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昏君†無双

 文官・武官の選出。軍の編成。糧秣・輸送手段の確保。并州の有力者への根回し。帝辛への授業etc...
 そんな諸々をこなしている内にあっという間に過ぎていった十日間。おおよそ準備が整ったので、いよいよ以って并州の州都・太原へと出立する運びとなった。

「太原……。ふむ、北伯候崇候虎の統治下であったな。幾度か視察に行った事はあるが、さて今はどんな地になっているのか」
「崇候虎……。昏君紂王に加担して、結局殺された?」
「恐らくな。私が正気づいた時にはとっくに亡くなっておった」
「……なんや、えらい不憫やな……」
「小物だったからな」
「ほか、ならしかたあらへんな」
「……ほんと、不憫ね」

 まさに。



「ま、まあそんな事はどうでもいいのよ。出立は明日、道中では黄巾党との遭遇戦も予想されるから、ある程度臨戦態勢を維持していく事になるわ」
「ふむ、実戦の可能性大いにあり、か。この歳になって、しかも二度目の初陣とはな。わからんものだ」
「まあ、相手がしょぼいんが難点やけど、せいぜい派手に蹴散らしたり」
「さて、な。そう上手くいくかどうか」

 実戦は久々、そして最後に経験した戦は盛大な負け戦。個人の武威ならともかく、軍を率いてどうなるか。そんなに無闇に強気にはなれない帝辛である。

「ま、ウチもおるし、優秀な軍師である賈文和大先生もおるからな。なんかあってもウチらが取り返したるさかい、あんまり気にせんとき」
「そうですよ。それに、霞さんに詠ちゃんが先生になって文武共に学んでいますから、きっと大丈夫ですよ。ね、詠ちゃん?」
「ちょっと月、何でボクまでこいつを励ますような真似をしなきゃいけないのよ」

 話を振られた詠は、なにやら不服そうな顔をしてはいたけれど。

「じぃ……」
「うっ……。わかった、わかったからそんな目で見ないでよ、月」

 と、月の無言の圧力に比較的あっさりと屈した。

「う〜、ま、まあ……確かに及第点を与えるに吝かではないわよ……」
「そらそうや、あれであかんいうたら、ウチなんか落第やで?」
「ふむ……。まだまだ至らぬとあれば、これは賈駆にきちんと認められるように奮闘せねばならんな」

 ニヤニヤと擬音がつきそうな声で霞。帝辛もからかいの色を見せて大げさに気合を入れてみせる。

「えへへ、ほら詠ちゃん、帝辛さんが詠ちゃんのために頑張ってくれるって。それならきっと大丈夫だね」
「んななっ!? なにを言ってるのよ月っ!」

 便乗したのか、はたまた天然なのか。聞き様によってはからかいにも聞こえる月の言葉に動揺する詠。
 帝辛、それと月に対して複雑な心境を抱くようになりつつある詠にとって、帝辛に関する月の言動は地雷満載である。帝辛が来てから、そして接する機会が増えてから変わりつつある月。帝辛にそのつもりはないだろうが、月は帝辛によって確実に変わって、変えられている。
 嫌なわけでは、ない。駄目なわけでも、もちろんない。むしろ、それは望ましい事で、詠自身、そうなって欲しいと思っていた事だ。
 だが……。

「……ふうっ。……ええそうね、確かに充分に合格点だわ。教師役として間近で見てきたんだもの、今更疑えなんかしないわ。……でも、アンタの才を認めるのと、アンタ自身を認めるのとはまた違うんだからね」

 認められない、認めたくない。その一念が胸のしこりとなり、口からきつい言葉を押し出させるのだ。けれども帝辛は気にした素振りさえ見せず。

「それでいい。気に入ろうが気に入らなかろうが、使えると思うならば、この身を使って見せればいい」

 などと懐の広さを示して見せ、それがまた詠をちくちくと刺激するのだ。

「ッ……。……まあいいわ。アンタが尽くす事で、月に危険が迫る可能性が減るんだもの。だからボクはやる事はきちんとやる。……だから、別にアンタがどうこうってわけじゃない……」

 最後の呟きは、誰の耳に届く事もなく。当然帝辛も気付かずに、己を囲む状況に思いを馳せていた。

「……はは、これは、頼もしいな」

 霞の男前としか言いようのない笑みも、月の信頼も、詠の刺々しい言葉でさえも。同じ目線からの、対等の者に対するモノで。王として君臨し、昏君として見放され。並び立ち共に進む相手を終ぞ持たなかった帝辛にとって、それは未知のものでありながら、不快なものでは決してなかった。

「新鮮な感覚だが……なにやら心地いいな」
「おっ? ちょっといい顔になった見たいやな」
「うむ……。随分と気が晴れた。感謝する」
「へへ、ウチは特になんもしてへんって。ま、どうしてもいうんやったら、戦いになった時にウチに楽させてもらう事で返してぇな」
「応。手持ち無沙汰にしてやろうぞ」
「あ〜、あんまり暇すぎるのも嫌やねんけどな?」



「ふふ、二人とも楽しそう。帝辛さんも、もう大丈夫そうだね、詠ちゃん」
「………」
「詠ちゃん……?」
「……そうね。……不安に思ったって、仕方がないわ」
「うん、きっと私たちなら大丈夫だよ」

 明日に光明を見出して月が笑い。その笑顔を見ても、詠の内心の影は、晴れる事はなかった。





 そして、出立の日。
 大将――形式的なものであるが――を月、軍師に詠。実質的な将軍として霞、その副将として、客将という立場で用いられている帝辛がつき、兵力は約四千五百。それに輜重隊が付き従っている。

「七十万には遠く及ばへんけど、まあそこは勘弁してな」
「冗談、素性不明の不審人物が預かるには過ぎた数よ」
「素性かぁ。今はまだええやろけど……これからはちょっと考えなあかんなぁ。地方に隠遁してたけど、乱世の気配を憂いて出てきた……とかどないや?」
「……如何にも過ぎてどうかと思うが……。まあ、追々考えるとしよう」

 などと二人が談笑していると。

「ちょっと、そこの二人。いざ出陣ってところなんだから、もうちょっとしゃきっとしなさいよね。示しがつかないわよ」
「なに、ウチの部下がこんなもんでダレるかいな」

 ふふん、と自慢げに笑う霞の後ろに居並ぶは、彼女が手塩にかけて育てた精兵千五百。丁原から貸し与えられていた兵を返上したので、霞の配下の兵力はこれだけだが、実質的にこれが董卓軍の主力である。
 その他、月たち直下の兵三千は、再編から間もない事もあり比較的錬度に劣るため、霞配下の兵にはやはり見劣りするのだ。

「この待ち時間を見るだけでも錬度の違いが見て取れるわね……。先は長いわ……。とにかく、霞。頼むわよ」

 そう言い残して、詠は忙しそうに歩み去る。実質的に総合指揮を執っているのは彼女であるだけに、やはり忙しいのだろう。

「ふむ……。まあ、今回の行軍を訓練の一環と考えればよかろうな。戦闘の有無はともかく、実際の軍事行動であるのは間違いないのだからな」
「せやな。月たちには悪いけど、ちょっとした規模の遭遇戦なら起きてくれた方がありがたいなぁ。実戦経験が何よりの財産やさかい」

 まさしく、とばかりに頷いて同意する帝辛。
 そんな風に結局変わらずにあれこれ話しているうちに。

「お、出発の銅鑼やな。では……。――全軍、聞け! 我らはこれより并州は太原まで移動する! その道のり、黄巾の賊徒と出くわす可能性は大きい! 到着までに、董仲穎の名と身体を傷つけるようなヘマするんやないで!?」
『オォオオオオオオオ!!!』

「ええ返事や! ほな……出陣!」

 そして号令一喝。錬度の高い霞の精兵はもとより、それに引き摺られたかのように、その他の兵たちもいつも以上の動きを見せている。

「ほお……。大したものだな。私が指揮してみた時とは比べ物にならん」
「そらまあな、ウチはバリバリの現役やし、辛はまだ日が浅いからなあ」

(……とはいえ……それにしてはかなりの指揮能力や思うんやけど、な。いっそ異様なほどに……)

「ん? どうした?」
「いや、なんでもあらへん。ほれ、ウチらも遅れんように行くで」
「うむ。……ではいくか」

 ぽくりと一蹴り馬にくれ、一足先に進みだした霞の後に続く。
 目指すは并州、太原。彼らの歴史の本番が始まる場所。





「ふむ……。おぼろげにだが、見覚えのある風景のような気がするな」

 洛陽を進発してから二十日あまり。道程も半ば以上を過ぎ、既に并州に入っていた。
 ここに至るまでに大きな戦闘はなく、また遠めに黄巾党と見られる集団を発見しても、総数五千を大きく超える軍勢を見て、あっという間に逃げていくばかりだった。

「へぇ……。千年経ってもわかるもんなんやな」
「うむ……。しかし、やはり変わらんのは自然ばかりよ。あの頃よりもかなり拓かれておるし、そも当時はこの近辺が勢力圏の北限であったからな。これより北は異民族……匈奴の地であった」
「匈奴かぁ……。やっぱ五胡の連中は今も昔もなかなか相容れへんもんなんやなぁ」
「……ふむ」

(……確かに、羌族や匈奴といった異民族は脅威であるが……■■■は……周は姜族の協力を得てよく戦った。それを考えれば……)

「ん? どないしたん?」
「む。……なんでもない」

(……はて、誰かの事を思い出していたような……?)

 つい先程の事なのに判然としない記憶に、内心首を傾げる帝辛ではあったが。

「斥候より報告!」
「! どないした!?」

 息せき切って馬を寄せてきた連絡兵と、それに応じた霞の緊張感のある声に懐かしいものを感じ取り、その疑問を放り投げた。
 ――戦の匂いだ。

「前方十五里の位置に黄巾党の集団を発見! その数およそ四千!」
「ほお……?」

 連絡兵の報告を聞いた帝辛が声を漏らす。
 これまで遭遇してきた集団の中でもダントツに大規模である。

「これは……もはやれっきとした軍勢だな」
「せやなぁ……こらあんまりなめてかかるとあかんかも知れへんな。――帝辛!」
「うむ……。急ぎ本陣へ行こう。まだ向こうは気付いていないようだが、こちらの態勢が整う前に逃げられても向かってこられてもつまらん」

 言うが早いか、二人は配下に臨戦態勢に移行する事を下命し、月と詠の待つ本陣へと急ぐ。



 到着してみれば、既に本陣にも伝令は来ていたのだろう、月の乗る馬車を近衛兵が取り囲むように護衛していた。

「おう、軍師殿。素早い対応だな」
「ふんっ、当然ね」

 その指示を出したのだろう詠。その言はまさしくそのとおり。彼女が、賈文和が、よきせぬ兵力の軍勢と接近したからといって、月を守る手立てを執れない訳がない。

「――それより、月の本隊と輜重隊の護衛に兵を割いたから、今回使える兵数は三千よ。そして……子受」
「うん?」

 その表情には、迷いがないわけではない。それでも、何かを決断した、そんな顔。

「本来なら、こんな危ない橋は渡るべきじゃないんだけど……。今は核となる将が、その実力を信用できる将が必要なのよ。あの黄巾党の規模を見たら、尚更ね」

 あれだけの軍勢が繰り出せるほどに、黄巾党の勢力は拡大しているのだ。
 今後、もしこの黄巾の乱が終息しても、後漢王朝の零落はより一層進むだろう。事によっては乱世に突入するかもしれない。
 そうなった時、自分たちの手元にどれだけの力があるか? その力は、月を守るに足りるか?
 霞は当てに出来ない。彼女はあくまで丁原から貸し与えられた客将。張文遠が抜けた時に出来るだろう巨大な穴、それを埋め得る大きな才が欲しい。
 そして、その原石が、今掌中にある。
 刺々しくて、じくじくと痛みを与えてくるけれど、それでも稀有な輝きを見せるだろう、原石。

 認めたくないけれど――認めざるを得ないだろう。だから、切っ掛けが欲しい。

 故に。隔意を今だけは打ち払った表情で、告げる。



「この一戦を……アンタの試験にするわ。兵数三千を以ってあの黄巾党を打ち破り、ボクの信用を勝ち取って見せる事。それが課題よ」





 そして、帝辛は兵三千を率い、将として進軍していた。傍らに併走する霞は、酷く楽しそうにニコニコしている。

「いやあ、賈駆っちも面白い事考えたなぁ。認めつつも認めたくない自分を、眼前の現実で認めさせようっちゅうわけやな」
「うむ。しかし、これは下手な答えは出せぬなぁ。消耗なく、かつ敵を確実に打ち破らねばならぬ。いや、嫌われているとはいえ、なかなかに厳しい課題を出してくれる」

 そういって帝辛は苦笑する。
 そう、確かに大事な初陣だからといって、大事に行き過ぎれば敵を取り逃がし、場合によっては并州の民からの信頼にも影響しかねない。
 かといって、撃破を優先しすぎてこちらの被害が大きくなりすぎれば、これも今後の統治に悪影響を与えるのは確実である。
 まさしく完璧を求められているようなものだ。

「まあ、賈駆っちはなかなかフクザツな心境っぽいからなぁ。自分を納得させるだけの強い理由が欲しいんやろ。――ま、ここは男を見せんとアカンなっ」
「気楽に言ってくれる……。だがまあ、やってみせようか。――諸君!!!」

 白髪の老人が出したとはとても思えぬ大声は、進軍中の兵士全ての耳に届くような。
 いや、聞こえていなくても届いているだろう。不思議と耳を傾けてしまう、そんな魅力が声にはあった。

「私はこの一戦が久々の戦となる。しかも見てのとおりの老骨よ。ならば諸君、若々しい諸君。この老い耄れに、遅れを取るまじいぞ! かの有象無象如き、見事蹴散らしてくれようぞ!」
『おぉおおおおおおおおおお!!!!!』

 号令と、それに応える雄叫び、雄叫び、雄叫び! 遅まきながら接近に気付いた黄巾党軍が動揺するのが、霞の目に見て取れる。

「ハッ! これなかなかどうしてやるやないか! おっしゃ! 総員陣形を突撃陣に編成! 打ち破るで!」
「ふっ、頼もしい臨時軍師殿よ! いくぞ、突撃ぃいいい!!!」



 黄巾党の軍勢はおよそ四千、その全てが歩兵である。
 対して董卓軍。投入された兵力は張遼旗下の千五百と、董卓旗下の千五百の計三千。内騎兵はおよそ五百を数える。
 騎兵の存在により、兵数差はないに等しく、錬度も董卓旗下の兵が今一つであるとはいえ、それでも正規兵である。その差は歴然としており、そしてなにより、兵を率いる将、その格が――否、世界が違っていた。

「我が名は子受! 有象無象の若造共、その性根叩き直してくれよう!」
「アンタに叩かれたらそらふつーに死んでまうやん……、こほん。――我こそは張文遠なるぞ! この紺碧の張旗! 恐れぬのならばかかって来ぃ!」

 定石破りの大将一騎駆け、常識的に考えれば無謀極まりないが、しかし相手は弱卒ばかり。それなら驍将を以って敵を蹴散らし、味方の鼓舞につなげるもよし。そう二人で判断しての事である。
 現に、二人揃いの偃月刀が唸りをあげるたびに黄巾党の兵士たちはばったばったと薙ぎ倒され、草叢を掻き分けて走るが如し。黄巾党の士気は見る間に萎え衰え、逆に董卓軍の士気は鰻上りである。

「そら、どうしたヒヨッコ共! こんな老骨の後について回るしか出来んのか!? 切って見せよ射って見せよ討って見せよ!」

 そう急きたてられて奮戦しないわけにも行かず。もちろん、帝辛に霞には遠く及びもしないながらも、董卓軍の面々は持てる力を出し切り、かつそれ以上を発揮して見せた。
 そして将、即ち帝辛と霞であるが、なんというかもうずっと二人のターン。彼ら二人を足止めできるような武威を持つ者は、少なくともこの場の黄巾党にはおらず、無人の野を行くが如しであり。
 将兵共に圧倒した董卓軍は、結局見事に黄巾党四千を木っ端微塵に壊滅せしめ、内数百名を捕虜にしたのであった。





「やれやれ……久々の実戦に直後の筆仕事、この老体にはなかなかに堪える」

 負傷した兵の治療や遺体の処理、部隊の再編といった後処理が一段落着いた頃には、陽は落ち始めており。軍師である詠から、戦場から少し離れた辺りで軍を止め、野営を張ると通達が来た。
 先の戦闘で将を務めた帝辛は、当然後処理に奔走しており、つい先程蹴りがつき、与えられた天幕で杯を片手に休んでいるところである。

「だが、懐かしく……滾るような時であったな……。この気性、今度も滅びの引き金となるか……。まあ、そうやすやすと同じ轍は踏むつもりはないが」

 面白がるようにククと笑って杯を干す。

「さて……一人酒も悪くはないが、些か雅に欠ける。此処は一つ華が欲しいところだな」

 独り言、というには大きく、呼びかけるような声。果たして、天幕に影がさしたかと思うとひょいと霞が顔を覗かせた。どうやら少し前から天幕の前にいたらしい。

「なんや、気付いてたんならもっと早く声かけてくれればええやん」
「なに、いつもの霞なら呼ばずとも入ってくると思っていたからな。なにやら迷っているようだったから声を掛けたのだが」
「あ〜、そらなぁ……」

 そう言葉を濁す霞の顔は、ほんのりと赤い。
 彼女自身酒が入っているという事もあるが、なにより天幕の外にまで漏れ出している、帝辛の冷め遣らぬ昂ぶりの気配に中てられているのだ。

「いや、なんちゅうか、飛んで火にいる夏の虫っちゅうか……」
「? ……ああ、成る程。すまぬな、いい歳をしてなかなかに治まらぬ」

 ごにょごにょとつぶやく霞の様子で気付いたのだろう、ぴしゃりと顔を一叩きして気持ちを切り替える。

「あ〜、少しマシになったわ。いや、なんちゅうかあんな強烈なオスの気配は初めてやったからなぁ」
「まあ、そのケが強いのは自覚しているが、今回ばかりは勘弁してもらいたい。久し振りだったのでな。今後は自制も効こう」
「せやね、そうしてくれるとありがたいわ……。……ウチと互角か、ひょっとしたらそれ以上の強さで、男ぶりもええわけやし……せやけど年齢差が……
「? 何か言ったか?」
「へ!? や、いや、なんでもあらへん!」
「ふむ? ならばいいが。……ところで、せっかく来たのだから、呑んでいくのだろう?」

 そういって帝辛は手にした大きな徳利をちゃぷりと揺らしてみせる。

「お、おお……ええな! ウチも最初はそのつもりやったしな! 呑も呑も!」

 未だ動揺状態が引ききらない霞にとって、酔いで誤魔化してしまえるというのは渡りに船。もともと呑むつもりでもいたのでこれ幸いと誘いに乗った。

「ほな……初戦の戦勝を祝って、やな?」
「うむ。乾杯」
「カンパーイ!」

 ………………。

 ………………………。



「ふぅ……。酔い潰れたか」

 呑み始めてから半時辰も経った頃。
 コトリと杯を置いた帝辛と向かい合う位置では、霞が特大の徳利を抱きしめたまま舟をこいでいた。
 普段の霞ならばこうも簡単に酔い潰れたりはしないのだが……自身の動揺を押し隠すために少々無茶な呑み方をしたためのこの有様であった。

「ん……にゅう……」
「むう……」

 顔を朱に染め、衣服を乱して眠る霞は、それはそれは艶かしい姿で、はっきり言って目に毒である。それも甘い毒。
 手を出したくなるほどに魅力的ではあるが、出してかつての二の舞を演ずるのが怖いし、何より今は帝辛に「その気」はなかった。

「やれやれ……この娘は自分の魅力を自覚していないのか……」

 杯を置き、寝具がまとめてあるところから羽織りを一枚引っ張り出して身体にかけてやる。

「さて……このまま此処で寝かせるのは……よくないだろうな」

 さっきまでは酔っ払っていたからいいものの、素面になって目が覚めたらどうなる事やら。そしてそれが詠の耳に入りでもしたら、今日の課題を攻略した事もふいになってしまうかもしれない。流石にそれは面白くない。
 それを考えると、霞の天幕まで連れ帰ってやるのがいいだろうか。

 結局それがよかろうと結論し、帝辛は天幕の外に人を呼びに出る。自分で連れ帰ってもいいのだが、出来るならば女性に運ばせた方がいいだろうと思ったからだ。

「む……?」
「あら」
「あ、帝辛さん……ちょうどよかった」

 折りよくというか、天幕の外に出ると月と詠の二人が護衛と一緒に連れ立って、やってきていた。

「これは仲穎様。夜分お疲れ様です。拙に御用ですか」

 護衛の目もあるので公の振る舞いで応対する帝辛。首脳陣と親しい事は以前から知れているし、戦での実力も示しはしたものの、未だ帝辛は新参の類といえる。今更感はないわけではないが、出来る範囲で分をわきまえる必要は、あった。

「はい、お疲れ様です。えっと……用があるのは詠ちゃんの方なんだけど……どうかしたんですか?」
「いえ。先ほどまで霞……文遠殿と酒を飲んでいたのですが、酔い潰れてしまわれたので人を呼ぼうかと」
「霞がッ?」

 帝辛が答えるや、慌てて詠が帝辛の天幕に駆け込んでいく。

「うわっ酒臭ッ! ってそれよりも霞!」

 中からそんな声が聞こえ、そしてガタゴトガサゴソ……そして。

「ちょ、重ッ……ってムキュッ!?」
「………」
「………」
「……潰れたか」
「……みたいですね」

 文官で、しかも小柄な詠が、背丈もそれなりにあり、しかも鍛えられた肉体を持つ霞を動かそうというのが、そも無理な話だった、というわけである。



「というわけで、別に手を出したりなどしていないし、そのつもりもない」
「て、手を……へぅ。……うぅ、でも確かにそんな様子はありませんでしたよね」

 なにやら想像を逞しくしたらしい月、顔を赤く染めつつも帝辛の発言を支持する。
 何故ならば。

(じとぉ〜)

 なんと言うか半眼で、如何にもボクは疑ってますと言いたげに帝辛の事を見ているのだ。

「……まあ、霞を連れてった女官が言うには何事もなかったらしいけど……」
「詠ちゃん。往生際が悪いよ?」
「うっ……」

 なおも疑おうとする詠に、月がやや強く窘めのニュアンスで声を掛ける。
 詠が内心の不満を押し殺して、帝辛の事を認め始めようとしている事に、月は当然気付いている。けれどもやはり踏ん切りがつかないところはあるのだろうな、とも察している。
 そんなところに格好の言い訳が転がり込んできてしまったのだから、つい詠がそれに飛びつきたくなるのも、まあ無理はないのかもしれない、が。
 既に帝辛に対してかなり気を許している月にしてみれば、せっかくの機会をみすみす潰させるわけにもいかない。

「さっきだって、帝辛さんは詠ちゃんの出した課題をしっかりこなしたんだよ? 課題を出した詠ちゃんがそれを無視しちゃ駄目だよ」

 正論である。それだけに詠は耳が痛い。
 なにより、肝心の月が帝辛との和解を勧めてくる、という事実が胸に痛い。

「……わかってるわよ。公の視点、公の理由で動くわ。……子受」
「はっ」

 だからその痛みを防ぐために、詠は公的な立場、という鎧を被る。

「先の戦闘での活躍、見事だったわ」
「過分なお言葉を」
「……事実よ。この賈文和が保障するわ」

 この一言、それだけは確かに詠の本心であった。軍事によく通じる詠だからこそ、帝辛の非凡な才及び実力を認めざるを得ない。軍師としての賈文和が認めざるを得ないからこそ、個人としての詠が認めたくない。

 ――自分を差し置いて月に大きな影響を与えたこの男を、認めたくない。でも、肝心の月自身は、既に彼を認めている。

「……故に」

 その内心の葛藤――或いは、嫉妬を飲み下して、一歩を踏み出す。

「子受。先の戦闘と、これまでの言動を鑑み。……正式に武将として取り立てるわ。今後は一層忠勤に励み、ボクの『信用』に応える事。……いいわね?」
「それは……有り難き幸せ。必ずや『信頼』される男となってみせましょう」

 帝辛にしてみれば、随分と可愛らしく見える詠の照れ隠し――彼はそう解釈する事にした――に、ほんの少しのからかいと本音を混ぜて返し。

「んなッ!? ふ、ふんッ、せいぜい頑張る事ね! 月、行くわよ!」
「あ、うん。……えへへ、詠ちゃん、あんな風に言ってますけど、帝辛さんの事結構認めてるんですよ? 男の人だから、ちょっと意地になってますけど……。私は、二人が仲良くなれたら、嬉しいです」
「……そうだな。それは同感だ」

 ひそ、と小声で話しかけてきた月にそう答えると。にこりと満面の笑みを残して詠を追いかけて行った。

「うむ……。厄介事は起きそうだが、まあ」

 一部の例外を除いて公の立場での繋がりばかりだった己の人生、それを思い。

「……願わくば、公私問わぬ、信頼し合える仲間というものを持ってみたいものだ……」

 そんな他愛もない望みを描く帝辛であった。

 

※匈奴、羌族など恋姫無双シリーズに於いて五胡と一括して呼ばれる異民族に関しては、史実・原作双方を鑑みた上で独自の解釈、設定を適応しております
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(c)Ryuya Kose 2005