昏君†無双
――并州・太原――
「お初に御意を得ます。朝廷の執金吾たる丁建陽さまより派遣されました、姓は華、名は雄と申します」
「并州刺史、董仲穎です。中原からはるばる、このような北の地までようこそいらして下さいました」
北の寒さを考慮してか、洛陽のそれよりも重厚さを感じさせる太原の政庁。その評議の間で、十数人からの主に文官を中心とした参列者の見守る先で、二人の女性が、片や上座の席に座し、こなた下座に平伏して対峙していた。
(ふむ。……白い、な)
面を上げる許可を得て、初めて并州を治める少女を目の当たりにして。それが華雄が最初に抱いた感想だった。
(声からしてそんな感じはしたが。)
華雄にとって馴染み深い色は、まず戦場の色。即ち大地や騎馬の茶、武器の鈍、そして血潮の赤であろう。戦う事を好み、また己にはそれしかできぬと判じている彼女にとっては、それらが最も身近な色。
たまの命令やらで洛陽に、宮中に赴けば、そこには幾百の年を経て積み重なった欲望の汚濁ばかり。金やら艶めかしい肌色やら、そんな色ばかりを目にしてきた。
それがどうだろう。
洛陽のお偉方のように、冠を戴き衣装で着飾り、数段高い上座より見下ろしていながらも、その色は汚れを知らぬかのようで、華雄の目に優しかった。
「都であろうと北の地であろうと西の果であろうと、その地にて武を振るうのが私の役目です。……それに、宮中の臭いにはそろそろ辟易しておりましたので、この澄んだ空気は心地よく感じられます」
ざわ、と評議の間に臨席している者たちの間からざわめきが起きる。
前半はとにかく、後半の発言は褒め言葉とはいえ、場所が場所ならかなり危険な内容である。
そんな言葉が、洛陽にて十常侍らと権力を二分する何進一派から派遣された人物から飛び出るとは。
その驚きが現れたのだろう。
「ふふ、それは嬉しいですね。新しい風を吹き込もうと頑張った甲斐がありました」
しかし直にその言葉を向けられた月はというと、僅かに目を見開いただけで、すぐににこりと笑ってみせる事ができた。
むしろ、予め帝辛たちから教えられていたとおりに実直な性格なんだな、と納得して見せる程度には余裕があった。
……と、そこまで考えて、大事な事を後回しにしていたと思いだす。
「そういえば、華将軍は私の親友、大切な仲間の危機を救って下さったのでしたね。未だ正式な任官どころか、顔合わせも済んでいないうちだったというのに、助けの手を伸ばして下さった事、篤く礼を言います」
詠や霞、帝辛だけではない。数百数千の、自分について来てくれている兵士たちの命が救われたのだ。情の厚い月にとっては至極当然な感謝の言葉である。
ところが。
「……頭をお上げください、仲穎さま」
まずその声色で異変を感じ、言葉のとおりに垂れていた頭を上げ、そしてその視界に映った表情で、月は華雄が僅かなりとも気分を害した事を悟った。
「……失礼ですが、仲穎さまは私を甘く見ておられる。洛陽にて建陽さまより命ぜられた時より、私は既に仲穎さまの家臣です。当然、文和や帝辛、霞たちの仲間です。ならばそれを助けるのは当然の事で、そのように他人行儀な礼を向けられるような事ではありません」
『………』
あんぐり、と。数十人からの人間の口があいて塞がらない。
まだ人となりもろくに知らない仲間を、身命を賭して駆けつけて助けるのを当然と言い切り、かと思えば刺史直々の礼に対して、そんな礼は不要だと言ってのける。予想外もいいところで、それは間抜け面も晒そうというものである。
言い放った本人はぶすくれているし、居並ぶ官吏も硬直が解けず。
そんなアレな空間に、ころころと鈴が鳴るような笑い声が響いたのは、たっぷり数十秒が経った頃であった。
「ふふふっ、本当に詠ちゃんから聞いたとおりね。ひたすらに真っ直ぐで、気持ちのいい人だって。霞さんも帝辛さんも、そこがいいところだって言ってたし。ふふっ」
そうやって、呆気にとられる官吏たちと、興味深げな華雄の視線を一身に集めて、月は暫く笑い続けた後に。
「ふふっ……。
そう言って、にっこりと。詠たちに向けるそれと同じ笑みを浮かべ、華雄を迎え入れ。
「――はっ、よろしく願います、
それを受けた華雄もまた、頼もしげな笑みを浮かべ、そう答えたのだった。
さて。二人が互いに名を呼び合った事で、緊張気味だった雰囲気もゆるみだした評議の間を柱の影から覗き見る影が三つ。もちろん帝辛、霞、そして詠である。
「うむ……どうやら問題はなさそうだな」
「せやな。華雄の性格からして予想はついとったし、月もちっこいなりで懐はおっきいからなぁ。ま、いらん心配やったか」
「ふん、月の度量を甘く見ない事ね。……とはいえ、月以外の官吏……特に文官は、武官と違って人となりを知る機会も少ないわけだし、やっぱりこう言ったお披露目は必要だったはずよ」
この三人、先の白波賊との合戦に関わる後処理――獲得した捕虜の処遇や武具の選別、消耗した兵員の補充など――があるとしてお披露目を欠席していたのである。
実際のところ、帝辛はもちろん霞も同じ武人なので比較的すんなり分かり合えたし、詠にしても出会いが出会いだっただけに、勢いで丸め込まれたというか思考停止したというか、半ば諦めたように真名を許し、受け入れていた。
もちろんそこには、月に対して危害を加えるような思考回路が存在しない、そもそもそんな策謀を巡らせる頭がない、という判断がしっかりなされていたからではあるが。
なので三人がお披露目を受ける必要はないし、そも自分たちがどうこうして見せるより、実物を見せた方が受け入れられやすいだろう、という詠の判断を帝辛と霞が支持したからでもある。
「ま、あの武一辺倒!ってな感じは武官からの受けがええやろうし、文官連中も自分たちの領分に手出し口出しできへんっちゅー事がわかったやろ」
「月も、どうやら一人で統率力を示してみせたようであるし……これならば多少の事で揺らぎはすまいよ」
帝辛の言うとおり、霞と詠が李確など主要な武将と并州の保有兵力の大多数を率いて戦場に向かったのと同じように、太原の留守を預かった月にもまた、彼女の戦いが待っていたのである。
件の白波賊の襲撃の際。霞と詠が、迎撃のため主力を率いて出撃してしまったため、太原の守りは極めて貧弱なものとなっていた。
加えて、そこまでしてもなお、白波賊の兵力は自軍を上回っていた。
圧倒的多数の敵、貧弱な守備兵力、守将は荒事がてんで似合わぬか弱い少女と不安材料が積み重なり、太原住民の不安は小さいものではなかった。
そんな不安な日々を過ごす事十日あまり。
出撃していった霞と詠、そしてまだ戻らぬ帝辛を案じ、忙しい政務の合間を縫って城壁に上がり南の地平を眺めていた月の目に、土煙が映った。
土煙があるという事は、その下には軍勢がいるという事。
――詠ちゃんたちが帰ってきた!?
一人残って留守を支えているという孤独感から、衝動的にそう判断してしまいそうになった彼女を踏み止まらせたのが、一人残って留守を支えているという責任感からであったというのは、一勢力の首領として成長できた証左であろうか。
――もし見間違いで、詠ちゃんたちじゃあなかったら?
つまりは、あれが実は白波賊の軍勢だったとしたら。
それはつまり……詠ちゃんや霞さんたちが……。
「……ッ!」
だめ、とぶんぶん頭を振り不吉な想像を吹き飛ばす。
考えたくはない。でも考慮しなければならない。その上で恐れず、必要な選択をし、行動をする。
……大丈夫、帝辛さんに詠ちゃんもやっていた事。
確かに支えられてばかりだったけど、それでも。
あの傑物二人の仕事を一番間近で見ていたのも、自分なんだから。
「……誰か!」
酷く珍しい主の鋭い声に、巡回警備の兵が慌ててやって来る。その姿に一つ自戒。
――私が慌て過ぎちゃだめ。不安がらせないように、でも機器である事は示さなきゃ……。
ふう、と。一つ深呼吸。気休め程度でしかなかったが、切り替わったのだと自分に言い聞かせ、兵士に対して告げる。
「……南の地平に軍勢が来ています。張将軍の軍勢かも知れませんが、白波賊である可能性もあります。牛輔さんに伝えて籠城の準備を進めさせてください」
そして、彼女の戦いが始まった。
「……仲穎さま、たった今、見張りより報告が。南天の土煙、やはり張将軍が出撃していった時のものより大規模だとの事です。先頭には旗らしきものも見えますが、我が方の軍旗とは色が違うとも」
太原に残っている文官の中で上位にあるその男――李儒の報告を受け、評議の間にはいよいよ悲壮な空気が満ちる。
普通、軍勢が移動すれば土煙が発生する。ここ数日は晴天が続き、地面が乾いているので尚更だろう。
そして土煙の規模は軍勢の規模、そして行軍速度に比例する。
それらを踏まえ、今南天に立ち上る土煙を見ると、明らかに出発時に発生していたそれよりも大きかった。
敵は弱兵といえどこちらの倍以上、そして自軍の要たる騎兵は、基本的に防衛戦であるためにその真価を発揮しにくい、と楽な戦いにはならないだろうと思われていた。
霞の軍が勝ったとしても、おそらく兵力は相当減少しているだろう。それに捕虜を加えたとしても、もとの兵数まで回復できるかどうか。
速度を考慮してもそうだ。あの白波賊、あれが并州に巣食う最後の敵対勢力である。もしもそれを討ち果たしているのなら、急ぐ必要などありはしない。
故に、皆はこう思うのだ。
「張将軍と文和さまが敗れたというのか……」
神速将軍張文遠と、それを縦横に操りうる名軍師賈文和。その二人が、まさか。
まだ確定ではない、推測に過ぎない。がしかし、その推測の与えた衝撃は甚大であった。
「どうするのだ……? もうこちらに余力はないも同然だぞ……」
「し……しかしまだ決まったわけでは……って牛輔さま、どちらへ?」
「はっ、ああぁああぁいいいや、そそそそのそうだ、へ、部屋にWAWAWA忘れ物をしてしまったので、と、ととと取りに戻らせていただきまひゅっ!」
「なっ、牛輔さまが逃げるっ!?(そして噛んだっ!?)」
誰も彼もが不安げな表情になりひそひそと言葉を交わし、牛輔に至っては既に逃走を図ろうとする始末。
ざわざわとざわめく評議の間。しかし、それもいつしか静まっていく。
何故か?
それは、そう。ここにいる誰よりもか弱い少女が、誰よりも重い責を背負う少女が、狼狽えずに静かに自分たちを見つめているから。
「……逃亡はしません。私たちが真っ先に逃げては、誰が民を護るんですか?」
それは常の彼女のそれとはかけ離れた、毅然とした声。彼女にも、ここで揺らいではならないという事がわかっているのだろう。
「し……しかし仲穎さま、ここに残された兵力は少なく、率いる将もおりませんぞ」
なるほど、その反論も真っ当なものだろうと月は思う。
詠がいれば、何よりもまず月を逃がす事を優先させるだろうと想像できるような状況で。
けれど、けれどここに詠はいない。いるのは自分だけ、いつも護られてばかりいる自分だけなのだ。
ならば。
「で、ですが! 篭城とは本来援軍を頼んでのもの! それを望めないのに篭ったところで「援軍はあります」……なんですと?」
反論を断つように、字のまま断言してみせた月。
この一点、これだけは譲りたくなかったから。
「詠ちゃんと霞さんが必ず来ます。たとえ一敗地にまみれていたとしても、必ず戻ってきます。帝辛さんだって、もう戻ってきてもいい頃です」
不安がないわけではない。最悪の予感はちりちりと胸の奥で燻っているけれど。
それでも月は三人を信じている。
そして。
「……それに、ここ太原は十万都市。その力を合わせればいいのです」
そして同時に。自分たちを同じ地に住む逞しい人々のことも、また同様に月は信頼していた。
「おう! その廃材は城門まで持ってけ! 戸板の類は城壁の上だ! 矢よけにするぞ!」
「女衆は炊き出しの準備をしておくれ、儂が音頭をとるよ」
「油が集まったわよ! これも釜と一緒に城壁の上でいいのよね!?」
太原は貧しい都市だった。
北方に位置し、異民族の地と接するという地理、そして前任の刺史の暴政。古今問わぬ苦難に喘ぎ続け、人々は今にも打ちひしがれんばかりであった。
だが、その苦境がそこに住まう人々を強くしたというのも、事実であった。
豊かな中原でぬくぬくと暮らす奴らとは違うのだ、という自負が彼らにはあった。
そしてそれは、新しくやってきた刺史によって環境が改善され、それなりの豊かさを手にして今でも変わらない。
「今、この太原は……私たちは、重大な危機にさらされようとしています」
だから、親愛なる我らが刺史、董仲穎さまが直々にやってきて、白波賊の驚異が迫っていると思われる、と告げられても、驚きこそすれ、恐慌には至らなかった。
新参の移民はともかく、太原で暮らしてそれなりに長い者は、匈奴や鮮卑の襲来の恐怖を経験したものもいて、慣れがあったからでもあろう。
「今、私だけでは力が足りず、手も足りません。……どうか、皆さんの。この地にて逞しく生きてきた皆さんの力を、どうかお貸しください」
目の前で、この地においては誰よりも偉い少女が頭を下げる。
人々は衝撃を受けながらも、どこかで納得していた。
この少女は、太原に救いと優しさをもたらした。強さだけがかろうじて残って、けれど荒んでしまっていた場所に、心身双方で潤いをもたらしてくれた。
そしてなによりも。彼らはその少女の事が好きだったのだ。
だから彼ら彼女らは、その声に進んで応え。城壁を補強し炊き出しをし、陣頭に立って自ら汗水流して奮闘している少女を支え、助けたのである。
そしていつしか、官も民もなく、誰も彼も(逃げ出したはずの牛輔でさえ!)が一緒になって働いていたのだ。
中原ではまずありえないだろうある種の奇跡が、そこにはあった。
結果だけ見れば、この月の努力と民衆の協力は、空振りに終わる事となった。
しかし、迫る軍勢が、洛陽より帰還した帝辛の部隊と合流し、見事白波賊を打ち破り、多数の捕虜を得た味方の軍勢であると判明した時の歓喜の騒ぎの中心に、ただ優しいだけではなく、芯の強さと指導力をも示してみせた少女がいた、という事は、非常に大きな意味を持っただろう。
「とはいえ、心臓に悪いったらないわよ、もう……」
やれやれと言った風に詠。月を護る事をこそ第一に置いている彼女にしてみれば、今回の件は気が気でなかったのだろう。その心労を慮るには吝かではない帝辛と霞ではあったが、しかし。
「ふむ。しかしそれは賈駆が言えた話ではないのではないか?」「うっ……」
「月が心配だからっちゅーて、「一刻も早く仲穎さまの下へ!」ゆーて突っ走ってった華雄にくっついてって、攻めいろうとしてる白波賊と勘違いされたわけやし?」
「うぐっ」
「挙句、笑顔で皆にもみくちゃにされている月を見た途端、気が抜けて腰を抜かして月を慌てさせてしまいもしたな」
「う……ぐぅ」
「お、突っ伏しよった」
「まだぐうの音は出ているから余裕はあるだろうよ」
「………」
今度こそ、ぐうの音も出なくなった詠であった。
このように、色々ありはしたものの、白波賊の蜂起に起因した騒動は無事終息した。
結果を見てみれば、まず領内の不穏分子をほぼ一掃した事により治安は良化。戦闘で獲得した大量の捕虜も、月の慈悲と詠などから上がった現実的な要求により、その多くが恭順する事となり国力は増大した。その内の数割は、帝辛と霞が訓練を施し戦力化する事が決まっているし、華雄以下三千のの精兵も加わった事で軍事力も強化された。
そして何より、この混乱を無事に切り抜け、しかも力を増す事にも成功した事により、月個人並びに董卓政権そのものの求心力は更に増大する事になった。
人々は乱の終息を喜び、また日常へと戻っていく。
そう遠くない未来に、これまで以上の歴史のうねりに飛び込んでいく事になる英傑たちも、また同じ事。
それを知る者もそうでない者も、今はつかの間の平穏に揺蕩うのである。