- k a r e s a n s u i -

昏君†無双

「桂花、あの軍が?」
「はい、華琳さま」

 それは、少女であった。
 未だ年若く、大の大人と比べれば矮躯といっていい背格好。
 美しい金の髪に白磁の肌、正しく美少女といっていいその容姿。

「そう……」

 しかし、しかしその眼差しのなんと鋭い事か。
 万物を見定めんとするかのような、内なる野望の漏れ出したような、鋭く苛烈な眼差しを持つ者が、ただの少女であるはずもなく。

「半年くらい前までは、愚にもつかない俗物が治めていたはずだけど……今度のは真っ当な人材のようね」

 少女が呟きながら見据える先には、寡兵ながらも統率の行き届いた軍が黄巾党を追撃していた。

「桂花、あの軍の動き、あなたならどう見るかしら?」
「そうですね……。陣形は凡庸ですが、統率が行き届いていますので効果は充分なものだと思います。指揮官が部隊を掌握しているからこそかと。加えて……」

 じぃ、と戦況を見詰める眼つきは鋭く、桂花と呼ばれたこのねこみみフードの少女もまた只者ではない事が知れる。

「……どうやら、黄巾党の逃走経路を誘導しつつ追撃しているようです。それも、私たちの方に向けて。決定力の不足を、私たちを巻き込む事で補うつもりのようですね」
「ふうん……? この曹孟徳を巻き込もうというのか」

 その浮かべる笑みのなんと不敵な事か。厄介事に巻き込まれんとしているというのに、むしろそれを歓迎するかのよう。

「面白いじゃない。乗ってあげましょう」
「よろしいのですか? 無視して不要な損害を避ける事もできますが」
「あら、じゃあ聞くけれど、わざわざ自領から出張ってきたのに、官軍の援護もできず、目の前の賊を討ちもしないで逃げ帰るような軍を、人はどう思うかしら」
「それは……」
「ましてやここは洛陽にほど近いわ。やんごとなきお歴々に聞きつけられて、難癖をつけられるのは御免よ。というわけで、迎撃なさい」
「御意!」

 答えて、すぐさまに指示を飛ばし始めるねこみみフードの少女。彼女の指揮の下、あっという間に陣形が組まれ、そして。

「【子】の旗……。あまり聞いた事がないわね。……ふふ、誰かは知らないけれど、この曹孟徳が直々に見定めてあげるわ。――総員、突撃せよ!!!」



「仰聞さま、陳留軍が動き始めましたぞ。こちらの機動にあわせ、包囲殲滅するようですな」
「うむ。やはり乗ってきたか。風評の持つ危険は理解しているようだな。……徐栄」
「はっ」
「指揮は任せる。私は少々出張ってこよう」

 ぶるん、と馬上で偃月刀を一振り。
 ここしばらく、帝辛は前線に立たず、後方で指揮を執る事が多かった。
 指揮官としてはそれで正解ではあるが、同時に今は一人の武将でもある。王ほど自重する必要があるでもなし、ましてや敵は基本的に弱兵である上、逃げに回っている。危険性は、前線に出る欲求との天秤には到底釣り合うものではなかった。

「それに曹孟徳、直接会ってみたくもある」
「わかりました。御武勇を」

 そして見送る徐栄を残し、馬に一蹴りくれて最前線へと――!



「あ、アニキッ! こいつぁヤバイっすよ!」
「ンなこたわかってんだよクソッタレ! あの【子】の旗……并州のヤツらのせいで作戦が台無しじゃねえか!」

 逃げる――否、逃げ惑う黄巾党の群の中。小柄な男の泣き言に、背の高い三十路がらみの男が悲鳴じみた悪態で答えている。
 作戦。そう、今までただ群れてその物量だけで戦ってきた黄巾党であったが、最近はその規模の肥大化に伴い組織立ってきて、それなりの命令系統や、陣形や作戦じみたものまで使ってくるようになっていた。
 今日ここで官軍と戦っていた一軍も、もし曹操の軍が出張ってきた時のための作戦を用意していたのである。
 しかし、南の袁術の領土まで曹操軍を誘導し、袁術と敵対させようという計略は、予期せぬ董卓軍の攻撃によって絵に描いた餅となってしまった。
 必勝の策ありとの意識で戦意を保っていた彼らも、并州軍の追撃を受け、更に前方に翻る【曹】の旗を目の当たりにして壊乱、偽装しておこなうはずだった敗走は、本物の壊走になってしまった。

「あ、アニキ! あっちを見るんだな!」
「あん!?」

 フゴフゴと豚のような荒い息をつく巨漢が指差す方には、じわじわとそれぞれが鶴翼の翼となって包囲してくる、その羽先が。

「しめたっ! あっちだけ展開がトロいぞ!」
「包囲が完成する前にあそこを抜けるんスね!?」
「い、急ぐんだな!」



「いいや。――もう手遅れだ」



「は――?」

 その溜息のような声は誰のものだったか。
 びしゃりと、吹き出す血潮を全身に浴びた小男と兄貴分のものだったか。
 ――それともたった今、首から上を永遠に失った巨漢の末期の声だったか。

「噛まれぬように開けた穴に、正直に走ってくれるとはやりやすい。見たところ、お前が鼠の親玉のようだが……やはりたかが知れていたか」
「デブぅうう!!??」
「な、なんだァテメェ!?」
「異な事を聞く。ここは戦場、敵以外になにがある」

 悲哀の絶叫と誰何の声、小男と兄貴分が振り向いた先には、騎乗した白髪の武将が一騎。周囲には数十騎の騎兵が侍り、内一人が掲げるは【子】の旗!

「ッ! テメェが并州の……!」

 カアッと二人の頭に血が上る。
 絶体絶命の一歩手前の状況に、策がおじゃんになった苛立ち、そして朋友たる巨漢の死……。
 めまぐるしく事態は急変し、ただ翻弄されるばかりの自分たち。ついさっきまでは官軍を蹂躙する寸前までいっていたのに!
 そんな内で渦巻くドロドロとした感情、それをぶつける最高の相手が、そうそこに!
 最早堪える理由はなかった。

「死ねや糞がぁあああッ!!!」
「デブの敵ぃ!!!」

 兄貴分の大上段からの打ち下しと、やや遅れて小男の斬り上げが帝辛を襲う!
 なるほど、まがりなりにも一万を超える群を引っ張ってきただけの事はあって、そこらの一般人とは確かに一味違う剣閃ではあった。
 あったが、しかし。

「軽いな」
「なぁ!?」
「んだとっ!?」

 無造作に振ったとしか思えぬ偃月刀の一閃は、いとも簡単に二人の剣撃を弾き飛ばす。殊に体重の軽い小男は、体ごと弾かれて無様なほどに体勢を崩してしまっていて。そしてそれは、もう絶望的な隙。

「ひっ――」

 返す刀が迫るのを引き攣った顔でなすすべなくその身に受けて――小男の首もまた宙を舞う。

「チビィいい!?」

 そして立て続けに朋友を亡くして動揺した兄貴分も、あっさりと胸を貫かれて絶命した。

「うむ……。こんな軽い剣しか振るえないとは。こやつらでは周軍足り得ない、か」

 ぴっ、と偃月刀を一振るいして取り敢えず血糊を飛ばし、馬を止めて周囲を見渡す。
 今しがた帝辛に討たれた三人が中核の人間だったのだろう。敗走していた黄巾党は完全に統率を失い、諦めて降伏する者、無駄な足掻きをして討ち取られる者、強引に包囲を抜けようとして捕縛される者と様々である。
 しかし、共通している事は一つ。
 即ち黄巾党の敗北であった。



 結局。壊走した黄巾党はその約四割が討ち取られ、捕虜となった者と逃げ切った者とで残りの六割をわける形となった。
 そんな中、帝辛は負傷者の後送や戦死者の埋葬などの指示を出していた。

「仰聞さま」
「徐栄か。首尾は」
「は。後送の必要ありと認められる者の選別は終了しました。取り敢えずは陳留もしくは業にて療養させ、経過次第で順次太原に帰還させる予定です」

 確かに今回の戦闘は圧倒的ではあったが、それでも全く損害なし、とはいかないもので、十数名の戦死者と、数十名の負傷者を出していた。

「上々か。後は捕虜の処遇だが……」
「その件ですが……捕虜の扱いに関して話し合いたいと陳留軍の者が来ていますな」

 今回、帝辛は曹孟徳率いる陳留軍と共同して戦ったわけであるが、実際そこには書面も交わされた約束事も何もない。飽くまで巻き込もうとした者と、巻き込まれにいった者といった構図なのである。
 故に、今両軍で取り囲んでいる数千人の捕虜も、どちらに降伏したのかが明確な者を除けば、どちらの捕虜となるのかさえはっきりしていない。
 こういった場で得られる捕虜は、軍の補充として重要な役割を果たす。はっきり言ってやすやすと譲れるものではない。

「私が行こう」

 故に、帝辛は自ら出張る事にした。



「陳留州牧、曹孟徳どのとお見受けします」

 仮設された陳留軍の陣は赴いて、誰何してきた兵に用向きを伝えて案内された本陣。そこには何れも眉目秀麗な少女たち。
 大剣を携えた黒の長髪の活発そうな一人、髪の色に似て涼しげな雰囲気で佇む一人、やけに熱の籠った視線をもう一人に向ける珍妙なフードの少女。
 そして先述の少女の熱視線を平然と受ける、その華やかな一団にあって最も目を惹く少女に向けて、帝辛は確信を持って話しかけた。

「……そうよ。あなたは?」
「私は并州刺史董仲穎が臣、子仰聞。話しあいたい事があるとの事で参りました」

 警戒するように一歩踏み出そうとした黒髪の少女を手で抑え、少女は悠然と答える。

「子仰聞……聞かない名ね」
「月……董卓さまの配下となってまだ一年に満たない故……」
「へえ……」

 ぴくり、と曹操の眉が跳ねるも、帝辛は意に介さない。

「とはいえ、此度の商隊護衛及び販路周辺の賊の掃討を任される程度には、重んじてもらっております」
「そういえば、しばらく前に領内の通行許可の申請がきていたけれど……そう、あなたがそれを率いていたの」

 そういって、曹操はいっそ失礼なまでに帝辛の事を観察し始めた。
 これまでも霞に拾われた際に受けた取調べの時などにジロジロと見られた事はあったが、これはそれを上回るほどの遠慮のなさである。
 刺史の臣に過ぎない帝辛が州牧たる曹操を咎める事はできないし、帝辛自身にその気はなかった。
 これは、互いを見定める場。不快でないといえば嘘になるが、それを表に出すような事はしなかった。

「ふうん……。狭量で俗物なそこいらの男とは違うようね。……いいわ、交渉を始めましょう」

 たっぷり数分も経って告げられた言葉は、話しあいではなく交渉。
 それはここで獲得する捕虜の重要性を正しく理解している事に他ならない。

「は……」

 ――これは、本物だな。

 なるほど確かに見た目はうら若い少女のそれである。
 しかしその体から漏れ出す存在感の、なんと大きな事か。不敵に見据えてくる眼差しの、なんと力強い事か。
 殷の時代を含め、多くの人材を見てきた帝辛をして、内心唸らざるを得ない。

(些か、軽率だったか)

 これほどの人物が率いる陣営に単身で乗り込んできた事を僅かに悔いながら、それでも堂々と帝辛は交渉の席についた――。





 結果から記すのならば。
 曹操との交渉は、遠征軍である事、商隊という護衛対象が存在する事などを指摘された并州側が譲歩させられる形となり、捕虜の過半数を曹操に取られる結果に終わった。

「曹猛徳だけでなく、荀文若なる軍師や、夏侯の姉妹にも十二分に警戒すべきであったな」
「夏侯惇に夏侯淵は私も知っていましたが……また人材を増やしたようですな。大方見目麗しい女子なのでしょうが」

 会議で丁々発止やりあう事には慣れているが、それでも相手は味方の文官である。その時との比ではない疲労感に肩を揉む帝辛に、徐栄は笑いながらそう答えた。

「大方とはどういう事だ?」
「いえ、孟徳は、人材収集癖で有名なのですよ。市井の人間であろうと、気に入れば構わずに登用するとか。……同時に好色であり同性愛者でもありますが」
「……成程。あの時の視線と表情はそういう意味か」

 思い出すのは交渉が成立した時の曹操の「夜を楽しみにしていなさい」発言と、それを告げられた荀ケの恍惚とした表情、夏侯姉妹――特に夏侯惇――の羨むような表情であった。

「主従の絆に加えて肉体関係でも結びつき、しかも跡取りやらの禍根とも無縁……。考えたものだな」
「……いや、単純に趣味嗜好の問題のような……」

 さておき。

「まあ、反省点と留意すべき点はあれど、戦後処理が終わったのは確か。取り急ぎ洛陽へ向かい、商隊と合流しなければ」
「合流したならば、建陽どのに挨拶にいかねばならないでしょうなぁ。場合によっては何進大将軍にも」
「大将軍、か」

(武成王ならばこのような混乱に至る前に事態に収拾をつかせ得ただろうが……)

「その何進とやら、会う価値がある者なのか?」
「……会わざるを得ぬ方でいらっしゃいますな」

 つまりはその立場が、という事である。
 それだけ【大将軍】という地位は重い……はず、なのだが。

「……まあ、何も言うまい」
「懸命な判断かと。なんにせよ、商隊と合流しない事には始まりませんしな」
「うむ……。全軍に通達。これより洛陽に向けて出発、商隊と合流する」
「はっ」

 一礼し、指示のため去っていく徐栄の背中を見送る帝辛。

 ――否。その脳裏に写っているのは、あの金の少女。

「曹孟徳。よもやただ時代に飲まれるような器ではないだろうな……。次に見える時は、さてどんな形でか……」

 味方としてなら、きっと聞仲が戻ってきたような思いだろう。
 そして、もしも敵としてだったなら……。

「………」

 僅かな間だけ、曹操が去っていった東の空へと視線を向けて。
 そして踵を返して徐栄の後を追う。

 けれども、ああその表情は。
 きっと戦を前にした戦士のような、猛々しい笑みだったろう。

 

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