の男手であり、年長者であった帝辛。
 出会った頃こそ、まさに生ける屍状態ではあったが、それを月たちの力で乗り越え生気を取り戻してからは、その風貌や佇まいも相まって、まるで千年の時を重ねた古い大樹のような存在感に満ちていた。
 若さや理想、純粋さ、勢いなどが一通り揃っていたところに、酸いも甘いも噛み分け、一歩引いた視点を提供できる帝辛が加わった事で、地に足着いた行動ができるようになったのである。
 今や董卓陣営に安定感を与える、まさに重鎮といって間違いはないだろう。

 傍らに詠、後背に帝辛。そこに二人がいてくれるから、今の自分があるのだと、今の自分は進めるのだと、月は確信している。
「わたしたち・・ってなによっ!?」と顔を赤らめ反論する詠にしても、白波との戦いからこちら、確実に心を許していると月は看過していた。
 帝辛と華雄が詠と霞の救援に訪れた際、弾みとはいえ帝辛は詠の事を真名で呼んでしまっていたのだが、それも一つの切っ掛けになっていたかもしれない。
 まだぎこちなさは残ってはいるものの、以前とは違って隔意が故のものではなく、ただ距離感を量りかねているような、ともすれば初々しさとも取れるようなそれであった。

 だからこそ、月は思うのだ。
 私たちは、きっと大丈夫だと。

「……皆となら、私に躊躇いはありません。恐れも不安もありますけど、皆となら、きっと大丈夫だから。行きましょう、洛陽へ。北よりの清き涼風を以て、蠢く闇を打ち払い、明るい明日を掴みましょう!」
『御意!!』

 評議の間に響き渡る決意の唱和。
 時代が再び動き始めた瞬間であった。





 北方の雄。董卓動く。

 この一報は、主に洛陽と、耳聡い有力諸侯に少なからぬ衝撃を与えた。
 驚くほどの短期間で、疲弊した并州を建て直すにとどまらず、以前に増しての繁栄をもたらし。白波賊などの有力な黄巾賊の撃滅に功多い――。
 各地で流れるこの風評は、もちろん詠や李儒らによる情報操作の影響を受けてのものではあるが、成果そのものは事実であるため、概ね事実であると捉えられていた。

 一派の頭領たる董仲穎、その親友であり知恵袋でもある賈文和。神速の用兵で名高く、軍の中核を担う張文遠。その真っ直ぐな気性と尚武の精神で以て部下からの信望厚い華雄。そして、隠遁生活から見出されるや、文武両道にて辣腕を振るった子仰聞。
 その他にも徐栄や郭など、太原の守将にと残した張繍を除いた、主要な武官文官を引き連れて、堂々一万五千の兵を率いての上洛であった。

 

※本来刺史は軍権を持っていないので、月の部下である帝辛たちが軍事行動を起こしているのはどうかとも思いましたが、原作においても州牧になる前の曹操が堂々と軍事行動をとっていたので問題ない事としました
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