- k a r e s a n s u i -

昏君†無双

 漢帝国十三州が一つ、并州。
 北方に位置し、羌や鮮卑といった異民族の圧力が強い地であり、先代刺史の治世に於いて疲弊し、漢王朝の衰退と歩調を同じくすると目されていた。

「それがこんなに盛り返すとはね……」

 政庁の窓から街並みを見下ろす詠の声には、どこか呆然としたような響きが潜む。
 少女の眼下には、赴任当初の寂れた雰囲気とは明らかに異なる活気を見せる人々がひしめいていた。
 折しも時分は朝市の頃、商人がその日最初の仕入を店先に並べ、並ぶ先から群がる客が手に取り見定め買い込んでいく。
 その賑わいは以前の太原のそれとは比較にならず、また扱われる物品の種類、品質も同様である。
 以前は品質にも量にも見るべきところがなかったため、見定めるという行為自体が不要なものであった。それがいまやより安い、またはより良い物をと選ぶ余地が生まれてきている。
 これは既に、盛り返すという程度には収まらない発展といえるだろう。

「ぶ、ぶぶ文和さまっ」
「………」

 そんな物思いに耽っていた詠を引き戻したのは、盛大にどもりながらの呼び声。
 振り向けば、そこには青白い顔を合わせた袖の影に隠した、見るからに気の弱そうな男が、なんとも肩身狭そうに立っていた。

「牛輔、なんか用?」
「ひっ!? おぉおおお怒ってらっしゃいますかもももも申し訳ありません私なんかがこここここ声をかけたばかりに不快な思いを……」
「いや別にそんな事はないから。まったく、アンタのその臆病さには月もびっくりだわ……」

 呆れの色濃い呟きにまたも申し訳ありませんお許しを、とビクビクするこの男、牛輔。
 文官としてはなかなかに優秀であり、引継ぎの際に大いに月たちの役に立った数々の資料を作ったのもこの男である。
 ただその性格は極度に気弱で、いつも何かにビクビクオドオドしており、趣味の占いの結果によっては一歩も自室から出ない事さえある。
 しかしまあ、優秀なのは確かであるので、詠は彼を自身の副官に抜擢し、鍛え上げているのである。

「まあいいわ。それで、なんの用?」
「は、はいっ、そそそその、ぎ、ぎぎぎ仰聞さまが探しておられましたっ」
「……仰聞が?」

 姓を子、名を受、字を仰聞。即ち帝辛の事である。
 月の刺史就任に伴ない、帝辛も正式に官職に就く事になったので、これを機にと字も用意したのである。

「は、ははははいっ! いいい幾つか相談したい事があるとおぉおお仰っておられましたっ」
「……わかった。すぐ向かうわ」

 いくら思うところがあるといえども、軌道に乗りはじめた并州の経営は多忙を極める。仕事の話があるというのだから、それを聞かないわけにも行かない。

「……ああ、そうだ。ちょっと、牛輔」
「は、はいぃいい!!??」

 疲れもあって軽いとはいえない足取りで歩き始めた詠が、ふと立ち止まり問い掛ける。

「アンタから見て、仰聞ってどんな奴?」

 千年前に滅びた国の王で、色々あって蘇って、過去の罪過に潰されていて、今また新たに歩き始めた男。
 詠は、詠たちは彼が子仰聞であり子受であり、帝辛であり紂王でもあると知っている。
 しかし、それを知らない者たちには、例えば子仰聞しか知らないだろう目の前の男には、帝辛という人物はどんなふうに見えているのだろう?
 自分が帝辛を色眼鏡越しに見ている事を自覚しているだけに、余計にそれが気になったのだ。

「仰聞さまは、凄いお方です……。発想自体は堅実な物が多いですが、実行力と事務能力が半端ではありません。私たちが五人集まっても、仰聞さまの方がなお仕事が進むでしょう。人の使い方も上手いですし、今までと比べてばまるで楽園のようです……」

 果たして、牛輔はどこか夢見るような口調で帝辛を讃えた。どもる事さえ忘れてつらつらと語られるのは、いずれも帝辛を肯定的に受け止める言葉。
 どうやら、能力はもはや誰もが認めるものであるらしい。

「……そう。呼び止めて悪かったわね」

 そう言い残して、今度こそ踵を返す。
 そうだろう、きっと誰に聞いても、皆が似たような回答を返すだろう。それほどの能力を有していると、詠自身も理解している。
 

 ――じゃあ、月は? 月は一体どう思っているんだろう? ボクは……ボクは今も、ちゃんと月の役に立ててるんだろうか?


 表に出されなかったその問に、答えるものは、ない……。



「呼び立てするような形になって済まない。どうにも手が離せないのでな」
「……見ればわかるわよ。そんな事でいちいち咎めはしないわ」
「そうしてもらえると助かる」

 そう言いながらも帝辛の視線は手元に落とされたままで、彼の執務室までやって来た詠には向けられない。呼び立てておきながら無礼な、と叱責されても文句はいえないところであるが、うず高く積まれた竹簡と、それを鬼気迫る勢いで処理している姿が、文句を喉奥に押し戻し、あまつさえ感嘆の念さえ引っ張り出さんばかりであった。

「よし……これでどうにか一段落か」

 ふう、と大きな溜息を付いて面を上げた帝辛、その顔は隈も色濃く無精髭も目立つ。眉間を揉みほぐし気怠げに関節を鳴らす様子は、まさに疲労困憊といった風であるが。
 その眼。疲労や眠気とは無縁の、ぎらついた眼光が、むしろ生気に溢れているように見せていた。

「大した意欲ね……」
「なに、似たような状況で、もっと多く複雑な案件をこれでもかと言わんばかりに捌いた事があるのでな……。思わず滾ってしまった」

 帝辛の脳裏にあるのは、かつての殷。妲己に誘惑された自身の怠慢と放蕩が原因で傾いた国を、聞仲と共に再生させんと昼夜を問わず働いていた記憶。それが、帝辛の体を突き動かし、心を奮い立たせていた。
 ……同時に、やらねばどこかの誰かの第三の目が……ッ、という強迫観念が老骨に鞭打っていたりもするのだが……それはあまりに情けないので黙っていた帝辛である。

「……そう。ところで要件はなんだったの?」

 そんな帝辛の内心など知る由もなく、決裁済みの竹簡・書類の山を睨みつけながら詠は聞いた。
 そうよ、元々仕事の話があるから来たんだもの。余計なコトに気をとられてる場合じゃあないわ、と思いながら

「うむ。まずは、ここ数カ月で人民の流入が加速傾向にあるというのは承知だと思うが……?」
「当然ね」

 詠は刺史である月の補佐官――別駕従事――としてその手腕を存分に振るっている。実質的に文官の頂点に立っているので、殆どの政治的な情報は把握していた。

「御用商人たちに情報を撒かせてからの最初の一月強は流石に食付きが悪かったけど……まあそれは準備期間だものね」

 その最初の一月半ほどをかけて噂は各地に広がり、浸透し。
 最初に反応したのは、明日をも知れぬ生活から抜け出すために賭けに出た者たちだった。
 重税や黄巾党の襲撃によって、財、或いは家族や住む家といった寄る辺をそっくり失った者たちが、藁にも縋る思いで一縷の望みを託した旅に出たのだろう。
 道中で死出の旅へと行き先を変えた者も多くあっただろうが、それでも少なくない数の難民たちが并州にまで辿り着いた。
 そして殆ど身一つの彼ら彼女らを、并州刺史である董卓は、質素ながらもきちんと織られた衣服と一杯の粥、簡素ではあるが風雨は十分にしのげる仮設の小屋で暖かく迎えた。
 その事がまた噂として広められている間に、最初の移民たちを労働力として居住区画の整備が行われ、受け入れ態勢が整えられていく。
 それが終わる頃には、今度は先行きの暗さを打開するために新天地を求めた者たち、そして商機を嗅ぎつけた商人たちが辿り着き始め――。

「今ではご覧の賑わい、ってわけね。経済力の貧弱な新規の移民に対しての対策もあるし、流入は暫く続くでしょうね」
「ただ、冀州や済南の辺りの発展が目立ってきているから、東からの流入は収まるかも知れん、がまあさておき……その移民たちの中で、軍に入りたいという者がかなりの数に上っているのだ」
「ん……そうね、確かそんな傾向にあったような……。物好きなものね、もっと安全な働き口だって見つかる程度には景気もよくなってるのに」
「どうやら、予想以上に【董卓軍】の人気が高いようだ。黄巾党を撃破して入城した時の印象が色濃いらしい。霞が中心になって、徐栄や郭、張済で訓練を施しているところだ。それで、だ。今度出発する大規模な商隊、それの護衛と、通行経路周辺の賊の掃討を、実戦訓練を兼ねて新設の部隊にやらせたいのだ」

 もちろん、熟練の兵と織りまぜてだが、と帝辛は添える。

 并州領内の黄巾党は、丁原が統治していた頃の軍の弱兵ぶりに油断しきりであったため。それとは比較にならない精強さを持った月の軍、そして霞、帝辛の武勇、詠の軍略の前に、大きくその勢力を低下させていた。
 現在は河東近辺に残存勢力が集まっているものの、当初に比べてその脅威度はかなり低下している。
 加えて、冀州の袁紹、幽州の公孫賛、陳留の曹操、洛陽近辺の呂布らの活躍で、并州への黄巾党の流入が防がれた事。さらに経済の活性化に伴ない、民衆の不満も低下した事により、治安が向上。
 結果、并州は奇妙な平成を獲得していた。
 しかしこの平穏は、必ずしも望ましいものではなかった。

「そうね……。今後の世情は間違いなく荒れる。そんな中で、ボクたちだけ実戦経験不足、なんて事になったら目も当てられないわね……。確かに、領内の平穏を維持しつつ、戦闘経験を重ねるにはちょうどいい、か……」
「今後、これを恒例にすれば并州政庁が保障する、護衛付きの流通経路を作り上げる事もできるだろう」
「……護衛が監視も兼ねれば、関税を引き下げる事にもつながるわ。そうすれば流通はますます加速する……」
「短期的には軍の練度向上、長期的には収入の向上にもつながるわけだな」
「……霞は? 了解してるの?」

 文官の頂点が詠なら、武官の頂点は霞である。
領外への派兵は、その意志を反映させずにおけるような些細な行動ではない。

「無論。というか、欲求不満が溜まっているようでな、自分が戦う機会が欲しいらしい」
「霞らしいわね、まったく」

 溜息には呆れが混じっているとはいえ、兵の練度向上加え経済活性の旨みを思えば、霞の鬱憤の発散もおマケで付けていいわよね……と自分を納得させる気にもなるもので。
 結局詠は、訓練を兼ねた商隊護衛を帝辛に命じ、自身はそれに関係する書類――経路上の諸侯に対しての通行許可の申請など――の作成に取り掛かる事となった。





「えぇ〜〜〜! なんでウチやないねん〜〜〜!!!」
「それは霞にまだ仕事が残っているからだろう」

 天高く響く不満の声を、バッサリと切り捨てて。帝辛は子供のように全身で不満を表現する霞を宥めにかかる。

「それに月に賈駆も残っているのだから、まだ身軽な私が出張るのが自然だろう」
「う〜、んな事はわかっとんねん。わかっとんねやけど〜……」
「霞の仕事に一段落つけば、任を交代する事もできるだろう。それまでの辛抱だ。それに、鶏を割くに焉んぞ牛刀を用いんや、だ」
「……あ〜あ、それずるい言い方やで」
「こうでも言わんと止めないだろう? 実際、そこまで不満に思っているわけでもないだろうに」

 口調と内心の差異は、それなりに親しい人間ならば割と容易く感じられるだろう。実際、体を動かし足りないのは事実ではあるが、訓練や後進の育成の重要性もきちんと理解している霞である。要はじゃれて遊んでいるだけなのだ。

「やれやれ……。今度、訓練の相手をしてやるから勘弁してくれ」
「お? 言うたな、約束やで!」
「あ、ああ。二言はない。例の技、どこまでモノにできたかも知りたいし、な」
「あ〜、それそれ! 楽しみにしといてぇな!」

 だれた雰囲気はどこへやら、急に元気になった霞に、早まったかと内心汗を掻きつつの帝辛である。

「んで、連れてく兵力は?」
「ふむ……」

 現時点での董卓軍の兵力は、数度の黄巾党との交戦で獲得した捕虜や入隊希望者を吸収した事もあり、丁原が残していった并州兵と合わせて約二万を数えるほどにまで増加している。
 その中核をなすのが初期から従軍していた五千ほど。丁原の統治下で練度を大幅に下げていた并州兵約一万も、元々は鮮卑や匈奴といった強力な騎馬民族と戦ってきた強者である。驍将張遼のシゴキの下、彼らは瞬く間に往年の輝きを取り戻していた。
 残りの五千ほどは捕虜にした黄巾党や、志願した并州の民からなっているため、練度はまだまだである。しかし彼らは月たちの捕虜となって、或いはその統治下で生活する事になって、彼女たちを知るようになり、その上で入隊した者ばかりである。
 そのため忠誠心や帰属意識が高く、鍛えればゆくゆくは親衛隊的な存在にもなり得ると目されていた。

「屋台骨になってもらう古参の兵を千ほど。新兵千を二千ばかリの并州兵で支えてやる。こんな感じでどうだろう」
「せやな、それならヒヨっ子の世話にも手ぇ回せるやろし、ええんちゃう? ああ、出掛けるついでにまた入隊希望者引っ掛けてきてくれてもええで?」
「それを狙うなら霞が出張った方がいいだろうな」
「はははっ、そんなにヨイショしたってなんも出ぇへんで?」
「今は出ずとも、次の酒宴の時に出る酒に期待するだけよ」

 口々に軽口を言い合い戯れる。そんな時間は帝辛にとって新鮮で、次々と言葉が口を衝いて出る。
 元々頭の回転の早い帝辛であるし、霞も言葉を引き出すように誘導しているので、帝辛は順調に親しみやすい話術を習得しつつあった。
 これは霞なりに世間知らずの帝辛を気遣っての事なのであるが、当の帝辛は傍目にはわかりにくいがそれなりに浮かれているので、そんな気遣いに気付く事はなかった。

(まあ、別に気付いて欲しくてやっとるわけやないからなぁ)

 王としての才はあるのだろう、兵としての才も見せてもらった。
 後は、同じ高さでも遥かな高みでもない。兵たちにとってちょっと上にいる将として、人気と信頼を集めるようになれば。文字通りぽっと出の存在である帝辛の足元を、少しは固める事が出来るだろうから。

「ま、そういうわけでお互い頑張らんとな」





 そして約十日後。
 大量の商品を携えた商隊と、十全の備えをした帝辛率いる護衛部隊が太原を立った。
 副将として付いたのは徐栄。并州軍にいた武将で、なかなかの武勇と度量を持つ良将である。

「冀州との境界線沿いに進み、途中で業、陳留に寄り、最後は洛陽へ、か。近辺の繁栄している地を全て回る事になるか」
「ええ。これらの都市の賑わいは、やはり群を抜いていますから、交易の拠点になっています。もちろん、我らが董卓さまの治める太原も」

 誇らしげに自らの仕える主と住まう地を語る徐栄。
 この半年あまりで、月は住民と兵士両方の掌握をほぼ完了させていた。
 といっても、別に類まれなカリスマを発揮したり、怪しげな本の力を借りて魅了したわけでは、もちろんない。
 確かに先任の丁原よりも遥かに寛大で良心的な政策を打ち出してはいたが、それは彼女にとっての当たり前を、詠たちが実現可能な範囲に落とし込んだだけ。これに釣られただけならば、わざわざ命の危険を伴う軍に「董卓さまに一臂の力を」などと入隊してはこないだろう。

「上に立つ姿にも色々あるものよ……」
「は……なにか?」
「うむ……。お前は、なぜゆ……仲穎殿についてくる気になった?」
「そう、ですね……。なんと申しますか、不遜な感じではありますが、こう、あれだけ頑張っておられるお姿を見ると、ふつふつと庇護欲のようなものがですな……。力を貸して差し上げたくなるのですよ」
「なるほどな」

 まあわからないでもない、と大の男二人が苦笑い。
 なるほど、それも求心力には違いないだろう。どこか家族的な繋がりは、その暖かさで人々を纏め上げるだろうし、現にこうして纏まっている。

 ――しかし、しかしだ。

(今はこれで良い。良いが……)

 或いは、もっともっと規模が大きくなった時。月の、あの小さな掌から溢れるほどに、守るべき、守りたい者が増えた時。
 或いは本当に、この乱世の流れを超えた末に、王として立たねばならなくなった時。  その時に、果たして月は――。

「……まあ、今悩んだとて」

 今はまだその時ではない。
 先を見るのは大事ではあるが、結果足元を疎かにして転んでも面白くない。
 差し当たっての足元、今自身が負った任を十全に果たす事が先決である。
 それに、そう、賈駆。
 何が起きたとて、大概の事なら彼女が月を守るだろう――と。
 そう帝辛は考え、意識を切り替える。

「うむ……。徐栄、陣形を日輪陣に。商隊と輜重隊を陣形の中心に入れよ」
「はっ」

 切り替えればそこからは早い。
 今回は護衛もそうだが、部隊の練度向上も重要である。
 陣形の迅速な変更、各隊の呼応した行動。商隊が都市に付き荷の遣り取りやらをしている間は、周辺の賊を積極的に討伐……。
 やるべき事は数多く、またその為に存分に腕を奮うことに対する意欲もまた然りであった。





 故に。
 月を守ろうと気と智謀を張り巡らせている少女。
 詠、彼女もまた、月と同じくまだ多感で弱さを持った少女である事を。
 己の強さが故に、或いは少女があまりに気丈であったが故に。
 忘れてしまっていたのだ。





 意気軒昂に物事に挑めば、時が過ぎるは矢の如し。
 一行は途中で幾度か黄巾党や匪賊を蹴散らしながら順調に旅程を消費し、現在は陳留に到着していた。

「うむ……ここは業か太原か……」
「確かに、大層な賑わいでありますな」

 帝辛の感心した声、徐栄の感嘆の声。向けられたのは陳留の有様である。
 商隊は荷の積み下ろしや仕入れ、物資の補給で数日間滞在する事になっており、護衛部隊もまた、補給や次の目的地までの通行許可申請が済むまで待機せねばならない。
 帝辛はそれに合わせて兵たちを二組に分け、交互に一日ずつ休養を取らせる事にしていた。
 初めての領外への長期出兵に、いつも以上に負担を強いられていたのだろう。街の賑わいに誘われて兵たちはあっという間に雑踏に消えて行き、その背を見送る居残り組の羨ましそうな顔は、いっそ見物であった。

「人の多さもさる事ながら、治安の良さも特筆すべき事でしょうな」
「うむ。太原も活気では負けぬが、治安の面では一歩遅れを取っているか……。警邏の兵の配置や人数、可能なら交代の周期をそれとなく確認せよ。参考にさせてもらおう」

 兵たちが休養を取っていても、部隊を統括する彼らまで休めるわけではない。一時の息抜きとして街に出てはいるが、これも半ば視察のようなもの。どのような物品が売られているのか、民衆の為政者への評価はどうかなど、直に見聞きしないとなかなかわからないものを調べていく。
 そして判明する事は一つ。

「陳留州牧……曹孟徳といったか。どうやら只者ではないらしいな」
「はい。その手腕、その果断さ、その求心力……。どれをとっても一級品であると判断せざるを得ません。また、つい先日もここ一帯の黄巾党の糧秣集積所を焼き払う働きを見せたとの事」
「ふむ……。文だけではない、か」
「は。……これでまだ年端もいかぬような少女だというのですから、末恐ろしいものです」
「そんな人物が、并州からそう遠くないこの地にいるというのは……。さて、いいのか悪いのか」

 時は乱世。時流によっては味方となるか敵となるか、という状況になる可能性があるだろう。
 既に帝辛はそう考えていた。

「……仰聞さまは、これから群雄割拠の時代になるとお考えなのですか?」
「……未だ王朝はあれども、いつか倒れる時は必ず来るのだ」

 ――かつて、殷が滅びたように。

「それがいつかはわからない。わからないが……いつかは必ず来るのだ。故に、それを思い描けるようにだけは、しておいてもいいだろう」

 負けるはずはないと。滅びはしないと。
 かつてそう思っていた帝辛が、ひょっとしたら、誰よりも時代の変わり目というものを感じていたのかも知れない。





 実りの多かった陳留の調査は終わり、兵たちの休養も通行許可も恙無く済み。商隊の移動再開を待って、部隊は再び行軍を開始した。

「うむ……しかし我らが部隊、出発当時とは見違えたな」

太原を出てから既に数ヶ月。その間に幾度かの戦闘を経験した兵たちの練度、連携は確実に向上していた。
 その精強さを増した軍で以て南下を続けたため。また幽州、冀州でもそれぞれ袁紹と公孫賛が攻勢を強めているらしいため、北方の黄巾党勢力はその圧力に押されて南下を始めており、今では洛陽周辺に大集団が存在している状況となっていた。
 本来、最も護られていて然るべき洛陽周辺に黄巾党の本隊ともいうべき集団がいるというのは問題であるが、それだけ官軍の、ひいては王朝の力が衰退しているという事であろう。
 現に……。

「前方に砂煙と僅かな喚声……」
「僅かながらも地響きもしておりますな。なにより……」

 ついと徐栄の視線が動いた先には、本隊に向け疾駆する騎馬が一騎。伝令兵の姿である。

「申し上げます!」
「戦闘、だな?」
「はっ! 前方およそ五里の地点で、官軍と黄巾党が交戦中!」
「噂をすれば、か。状況は」
「はっ! 官軍およそ一万を、黄巾党およそ一万五千が迎撃していたものとみられますが、戦況は官軍に不利な状況に推移! 戦線崩壊は時間の問題かと!」
「官軍がそこまで……。仰聞さま!」
「うむ。騎兵を中心に部隊を三千引き抜く! 残り千は商隊を護衛させよ」
「はっ!」



 抽出した騎兵中心の部隊三千を前に。帝辛は徐に偃月刀を抜き放ち、天に掲げる。
 そして――。



「――聞け!」



 ギョロ、と。
 眼球が音を立てて動くのならば、そんな音が響いたのだろう。
 確かに大声は出した。出したが、それだけで三千人全ての耳に届くわけではない。
 確かに白刃を掲げた。掲げたが、それだけで三千人全ての目に入るわけでもない。
 ないが、しかし。
 帝辛は確かに六千の耳目と三千の意識が己に向けられているのを感じた。



「私は民の哀しみを知っている」

 そう。あの日の朝歌で。

「私は民の怒りを知っている」

 そう。あの時突き立てられたボロボロの刃で。

「お前たちもまた、哀しみと怒りを知っている。そうだろう?」

『是! 是! 是!』

「お前たちは、それを正し、喜びと楽しみを取り戻すために刃を手にした。そうだろう?」

『是! 是! 是!』

「だが見るがよい! あそこには、この期に及んでなお怒りと哀しみを振り撒く輩がいる! アレらによって、更に親は傷つき、子は飢えるのだ! それを許してよいのか!?」

『不! 不! 不!』

「ならば。ならば刃を以て過ちを正せ! その一振りを以て望む明日への道を切り開くのだ!!!」

『雄々々々々々々!!!!!』



 そこには精鋭も熟練も新兵もなかった。
 並の兵とは一線を画す徐栄でさえ、我知らず剣を抜き、馬を駆けさせていた。
 かつての王、紂王。そのカリスマ性が今、戦場にてその真価を発揮していた。



「止まるな! 駆け抜けよ! 敵は優勢に奢っている! 後背を抉り官軍への圧力を弱めさせよ!」

 この戦闘において帝辛は、飽くまで官軍の窮地を救う事を念頭において軍を率いた。
 如何にほぼ完璧な統率の下、無警戒だった後背を突けたとはいえ、敵は自軍の三倍の兵力を持っている。加えて後方には、護衛対象である商隊がいる。無理をして後ろに敵を通してしまっては元も子もないし、官軍が盛り返しさえすれば前後からの挟撃という形に持っていけるからである。
 現に、董卓軍による背後からの攻撃に動揺した黄巾党は、なんと官軍の目の前で軍を反転させ始めた。
 これを機とみた官軍の将、華雄は壊乱しかけた軍をどうにか掌握し直し逆撃に転じる。

「華雄将軍! 形成は逆転、黄巾党の戦線は崩壊しつつあります!」
「よぉし、その調子だ! 突撃を続行しろ、このまま突き崩す! 我に続けぇ!!!」

 勇将華雄。些かどころではないレベルで猪な武将ではあるが、しかしその突撃力は確かに只者ではない。敵が混乱状態であり、自軍が勢いづいてしまえば蹴散らすのはたやすかった。

「敵戦線崩壊! 四分五裂していきます!」
「やりましたね、将軍!」
「ああ。一時はどうなる事かと思ったが……あの、敵の後背をついた部隊はどうしている?」
「はっ、挟撃する形を維持するように動いておりましたが、現在は敵を蹴散らしながらこちらに向かっております!」
「そうか。ではその部隊と合流後、追撃をかける! さっきのお返し、何倍にもして返してやる!」」

 軍を立て直し、強気さを取り戻した華雄は気勢をあげながら合流を待つ。
 程なくして、驚くほどに統率の取れた部隊を引き連れた一騎の騎馬が駆け寄ってきた。

「私は子受、字を仰聞。并州刺史、董仲穎の配下の者。官軍が戦っているを見て一臂の力を貸さんと助太刀に参りましたが、指揮官はおられますか!」
「おぉ! 私が指揮官の華雄だ! 先程は助かった、貴公らの攻撃でなんとか盛り返す事ができたぞ!」
「勿体無き言葉」
「何をいう、貴公の率いる部隊、その統率は見事だ。貴公らとならば心強い、これから敗走する敵を追撃する!」
「追撃?」

 血気も盛んに当然とばかりに宣言した華雄に、帝辛は僅かに眉をひそめる。

「そうしたいのは山々ですが、我らは後方に商隊を残してきております。実のところ、我々は洛陽へ向かう商隊の護衛隊から抽出した部隊なのです」
「何? ではこれ以上の追撃は」
「望ましくありません。加えて将軍の率いる兵も消耗著しい様子……。ここは我々がおし止めます故、将軍は洛陽へお引き下さい」
「むう……。口惜しいが仕方がない。并州の子仰聞といったな、覚えておこう。――総員、撤退だ!」



「――徐栄」
「は」

 官軍が撤退していく様子を見つめながら、帝辛が言う。

「商隊を官軍の後ろに続いて洛陽に向かわせよ。張り子といえども虎、威を借りて巣穴へ入り込むのだ。私は追撃を行う」
「――その為に官軍を?」

 その問いには答えず、帝辛は馬を返す。

「役立つかはわからぬが……未だ我らの方が勢力が弱い以上、あまり露骨に覚えを目出度くさせたい相手ではないのでな」

 返したその先。土煙と共に近づいてくる一団のただ中に翻るは【曹】の旗――。



「さて……まずは曹孟徳。現代の武王となる器か……見極めさせてもらうとしよう」

 

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