- k a r e s a n s u i -

昏君†無双

 董仲穎が并州刺史に着任し、黄巾党を駆逐し、蔓延っていた不良官吏に対して粛清を行い綱紀を正し、仁政を始めた――。

 月が刺史に就任してから一月も経たぬ内に、その噂は太原を発信源として波紋のように広がっていた。
 前任の丁原による統治下では、苛烈な徴税と浅慮な施政により、民衆は貧困に喘ぎ、また鮮卑、匈奴といった異民族や黄巾党の脅威に日々苛まれているともっぱらの話であったため、その噂を聞いた者は最初耳を疑ったという。
 しかし、并州、特に太原に出入りする商人たちは、皆并州のこれからは明るいと口にする。行きかう商人の数も増加傾向にあり、黄巾党が駆逐され、并州への行き来が安全になっているというのも事実らしい。

 これは、ひょっとするとひょっとするのか?

 漢の国土全体に蔓延る閉塞感。それから逃れようと願う者が一人、また一人と并州を目指すようになる――。





「現在の并州における最大の武器はなんだと思う?」

 不良官吏の一掃と、財産の没収。それらに関わる一連の混乱が収拾するのには数日を要し。休むまもなく明けた朝には并州建て直しの具体的な案を話し合う会議が招集され、その冒頭で帝辛はそう言った。

「武器……。つまり一番の売りって事ですね?」
「せやなぁ……。……詠、なんかあるか?」
「ちょっと、なんでボクに振るのよ。少しは自分で考えなさい」
「え〜、せやかて、今の并州は立ち直る前の段階やん? 売りになるようなモンはな〜んにもあらへんで? 精々、ウチの名前が知っとる人には響くかなぁゆうくらいや。并州は建陽の地盤やったから、他んとこよりは名前売れてるかも知れへんけど」

 やれやれといった感じで霞が言うが、しかしそれも尤もな事。
 知名度で言えば、なるほど神速将軍張文遠の名はなかなか売れているといっていいだろうが、それだけでは并州は食っていけない。
 しかし詠は、その言葉で何かに気付いたようだった。

「名前……名前、ね」
「詠ちゃん?」
「なんか思いついたん?」
「……思い付いたんじゃないわ、思い付かされたのよ」

 じろりと不愉快そうに向けた視線の先では、帝辛が我が意を得たりとばかりに頷いていて。
 詠はしばし帝辛を睨みつけていたが……割り切るように眉間の皺を揉み解した。

「……おかしいとは思ったのよ。今の并州に、売りと言えるほど大層なものはないって言うのはわかりきった事。何で今更それを問うのか……。確かに、今の并州には名しかない。でも、言い換えれば名があるって事。しかも、それを知れば熱狂の渦が巻き起こるくらいの」
「そうだ。并州には、黄巾の脅威を大きく減じ、丁の何某らの悪政から脱却し、新しい時代を迎えている……という『名』がある。しかもそれが見目麗しい乙女らによってなされているのだ。なんとも耳障りがよかろう? 憂き世に耳いい話題はよく映える、上手くすれば中華全土にまで届く噂になるかも知れぬ」
「そうなれば、噂を聞きつけた人たちが流れてくるかもしれない。噂が事実だと知ればそれが加速するかもしれない。そうなれば、物もお金も一緒に流れてくるようになる……って事ですか?」
「そういう事になるな。折角風が吹いているのだ、乗らない手はないだろう。……文和殿はどう思われる?」

 成る程といった風に頷いている月から詠に話題を振る。
 自分と詠との間に些かの隔たりがあるとは知っている帝辛だが、自身に否定的な立ち位置からの意見も必要である。
 良薬は口に苦く、諫言は耳に痛い。かつて諫言を全くいれず暴君と化した記憶と、今は独断が許された王の立場ではないという意識が、帝辛の手綱をぎっちりと取っていた。

「……悪くは、ないと思うわ」

 果たして、暫く続いた渋面の後に発せられた答えは、肯定的なものであった。

「物がない以上、ある名を最大限に活用するしかないわけだし。それに、少ない代償で結果が得られればよし、そうでなくともそれほど痛くはないものね……。逆に成功した場合、流れてくる人を受け入れる態勢を整えられるかが問題になるけど……それ以前に」

 くい、と眼鏡を押し上げる仕草は、怜悧で有能な公人・賈文和のそれである。

「どうやって噂を広めるのか。それによっては誰も食いついてこないかもしれないわよ」
「それについてだが、商人たちを使ってはどうかと思っている」
「商人? 使うも何も、あいつらはもうじき僕たちの手で処分が下されるのよ? 民衆はあいつらに対しても怒りを覚えてるから、下手に取引なんかで刑を減免するわけにはいかないわ」

 詠の言うとおり、并州に於ける有力な商人たちは、前政権下で不正を働き利益を貪っていた事を罪に問われ、今その沙汰を待っているところなのである。
 そんな連中を用いるとなれば民衆の反発は免れず、現状圧倒的な民衆からの支持によってどうにか上手くいっている并州統治に重大な支障が生じるのは明白である。

「いや、彼奴らはつかわない。欲が強いだけで使い物にはなるまい。使うのは、違う方だ」

 ばらり、と記された内容がよく見えるよう、帝辛は竹簡を広げる。

「なんや? この名簿は」
「彼奴らが不正に市場を独占していたせいで苦汁を舐めていた商人を調べ、その中から苦境にあってなお新たな販路や市場の開拓に取り組んでいた、反骨精神溢れる者たちを選んで記載したものだ」
「ちょっとよく見せて」

 霞の問いに答えていた帝辛を押しのけるようにして詠は竹簡を精読する。

「……確かに、どこかしらの書類で見かけた名前ばっかりね」
「詠ちゃん、私にも見せて」

 ひょこと隣にやってきた月に場所を譲ってやりながらも、詠は記憶にある最近閲覧した資料との共通点を見つけ出す。
 ある名前は納税関連の資料で、またある名前は関所の通行記録の書類で。
 どの資料に於いても誰かしらがどこかしらに名前が載っていて、しかしどの資料に於いても前政権と癒着のあった商人たちに水をあけられている事が見て取れる。

「へえ……。政権と癒着してた奴らに市場を殆んど独占されてた中での単独二番手集団ね……。確かに凡百ではなさそうね」
「という事は……この人たちを取り込むって事ですか?」
「うむ。これまで食い込みたくとも食い込めなかった市場がようやっと開放されるわけだ。怨敵がいなくなる今、首輪をつけられたとしても餌は食いたいだろうな」
「でも、首輪に繋ぐ紐の長さは調節しないと、建陽の二の舞……いや、それより酷い事になるわよ?」

 商人を取り込むのは、丁原もやった事であり。それとの違いを明確に出来なければ、民衆からの反発は大きくなる事が予想される。
 それを指摘した詠に対し、帝辛は事も無げに応える。

「なにも鎖で繋がずともよい。まず不正を行った件の商人らを厳重に処罰する。そして新しく取り込む者たちの中にも癒着を狙ってくる者がいれば、これもまた処罰。まあこちらはさほど厳しくなくともよかろう。さすれば聡いだろうそやつらの事、一連の流れがこちらからの合図なのだと悟れば、勝手に柵を作ってそこから出るような真似はすまい。出たならその都度罰して調教するだけでよいだろう」
「……獣扱いね」
「貪欲だからな。だが、そのぶん躾ければよく働いてくれよう」
「まあ、手を噛まれるよりましだものね。それに御用商人に取り立てたとして、他の商人にも市場参入の余地を残しておけば……」
「その辺りの匙加減はお任せしたい。如何せん、私はまだこの時代での経験が少ないからな」
「当然ね」
「あ、あんな? ちょっとええか?」

 なおも二人の会話は加速する、かと思われた頃合に、霞が割って入って水を入れる。
 神速を謳われる張文遠も、こういった小難しい話には流石についていけなかったらしい。

「あ〜、つまりはその気骨ある商人たちを新しく取り込んで、そいつらに商品と一緒に情報も取り扱ってもらおうっちゅー話……でええんか?」
「え、ええ。ごめん、ちょっと脇道に逸れちゃったわね」

 コホンと咳払い一つ、詠は手綱を取り直す。

「まあ、概ね霞の言うとおりね。付け加えるならば、情報を持ってきてもらうだけでなく、こちらの情報を持っていってもらう場合もあるわ。今回はそっちの方が重要になるわけだし」
「なるほどな、并州でこんな事が起きとるで〜っちゅー噂をあっちこっちでばら撒いてきてもらうんやな」
「本当の商人が噂するから真実味があるし、実際真実だから、噂に釣られて来てみれば、本当に旨みにありつける。そうなればまた噂が広がって、後は後押しするだけで情報が人を呼び、人が金を呼んで并州は豊かになる、ってわけよ」
「……まあ全て文和殿に言われてしまったが、そういう事だ。これならば、実際掛かるのは時間くらいで、浮いた資金と人材で受け入れ態勢を整えるなりすればいいだろう」
「そうね……噂が広まって、実際人が来るまでには時間差があるから、噂の方を若干誇張させて、時間差を利用して実情をそれに追いつかせればいいんじゃない?」
「ふむ、そうなると――」
「あ〜……。また始まってもうた」

 再び構想に没頭し始めた二人に、霞が苦笑を漏らす。
 自分と月の事を忘れてしまっているのには呆れてしまわないでもないが、話自体は殆んど終わっているようなものであるし、今ここで骨子が出来てしまうのなら、それはそれで構わないのだから、無理に止める必要もないのだ。

「ふふ、二人とも……ううん、詠ちゃんったら、しょうがないね」

 今も帝辛とあれこれ話している詠、その表情は、決して柔らかいものではないけれど、笑みを含んでいた。洛陽で丁原の下で働いていた時とは比べ物にならないほどに、生き生きとしているように月には見える。
 鬼謀の人、賈文和。彼女にとって、自身のそれに勝るとも劣らぬ思考能力を持つ帝辛という存在は、どうやら否応なしに刺激となるらしく。詠という個人の感情を置き去りに、既に賈文和は帝辛を少なくとも知を競い合うに足る存在として受け入れているように思われた。

「まだしこりはあるみたいだけど……早く打ち解けれたらいいなぁ」

 結局、帝辛との打ち合わせもどきに満足した詠が正気に戻り、ついさっきまで帝辛と(傍目には)仲良さげにしていた事を霞に指摘され大いに動揺し、それをまたからかわれて更に醜態を晒す事になったのは、月の呟きからたっぷり一刻は経ってからの事であった。

 

戻る
(c)Ryuya Kose 2005