- k a r e s a n s u i -

昏君†無双

 太原。
 漢王朝十三州が一つ、并州の州府が置かれる都市であり、并州随一の都市でもある。
 その太原は今、久方ぶりの熱気に包まれていた。





 ――千歳! 千歳! 千々歳!

 其処彼処で木霊するのは歓呼三声、街中の人々が集まっているのではないかとさえ思える人、人、人の群れ。
 そんな彼らの視線、声、そして溢れんばかりの期待が向けられているその先には、堂々と市中を政庁へ向けて行進する董卓軍の姿があった。



「しかし、こらなんとも熱烈な歓迎やなぁ」
「うむ。何らかの反応はあるとは思っていたが、まさかここまで好意的に迎えられるとは」

 行進の先頭を行く霞と帝辛。二人は正に熱狂の中を掻き分けるように進んでいるので、肌に染みてこの歓喜を感じていた。

「どうやら、先日蹴散らしたあの黄巾党の軍勢。太原もかなりあれらの被害にあっていたらしい。それも、事前に得た情報よりも深刻な、だ」
「なーるほど、それを打ち砕いた事が知れたからこそのこの歓迎、って事やな。」

 并州は、十三州の中でも幽州と並んで北方に位置しており、北、或いは西に目を向ければ、そこは鮮卑、匈奴の領域である。
 元々異民族の圧力に悩まされている上に、黄巾党が台頭してきたので正に内憂外患、十三州が一つ并州、その州府であるはずの太原は、そんな重要都市であるとは思えぬほどに、沈んだ様相を呈していたのである



 ――その一報が入るまでは。



「この近辺で猛威を振るっていた黄巾党四千が、新しく就任する刺史様の軍勢に蹴散らされたらしい」

 そんな話を持ち込んだのは、太原にやって来る途中に戦闘を見かけた商人だったのか。或いは敗走のどさくさにまぎれて脱走した元黄巾党の男だったか。
 詳細は定かではないが、ぽつりぽつりと流れ出したその噂は、やがてその数を増し。実際に戦場後を見た人物の話や、黄巾党の捕虜を引き連れて行軍する軍勢が近付いている事が広まって、瞬く間に星火燎原、市中隅々までにその噂は真実となり、希望として広まったのだ。

「しかし考えてみれば、異民族の圧力と、黄巾党の暴虐。これらに鬱屈していた人々にとって、久々の明るい、希望の持てる話題なのだ。この盛り上がりもわからぬでもない」
「……押さえ込まれてたんが、一気に爆発したっちゅうこっちゃな。せやけど、ウチらにとっては好都合やな。賈駆っちならこの機を逃しはせんやろ」

 新たに赴任してきた、いわば新参者である月たちにしてみれば、この歓迎ムードは願ってもない幸運である。
 これだけの好意を持って迎えられれば、今後の活動、特に一番大事な初動がしやすいというもの。それをみすみす逃すような賈文和ではなかった。
 事実、こうして移動中にも、月と詠は馬車から顔を出しては盛んにアピールをし、熱気を煽っていたのである。

「救いの手を差し伸べにきたのが見目麗しい少女ともなれば、盛り上がるのは当然というもの。心許ないと思う者には神速将軍張文遠の威容を以って声なき説得となす、か。これなら出だしとしては望むべくもない好条件となるだろうな」
「ん〜? なんや謙遜しとるんかいな。辛かてあの戦いで充分以上に活躍しとったやないか。そらまあ対外的にはあんま名前は売れとらんかも知れへんけど、少なくとも身内で辛の事を知らん奴も、認めとらん奴もおらへん。こうやって軍の先頭でウチの隣に立ってても、誰も文句の一つも言わへんかったんはそういうこっちゃで?」
「―――」

 その、何気なく霞が放った言葉に虚を突かれ、らしくもなくきょとんとした顔をして見せた帝辛であったが。霞のお見通しだ、と言いたげな視線に、コリと頭を掻いた。

「……いや。見透かされていたか」
「そらまあな、ウチかて無名の頃から這い上がってここまで来たさかい、仲間内で自分がどう思われとるんかは、気にしとかなあかん事やったからな。それに辛は……なんや、仲間とか戦友とか、泥臭い感じもするこういう繋がりには、あんまり慣れてへんやろな思っとったからなぁ」

 そして、二カッと正に頼れる姉御と言った風に笑って見せて、こう告げるのだ。

「どや? これが仲間や。 これから時間が経って、戦を経て……もっともっと絆は強く深くなっていくで。それが、ウチらの力になるんや」」
「……うむ。なんとも、言えないが……悪くは、ないな」
「ははっ、せやな。悪くはないな! あははははっ!」

 そういって、かんらと笑い帝辛の背をバシバシと叩く霞。
 叩かれる帝辛は、困った顔をしつつも、どこか嬉しげだった。



 群集の熱狂は、一行が政庁にたどり着いても収まらず。全軍を収容した後に閉ざされた扉の向こうからは、未だ鳴り止まぬ歓呼の声が届いていた。
 五千を超える軍勢と、圧倒的な歓呼の声を背に入城した【董仲穎】は、荷駄の整理や兵舎設営などの指示を飛ばした後、速やかに武官文官を招聘し、引継ぎなどの会議を行った。

 行った、のだが。



「………」
「『委細お任せする』か……。随分と太っ腹な」
「……子受。あんたそれ本気で言ってる?」
「さてな。ただ、死に掛けた国に蔓延る害虫はいつの時代も変わらぬ……。それがよくわかった」
「……そう。ならいいわ」

 ぎり、と詠の歯噛みする音が大広間に響く。
 先ほどまで、引継ぎに際しての会議のために集まった、前任の刺史であった丁原の子飼いであった文官武官、地元の権力者がひしめいていたここには、今は月、詠、霞、それと帝辛の四人のみ。
 そんな仲間内だけとなった空間で、溜まった鬱憤を晴らすように皆が次々と口火を斬り始める。

「引継ぎの準備も碌にしてないなんて……。いくらなんでも建陽さまも無責任すぎます」
「せやなぁ……。民衆に吊るし上げられるんを恐れたんやろけど、自分の責任やっちゅう話やで。ほんっと能力ないくせに出世欲ばっか旺盛なんやから……」
「うむ……。しかし死に掛けた国の辺境ともなれば、或いはこんなものかも知れぬな。まあだからといって許せるのもではないが」

 怒りを通り越して既に呆れている詠を始め、帝辛に霞、温厚なはずの月までもが怒りを表していた。
 その理由は、先ほどまでここにいた、丁原から後を託されていた官吏たちの態度にあった。

 前任の刺史であり、月たち三人の上司でもある丁原という男は、なんというか典型的な俗物で、官吏としての才は人並み程度しかないが、出世のそれをはじめとする欲深さは一人前であり、着任早々賄賂に癒着、重税に横領と俗物振りを発揮したアレな人物である。
 とはいえ、其処で肥やした私腹によって何進との繋がりを得、ひいては今回の月の刺史就任に繋がったのだからどう転がるかわからないものである。

 閑話休題。

 さて、太原に於ける丁原の統治は、前述のとおりそれなりに過酷であったが、それでも平時であればよくある悪政で終わっていただろう。
 しかしながら、漢王朝の力は衰え、しかも黄巾党などという賊が猛威を振るっているというこの有事に於いては、無為無策以外の何物でもなかった。
 ただでさえ疲弊していた民衆の暮らしは、度重なる暴動、略奪によって更に苦しくなり、治安は悪化の一途。平均以下の能力しか持たない丁原では、事態の収拾は最早不可能であった。そして決定的な失策を犯してしまえば最後、中央政界での出世の道は断たれてしまうだろう。
 それを恐れた丁原は、自身の中央への進出と、并州の状況打開の両方を狙った策を練る。
 それこそが、自身の騎都尉就任と月の并州刺史着任である。
 失脚フラグ満載な并州から逃れると同時に、更なる昇進フラグがある中央政界へ進出。同時に并州に影響力を残せるという、本人的には一石三鳥の一手であったのである、が。傍から見れば厄介事を押し付けて逃げたようにしか見えず、并州に於いての丁原の評価は地の底まで落ちたのである。

「はぁ……我が主人ながら呆れてまうで……」
「ほんと。俗物にもほどがあるわよ、全く……」
「……でも、これで私たちが大鉈を振るえるようにはなったよね」
「うむ。幸いにも委細を任されたわけであるしな。ならば好きにやらせてもらえばよい。――そうだろう? 文和殿」
「……ふん。言われなくても! 建陽の悪評も何もかも、そっくり利用して董仲穎による立派な統治を実現して見せるわよ!」

 確かに状況は最悪に近いものがあるけれど、それでも条件は悪くない。
 今の歓迎ムードは、飽くまで前任である丁原への評価の低さから来た下駄を履かせてもらった故のもの。しかしそれを本物の評価へと昇華させる事が出来れば……。  そう思えばこその詠の気合の入りようである。……少なからず、丁原に対する本気の怒りに起因するところはあるだろうが、さておき。

「さて、邪魔者もいなくなった事だし……。そろそろ本気で打ち合わせするわよ」
「そう、だね。さっきの話し合いで、こっちの状況とかはある程度把握出来たし……」

 そう言って、月はちらりと手元の資料を確認する。
 それらに記されているのは、これまで丁原が採ってきた政策、把握している範囲での戸籍情報など多岐に渡る貴重な情報である。

「なんていうか、建陽さまが残した中で、まともな物がこれだけって……」
「まあ……何に重きを置くかは人それぞれだろうよ。とはいえ、先を見越して資料を纏めていた者には感謝しなければならぬな。確か……牛輔といったか」
「ああ、あの……なんちゅーか、陰気というか引っ込み思案そうというか、ビビりまくっとったアレやな」
「あの臆病さがこの資料を作らせたなら、有り難い事じゃない。それにその慎重さは使いどころを間違わなければ有効よ。今後は重用する事になるでしょうね」
「有能な文官の再発掘は急務となるであろうからな。率直に言って、先程出席していた連中は使い物にならぬだろう」

 帝辛の言葉に、一同が脳裏に同じ光景を思い浮かべ、そして一様に溜息を吐く。

「おべんちゃらをつかって甘い汁を吸おうとするか、やる気ないかの二択ですからね……」

 月の言葉が全てを代弁しているので、皆も多くを語らない。むしろ語る気もない、語るに値しない有様である。

「あの分だと、一般官吏も使えるかどうかわからぬ。成果ばかりを奪われ、過程を認められる事もなく、また己の力を十全に発揮する場を与えられずにいれば、せっかくの能力も性根も腐るばかりだろう」
「ついでに言うと、軍事の方も悲惨やで。来る途中実際色々覗いてみたんやけど、錬兵場はろくに使われなかったせいで荒れ放題やし、兵舎も予算が回ってへんのかあばら屋もいいところや」
「人員も予算も、施設も足りないなんて……政戦共に前途多難ったらないわね、全く……」

 口に出す事で改めて認識する現状の悪さ。一同の表情が険しくなる……が、ただ一人。帝辛だけが、薄く笑みを浮かべていた。

「なんや帝辛、なんか楽しそうやないか」
「ほう……? そう見えるか?」
「せやね、なんかこの状況に燃えてるみたいに見えるなぁ」
「あ……ひょっとして、殷王朝の……」

 ハッと何かに気付いた月が漏らした言葉、それに帝辛は静かに頷く。

「そういう事だ……。経済力も人員も衰えた末期の国家を支えんと足掻きに足掻いた日々……。確かに厳しかったが、充実はしていた。なに、それに比べれば州の一つ、私たち四人ならどうという事はなかろう」
「あ〜……。まあ、国家規模でこの状況を経験したんやったら、そらそんな言葉も出るわなぁ」

 感心すればいいのか呆れればいいのか、苦笑いしながら霞が言う。

「そういう事だ。才はいざ知らず、経験ならそうそう負けはしないだろう。今回の件、力になれると思う」
「ほんまに!? そらありがたいわぁ。いや、なんだかんだ言っても、ウチは恵まれた環境でしか働いとらんかったからなぁ、こういう状況やと、どんな不手際が出るかわからんのや」
「そうですね、私も実務経験はありますけど、それは建陽さま、ひいては何進さまの影響力が強い中でやっていた事ですし……」
「そういう所で、私を上手く使ってみせればよい。なに、才気煥発なそなたらなら、間違いなくこなせよう」
「ちょ、ちょっと待って! 月も霞も、それでいいの?」
「それで、って……なにがや? 帝辛に手伝ってもらう事やったら全然構へんけど」
「うん、私も帝辛さんが手伝ってくれるなら、心強いな」
「そういってもらえると有り難いな」

 霞と月の向ける信頼の言葉に、帝辛は軽く微笑みを返し。

 ――ギリッ

 詠は、それとわからぬ程度に歯を軋らせた。

「……飽くまでも相談役だからね。最終的な決定権は、霞とボクと月にしかないからね」
「ああ、それは構わぬ。軍事面ならばいざ知らず、政務に於いては何の実績も残していないのだからな」
「あ〜、それもそうやんな……。なあなあ辛、早く実績残してぇな、そうすればウチも楽できるやん?」
「サボろうとするのはどうかと思うけど……、帝辛さんと一緒にお仕事したいのは私も同じ……へう……」
「――ッ! ……もうこの話はいいでしょ、実際に私たちがどんな方向でこの并州を治めていくのか。それを話し合いましょ」

 何かに耐え切れなくなったように、詠が話題を切り替える。
 もとよりそう行った事を話し合うために集まったのだから異論の出ようはずもない。が、ただ僅か……月の視線が、帝辛と詠との間で往復した。



「じゃあ、今後の方針ですけど……まず、離れた民心の再吸引。これは、あんまり考えなくてもいいのかな?」
「そうね……。さっきの住民の歓迎を見れば、その辺りの心配はそれほどしなくてもよさそうね。とはいっても、それは一過性のものだから、早急に実績をあげなくちゃならないわ」
「せやなぁ、ここの人たちは一回建陽に裏切られとるようなもんやからな。だからこそウチらにはアレだけの期待がかかっとる。それに応えられへんかったらどうなるか……あんまり考えたくもあらへん」
「しかし、何をしようにも先立つものがなければな。まずは金策を練らねばなるまい」
「でも、今の太原の状況を考えると、税収は殆んど見込めないと思います……。むしろ減税を図らないと、完全に経済が疲弊しきっちゃいますよ?」
「せやな、建陽の奴が散々搾り取っていきよったからなぁ……」
「施設の再建とか、回せる仕事はあるんだけど……。なんとかして初期資金を確保しないと……」

 悩ましげな詠の言葉。
 資金さえどうにかなれば、何とかできるだろう、という自信が詠にはある。
 しかしそれは、資金がなければどうにもならない事と同義である。
 もちろん、時間を掛ければ経済を回復させる事は可能であるが、民衆の熱狂が冷める前に実感できる成果を示し、地盤をきっちりと固めておきたい、という事情がそれを許さない。

「なあなあ、もういっその事身銭を切ったらええんちゃう?」

 痺れを切らしたように霞が言うのも、まあ無理はない事ではある。
 幸いにして、建陽から支度金として渡されている資金の他にも、帝辛を除いた三人ともがある程度の資産を持っている。
 それを投入すれば、多少苦しくはあるが選択肢は広がるだろう。
 ――しかし。

「それはならぬ」

 決してきつい言い方ではないが、それでも拒否の意思が明確に籠められた一言。
 それも已む無しか、と半ば思いかけていた月と詠も思わず叱られた童女のように首をすくめていた。

「并州刺史の任は公的なもの、そこに私的な資金を投入するのは無分別というもの。公の仕事は公私の区別を付けるところより始まるのだ。そんな事では善し悪しの差こそあれ、丁の某がやった事と変わらぬ。――それに」

 にやり、と浮かべた笑みは偽悪的なものか、それとも千年前の暴虐の残滓が滲み出たか。

「切るにしても……先に切るべきモノがあるだろう?」





 董仲穎が新たに并州刺史に着任してから数日後。
 并州の政庁、その中心部ともいえる大広間には、着任当日のように多くの人が集まっていた。
 しかしその場に流れる空気には、大きな違いがあった。

「仲穎殿。今回は一体何の用件で我らをお集めになられたのですかな?」
「………」

 上座の華美な装飾の施された椅子に座り、無言を貫く月と、その左右に揃いの偃月刀を携えて仁王立つ帝辛と霞。その三人に見下ろされるような形で居並ぶ官吏たち。
 官吏たちは、誰もが清潔且つ上等な文官の衣装を身に纏っており、中堅以上の役職を持つだろう事が見て取れる。

「我らとて暇なわけではないのです。なさねばならぬ事は多々ありますので、用件は手早くお願いしたいものですなぁ」
「左様。如何に建陽さまの推挙を得ているとはいえ、悪戯に執務を阻害されるようでは困りますなぁ」
「………」

 上役に対しての態度とはとても思えぬここに居並ぶ官吏たちは、いずれもが一定以上の職についていた、いわゆるお偉方である。
 そんな彼らにはらなりの気位があり、こうして上司とはいえ新米の、しかも小娘に呼び出され、しかも待ちぼうけさせられては機嫌を悪くするのは自然とも言える。
 加えて彼らが不満に思うのは、月が彼らに対して、最初の引継ぎのための会議を除いて全く接触を持とうとしない事も理由にある。
 丁原の下で、賄賂横領癒着その他諸々三昧の生活を送っていた彼らにとって、たとえ刺史が替わろうとも、その生活は変わる事はないと思い込んでいたらしい。
 そのうち利権の分配や横領額の調整などの話が来るだろう、と思っていたが音沙汰はなく。しかもどうやらあの小娘は、高官たる自分たちを差し置いて、牛の何某、李の何某といった見聞きした事さえない下級の官吏とばかり接触を持っているらしい。
 そうなるとますます面白くなく、苛々を募らせていた矢先のこの呼び出しであった。

「待たせたわね」

 なおも言い寄ろうとする官吏たちの圧力に、いよいよ月の慣れない鉄面皮が崩れようとした頃、数名の武装した兵士を伴って颯爽と詠が大広間に入ってきた。そしてその背後には、十人ほどの男が続いている。
 詠が遅れたのは、この彼らを連れてくるためなのである。

「こほん。全員揃いましたので、始めます。今回諸君らに集まってもらったのは他でもありません。諸君らに関する、重要な伝達事項がありますので、それを伝えるためです」

 官吏らの怪訝そうな視線が詠の連れてきた面々に注がれる中、だんまりを決め込んでいた月が口火を開く。
 そして開いた矢先の穏当ならぬ言葉の気配に、再び官吏たちがざわめこうとするが。

「静まれ」
「見苦しいで」

 かつん、と軽く偃月刀の柄尻を床に打ち付けただけであったが。帝辛と霞、二人の静かな声に籠められた迫力が、それらを押しつぶす。
 そうして露払いがすんで、進行を月から委任された詠が、懐から取り出した書類に目を落とし、朗々と告げる。

「あんたたちに掛けるような時間も惜しいから、簡潔に告げるわ。以下に名前を呼ばれた者は、禁錮刑に処し、その財産を没収する。まず――」

 禁錮刑……即ち公職追放の刑である。公職につき、甘い汁を吸ってきた彼らにしてみれば、その判決は死刑にも等しい。
 あまりといえばあまりの言葉に忘我していたのだろう、彼らが反発の叫びを上げたのは、数十名にも及ぶ受刑者の名前が全て読み上げられた後であった。

「こ……これは一体何の冗談だ!」
「戯れにも程があるぞ!」
「冗談? 戯れ? それこそ冗談、これは并州刺史、董仲穎の名の下に正式に発令された、記念すべき命令第一号よ。粛々と刑を受けるがいいわ」
「な、ななな……」
「け、建陽さまに長く仕えた忠臣たる我々を、その建陽さまより後継に任ぜられた貴様が!? なんと恩知らずか!」
「そういうあんたたちは恥知らずね。あんたたちはその役職の権限を悪用し、金銭を貪り飽食に耽り、并州を、ひいては国家をも疲弊させた大罪人。証言も証拠品も、全て確保してあるわ。その上でもなお言い募る事があるわけ?」

 ちらり、と詠が自身の背後に居心地悪そうに立ち並ぶ、牛輔、李儒といった下級官吏、その皿に後ろに隠れるように立つ地元の有力者に視線をくれる。
 詠が遅れてきたのは、今まで彼らから証言を取り、また証拠を集めていたからである。

 牛輔を筆頭とした彼らは、腐敗した并州行政府に残された、数少ない良心であった。
 まだ歳若く理想を抱き、才覚もそれなりにあった彼らは、しかし并州で行われる不正や汚職という現実に打ちひしがれる。
 若さゆえに理想を諦める事もできず、しかし不正を正す事もできず。不正に手を染めぬよう心掛けていたために、上から睨まれて閑職へと追いやられ。生活は徐々に苦しくなり、糊口を凌ぐために横領も已むなしか、と堕落する悲壮な覚悟を決めようという時に、現れたのが月たちである。



 并州の政界に蔓延る汚物の掃除を手伝って欲しい。



 その言葉と共に、新しい時代が来たのだと、彼らは確信したのだ。

「ぬっ……ぐぐ、この木っ端官吏に卑しい土民如きが……ッ!」

 一方、自身らが今まで気にもしてこなかった下級官吏に売られたを知るや、不良官吏どもは顔を醜悪に歪めて罵倒する。
 一瞬気圧されかけた牛輔たちであるが、しかしその身に再び灯った希望を吹き消すには、あまりに些細な抵抗。キッと見返し言い返す。

「この并州を腐臭と怨嗟の声渦巻く地に変えたお前たちが、なにを言おうと!」
「そうだ! この地には風が吹いているんだ! 澱みを吹き飛ばす、新しい風が!」
「古く澱んだ風など、最早誰も必要としていない!」
「な、なにぃ……!?」

 真っ向から目下の人間に逆らわれる事など久しくなかったのであろう。怒りに歪んでいた顔が一転、戸惑いと僅かな怯えを含んだものへと変わる。
 所詮は強者に寄生する事でしか力を維持できない、いわば虎の威を借る狐に過ぎない。丁原という虎を失った今、彼らには拠り所となるものは、最早何もなかった。
 加えて……。

「どの口が卑しいいっとんねん……。こらあかんわ辛。下手に温情かけずにとっととそっ首叩き落した方がええんちゃう?」
「そうだな……。国家に対する不忠は非常な重罪故に、棄市刑が相当であったか」

 ぎらり、と二振りの偃月刀の刃が光を撥ねる。
 棄市とは、斬首の上、その首を捨て置くという刑罰を指す。
 殆んど黙認状態となっている公金横領などの汚職ではあるが、それは単にそれを罪として問う者がいなかったからである。
 つまり。

「本来ならば、この場で貴様らの首を叩き斬ってもなんら問題はないのだ。それを月……仲穎殿が温情を以って、禁錮刑に減免して下さっているのだが……どうやら厳格に法を適応して欲しいようだな?」
「う……ぐうっ」
「わかったやろ? わかったら、粛々と刑に服して頭冷やして来ぃ。――ほな、連れてってぇな」
「はっ!」

 霞の合図で、兵士たちが不良官吏たちを次々と引っ立てていく。観念したように項垂れてされるがままになる者もいれば、見苦しくも抵抗を試みる者もいるが、誰も……月でさえも、既に掛ける言葉を持たない。
 そして最後の一人が大広間から連れ出され、やがて沈黙が訪れる。



「……ふぅ」

 とさ、と軽い音を立てて月が脱力し、椅子の背凭れに身体を預ける。
 それを合図としたように、張り詰めていた空気が緩みを見せた。

「月、お疲れさま」
「うん……。えへへ、き、緊張しちゃったよ」

 恥じるようにはにかむ月ではあるが、その疲労は本物だろう。
 元々、性根が優しく、人に対して強硬な態度を取るのが苦手な月である。実務を取り仕切ったのは詠とはいえ、裁かれる者たちの前に立ち、揺らがぬように屹立し続けるのは生半な負担ではなかっただろう。

「済まぬな、月。必要な事とはいえ、嫌な役目をさせてしまった」
「いいえ、私が帝辛さんの案に注文をつけたんです。我が儘を言った以上、私がやらなきゃいけない事でしたから」

 帝辛が提案した策。それは、綱紀粛正を限りなく本音に近い建前とした、不正官吏の一掃と処罰、その結果としての資金確保である。

『この切羽詰まった情勢下に於いてなお、己の私腹を肥やす事に汲々とするような輩は、今後の并州統治に於いては百害あって一利なし。それらを処断し、不正に貯蓄した財産を没収する事で、人員の刷新と資金の確保を図る。民衆も、自分たちから税を搾り取った輩が罰せられ、その金が健全に使われると知れば、鬱憤も晴れ風評もよくなろう』

 そんな帝辛の言と同じような事を、実は詠も考えていた。
 財政と人員の正常化を同時に推し進める事ができ、経費を殆んど掛けずに済むのだから、本来なら即座に行いたいところである。
 この案に対し、霞は賛成の意を示し、月は反対の立場を取り。そして詠は反対よりの中立を選んだ。
 霞は状況の迅速な打開と、今まで散々苦労させられてきた不良官吏の一掃を望んで。月は、公職を追放(禁錮)された結果、その家族の生活にまで悪影響が広がる事を嫌って。
 そして詠は、案自体は有効であるが、月が強硬な手段を取る事で心を痛めるのではないかと懸念して。

 結局は詠が月の味方についた事もあり、月の希望と詠の提案を入れて棄市の刑を減免し、禁錮刑を適用。
 更に、ゆくゆくは反省が見られた者は禁錮の刑を解き、再登用を便宜する。家族に関しては、直接不正に関与していなければ、最低限の生活を保障するが、半強制的な労働――といっても、それほど過酷なものではない――を科せられる、などの修正が加えられた。

「ああいうずるい事をする人は、つまりお金の匂いに敏感なんじゃないかなって思うんです。もし、心を入れ替えて更生したなら、その力を貸してもらえばいいんじゃないかって……へぅ、わ、私変な事言いましたか?」
「……いや。出会った頃よりも、なんというか随分と強かな思考ができるようになったのだなと感心させられてな。」

 慈愛と潔白さに、それなりの強かさを兼ね備えた為政者になろうとしている少女を見る帝辛の目は優しい。
 かつて彼の傍で政務に携わっていた者たちは、聞仲を始めとしてほぼ全てが完成された能力を持っていた。
 もちろん、国家運営のための人材なのだから、そうでなくては困るのだが、王という立場もあり、後進を鍛え、その成長を見るという楽しみを帝辛は殆んど知らない。
 ほぼ唯一の例外であった息子たちへの教育も、それ専門の官吏がいたし、なによりも妲己の誘惑テンプテーションを受けてからは彼らを省みる事は殆んどなかった。

「うむ……。いいものだな」
「? なにがですか?」
「いや、なんでもない。それより……」
「……ええ。うまく事は運んだわね。後は、あいつらの妻子が最低限の生活が補償できる額を残して財産を没収、空いた役職に才と意欲ある者を抜擢して改革に取り掛からないと」
「皆さんも、早速で申し訳ありませんけど……力を貸して下さい」

 ぺこり、と牛輔たちに頭を下げる月を、詠も誰も止めなかった。
 并州の実情を知り、かつ能力と意欲のある彼らは、喉から手が出るほどに欲しい人材。その彼らを、礼と義を持って遇すると示すためには必要な事。
 そしてなにより、そうある事が董仲穎、月である事なのだから。

『ははっ! 我ら一同、仲穎様のお力となりましょう! 千秋千歳!』

 唱和する言祝ぎは、董仲穎と主と仰ぐ事を受け入れた証。月は面映そうに、けれども堂々とそれに答えている。

(月は、あれでよいのだろうな。この荒れた世にあって、人心を潤す甘き水。這い寄る悪意を打ち払う鞭は、私が担えばよい)

「さて! それじゃあこれから忙しくなるわよ! 霞と子受は、財務担当の官吏と、幾らか兵を率いて財産の差し押さえに回って。牛輔、李確、李儒は政務、徐栄、張済、郭は軍務で打ち合わせしたいから、後で資料を持って執務室に来て頂戴! それじゃあ解散!」

 煩わしい事態がとりあえず解決して身軽になったか、詠は水を得た魚のように活き活きと指示を出し始め、応じてそれぞれが己の役目を果たしに動く。
 帝辛は、それをどこか父親のような気持ちで見守るのであった

 

※李確の「確」は、正しくは人偏です
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(c)Ryuya Kose 2005