- k a r e s a n s u i -

昏君†無双

 さあ、と太行山脈の稜線から陽射しが湧き出してくる。

 朝。
 これまで天蓋を覆っていた黄色い砂塵は、今日ばかりは鳴りを潜め。今日という門出の日に相応しい天気となっていた。

 その日の帝辛の目覚めは、非常に清々しいものとなった。
 萎えていた心に火が入り、その熱が身体を動かす。心持ち、皺も薄くなったようにさえ見える。心の在り方一つで、人は如何様にも変われるのだといういい見本である。



 しばらくの間、見違えたように輝いて見える世界を、部屋の窓から眺めていた帝辛だったが。ふと視線をめぐらせた先にある鏡に目が留まった。正確には、そこに写る自分の顔に。

「……む」

 そこに写った顔は、確かに気力に満ちてはいたけれども、同時に長らく放置された無精髭にも満ちていて、なんとも見苦しい。
 再起の新しい朝にこれはよくない。自身の怠慢の象徴でもあるかのようなこの髭は、すぐにでも剃り落とすべきだろう。

 そう、帝辛は考えて。



 ところで。
 王、若しくは皇帝といった存在には、しばしば侍従が大量に付き従う。身辺警護や身の回りの世話などは全て彼らが行う。
 もちろん、髭を剃る、なんて行為も王自らが行う事はなく、侍従らにやってもらうのが普通である。

 という事は、帝辛は髭剃り初挑戦、という事になる。
 そして、長く伸びた髭というものはなかなかに剃るのが難しいもので。素人にとっては尚更だろう。

 髭剃り初体験で、長く伸びた髭を相手に取ればどうなるか。



 初体験×手強い髭=大☆出☆血☆である。





「あっははははははははは!」

 朝食時の事務室に、霞の笑い声が響く。

「いやはや……そう笑ってくれるな、勝手がさっぱりわからなかったのだ、仕方ないだろう」
「だ、ダメですよ霞さん、笑っちゃ……」

 大笑いする霞の前で頭をかく帝辛の顔は、なんというか酷い有様だった。フォローを入れる月の顔も、時折笑いを堪えるようにひくついている。

 水場で人知れず大惨劇を演じていた帝辛は、偶然訪れた女官に発見され、髭を剃りなおされた上で、治療を受けたのだ。
 顔の下半分の至るところに切り傷用の軟膏を塗りたくられ、それが滲んだ血でピンク色に染まっていた。

「まったく、人騒がせなんだから。女官が血まみれの手拭いを持ってきた時は、一体何事かと思ったわよ」
「……面目ない」

 怒り三分呆れ七分の詠には、帝辛も恐縮しきりであった。

「けど、まあ。その歳になって一人で髭も剃れないなんて。変なところで王だったって話に信憑性が出てきたわね」
「……なんとも嫌な信用のされ方だな」

 嘆息する帝辛に、また笑いが湧き起こる。
 なんとも締まらない門出の朝となってしまったが、しかしこの騒動で、帝辛に対しての親近感が強まった、という偶然の産物もあった。
 打ちひしがれた老人でも、王の心持つ漢でもない、なんとも素朴な帝辛の新たな一面が、親しみやすさを感じさせたのだ。



 結局、霞の笑いの衝動が収まったのは、女官が朝食を持ってきてしばらく経った頃だった。

「は〜、笑った笑った。いやあ、悪かったなあ」
「はは……。まあ笑われても仕方のない事であるしな。気にしてはいない」

 苦笑しつつ粥を啜る帝辛。朝食を頼む時に気を利かせた月が、帝辛用にと頼んでおいたものだ。

「へえ……。上品な食べ方をするのね」

 詠が感心したように言う。確かに、帝辛の食事作法は全く以って正しく美しく。塗りなおした軟膏と傷に目を瞑れば十二分、瞑らずとも十分の気品が感じられる。

「せやなぁ。それにこうして落ち着いて見てみると、なんや結構男前やな」
「まあそうね。それに……昨日までは結構なお爺ちゃんに見えたんだけど、今はそれなりに若く見えるわね。気の入りようでこうも変わるもなのね」

 そういう霞の食べっぷりの方がどちらかというと男前なのだが……さておき。
 帝辛は生気を取り戻したからか、顔の印象もずいぶんと変わって見え、肌の張りも戻りつつあるようにさえ見えていた。頭髪と、既に深く刻まれた皺は老いを感じさせるものの、それ以外は若々しいというなんとも奇妙な面立ちとなっていた。

 帝辛は牧野の戦いで心拉がれた後、間近でその顔を見たはずの黄天化でさえ一瞬目を疑うほどに急速に老け込んだが。今回はその逆の事が起こったといえよう。

「うん……。失礼ですけど、帝辛さん、一体お幾つなんですか?」
「ふむ……」

 月の問いに食事の手を止めて考え込む帝辛。
 変な話ではあるが、実際帝辛自身、妲己のテンプテーションに掛かっていた期間の時間感覚が滅茶苦茶で、自分が幾つなのかいまいち判然としていないのだ。

「そう、だな……。時間感覚を失っていた時期もあったから自信はないが……四十を越え五十に満たないのは間違いないな。四十二、三といったところだろう」
「ほ〜。ウチらのおとんたちと同じくらいか。物事を新しく始めるには遅い気もするけど、そこら辺は大丈夫なん?」
「さて、な。頭の回りはそう悪くない自負はあるが、一般常識に地理歴史、経済に兵法。学ぶ事は多いからな」

 帝辛が生きていた時代からは、千年以上もの時が過ぎている。
 新しく生まれた考え方は数多く、帝辛の知る知識も技術も時代遅れになっているものは少なくないだろう。その刷り合わせができなければ、切れる頭脳も持ち腐れである。

「まあ、その辺りはボクが教えるわよ。并州に着くまでにみっちり教え込むから、覚悟してなさい」
「はは……。まあ、期待しておこう」

 そう意気込む詠にも事情はある。
 もともと月と霞に比べ帝辛を信用していない詠であるが。ここ最近の事務仕事の忙しさは、なかなかにのっぴきならないところまで来ていたのだ。
 加えて今後は并州刺史就任による仕事の増加が見込まれている。正直、気に入らない男の手でも借りておきたいというのが本音なのだ。

 対する帝辛も、詠の脅しじみた宣言に怯むところは全くない。
 聞仲による幼少期の超スパルタ教育を経験しているのだから、そうそう怖気づいたりはしないのだ。

「しかし、となると……」

 ふむ、と試すように拳を握っては開き。

「……張文遠殿。そなたは居振る舞いを見るに一級の武人と見受けた。少々、この老骨の鍛錬に付き合ってはくれまいか」





 まだ朝の気配を色濃く残す空気の下。
 張遼の口利きで貸切となった錬兵場で、帝辛は目を閉じて気息を整えていた。

「……不思議なものだ。あれだけ重く疎ましかった肉の身が、今は軽く頼もしく思える」

 身体を入念にほぐし、筋骨に喝を入れる。その動作の一つ一つをこなす度に、身体が、そして心が軽くしなやかになるような思いを感じて、つい漏れた言葉である。
 巡る血潮を感じ、筋の躍動を感ずる。それだけで、心躍るものがあった。

「ふうん……。結構堂に入った動きやな」
「まあ、幾度も繰り返した動きであるしな。しかし、純粋に武を競った事はあまりないのでな。今の身体で果たしてどれほど動けるか……」

 一通り身体をほぐし終わって。借りた棍を手にして型の練習に入り、それが澄んだら今度は剣の型を。
 奇を衒うところのない棒術・剣術は、いずれも聞仲の教えを受けたもの。基本を極限まで磨き上げたような、まさに王道の技である。

「ふんっ! せいっ! はっ!」
「ん〜、なんかうずうずしてきたで! なあなあなあ! それ終わったらウチと手合わせせえへん?」

 見ているうちに我慢ならなくなったのだろう。霞が愛用の偃月刀を模した練習用の剣を手に、目をきらきらと輝かせてせがんできた。

「別に構わないが……あまり期待されても困るぞ?」

 どこか子供じみた霞のせがみ方に、帝辛は思わず苦笑いをこぼした。
 かつて、まだ妲己が現れる前。己の長子たる殷郊に、遊びがてらに武芸の鍛錬を付き合わされた時の記憶が甦ったのだ。
 どこか子供に対する父親のような対応になってしまったが、しかし霞は気付いた様子もない。

「そこはそれ、やってみん事にはわからんやろ。それに、型をなぞるもの確かに大事やけど、やっぱり生きた経験をつむのが一番いい練習になるんと違うか?」
「やれやれ……。そこまで言われてはな。では、一手手合わせ願おう」
「ぃよっしゃあ! ほなすぐやろ、ウチはいつでもええで!」

 結局熱意に押された帝辛は、苦笑したまま手合わせを承諾し。霞は歓声一つ、すぐさま構えて帝辛を待つ。

「そう急くな……。まずは軽く打ち込んでみるから、捌き続けてくれるか。実戦形式はその後で頼む」
「いいで、どんと打ち込んでみい!」
「ならば」

 ゆっくりと練習用の剣を構えて……まずは唐竹に打ち下ろし。霞に捌かれた剣は、そのまま円の軌跡を描いて下から上へ、そして今度は袈裟斬りの一閃に変わる。そして袈裟斬りは右薙ぎへと。
 そのまま突きまで基本の打ち込み九種を順繰りに繰り出して。それが終わると、今度は同じ事を速度を上げて繰り返す。

「へえ、さっき見とって思ったけど、やっぱ基本どおりの剣やな」
「まあ、そのように仕込まれたからな。本来ならば、ただの教科書どおりと思うな、と啖呵も切れようものだが……さて、本番と行こう」

 十二分に身体がほぐれ、温まった帝辛が切り出して。互いにひゅん、と剣を一閃し構えあう。
 今度は互いに打ち込みあう実戦形式の手合わせである。短い時間ではあるが、帝辛の剣を見た霞は、油断せずに下段に構え。自身の身体の動きを確認した帝辛は正眼に構える。

 そして。

「勢ッ!」
「破ッ!」

 ガンッ、と音を立てて帝辛の袈裟斬りと霞の右斬り上げがぶつかり合う!

(――速い!)
(――重い!)

 帝辛は、霞の想像以上の剣速に。霞は帝辛の予想以上の膂力にそれぞれ内心で声を漏らす。
 一撃の威力と鍔迫り合いでは不利になると判断した霞は、即座に剣を受け流し、連続攻撃に切り替える。

「そらっ、そりゃ、そりゃあ!」

 石突をも利用した、息つく暇もない打ち下ろし、薙ぎ、突き! いずれも有効打にはならないが、帝辛に攻撃に移る暇を与えない。
 しかし帝辛もさるもの。最初の数撃こそ危なっかしかったものの、速度に慣れてからはそれなりに危なげなく攻撃を防ぎ始める。そればかりか、時折膂力の差を活かして隙を無理やり作り出し、そして反撃を放っている。

 速さは霞が勝り、技術も帝辛にブランクがある事もあって、霞が優越している。そして膂力は帝辛が勝っている。
 総じて不利な帝辛であるが、久々に味わう身体を動かす事への喜びと、骨身に染み込んだ聞仲の手ほどきが、徐々にキレを増していく霞の攻撃に食らいつかせてくれていた。

 とはいえ。

「どうしたッ、動きが鈍くなってきとるで!?」
「ふ、んっ。そういうならば老骨をもっと労わらぬか!」

 やはり空白の期間は大きく。勘を取り戻し、腕の錆つきが落ちていくのとは裏腹に、帝辛の体力は不安なところを覗かせ始めていた。

(やはり日々の鍛錬こそ宝、か。しかし聞仲、お前の教えのお陰で、私はまだ立っていられるぞ……)

「……ふんッ!」
「くっ!?」

 脳裏に描く、父のようであり師父でもあった、偉大な男の背中。疲れを覚え始めた身体に鞭打って、帝辛はその背に届けとばかりに、渾身の斬り上げで霞の打ち下ろしを弾き飛ばす。姿勢を崩され踏鞴を踏んだ霞は、すぐに立て直すが。その隙を逃すほど、帝辛も耄碌してはいなかった。

「おぉおぅりゃあッ!!!」

 大上段に掲げた剣に、渾身の力を籠めたその一撃は、今までのものとは明らかに異なる、今の帝辛の最強の一撃!

「のわああっ!?」

 どずん、と派手な音を立てて。振り抜かれた剣は、いなす事さえ諦めて回避した霞の髪の毛を幾筋か巻き添えにして、錬兵場の地面に叩き込まれた。

「うわっ!?」

 どおっ、と土煙が巻き起こり、土砂が飛び散る。

 ――かつて、禁城にて黄天化と一騎討ちをした際。
 帝辛は踏ん張りの利かない中空にあって、なお石畳を砕くほどの威力を持つ一撃を放ってみせた事があるが、今の一撃はそれを思わせるものだった。

「……ふう」
「やれやれ……」

 攻撃の余韻と共に、周囲に満ちる張り詰めた空気が途切れたのを感じて、霞は戦闘態勢を解いた。土煙の中から現れた帝辛も、覇気を収めている。

「いや〜、さっきのはすっさまじい一撃やったなぁ」
「そうはいうがな。これで仕留められなかったなら後が続かないのでな。避けられた時点で私の負けだ。まったく大した速さよな」

 お互いの実力を肌で感じ、それを褒めあう二人。帝辛の確かな実力を目にする事が出来た霞は、喜色満面で嬉しそうだ。帝辛も疲れた顔をしてはいるものの、久々に満足のいく戦いが出来て、清々しい表情をしている。

「いやしかし……すまない。備品を壊してしまった」
「ありゃ、ぽっきりいっとるやないか」

 霞のいうとおり、帝辛が掲げて見せた練習用の剣は、その刀身が半ばから折れ飛んでしまっていた。最後のあの一撃で、剣の方が威力に耐え切れずに折れてしまったのだ。
 一般兵用の安価な剣の刃を潰した代物ではあるが、それを自らの力のみで損壊に至らしめたのは、その力に満足すればいいのか、斬りつけ方の拙さを自嘲すればいいのか、帝辛は苦笑い。

「う〜ん……まだし足りないねんけど、これやと続けてもまた同じ事になりそうやなぁ。まあ切り上げるにはちょうどいい出来事かも知れへんけど」
「……そういえば、同じ事にならずに済む方法があったな」

 残念そうな霞の言葉に、ふと帝辛の脳裏に浮かぶものがあった。
 だがしかし、今の自分に出来るだろうか?

「……まあ、やってみない事にはわからぬか」
「? なんの事や?」
「なに、ひょっとしたら面白いものを見せられるかもしれないと思ってな」

 そう不敵に笑い、帝辛は半ばで折れ飛んだ剣を振って見せた。



「………」
「……うむ、こればかりは徹底的に叩き込まれたとはいえ、研鑽が足りない今ではこの程度か」
「この程度、って……」

 呆然とする霞と、それなりに満足げな帝辛。その二人の前には、一般兵用の胴鎧をくくりつけられた木人が突き立っている。
 そしてその胴鎧は、鳩尾の辺りにくっきりと打撃痕が残されていた。

「今のは……なんなんや?」
「ふむ……」

 つ、と視線をあらぬ方向に向ける帝辛。その足元には、踏み込みの際に出来たであろう足跡がくっきりと残っている。しかし、奇妙な事にその位置で足を踏み込んだ場合、帝辛の得物であった折れた剣では、標的である木人は間合いの外にあるので攻撃は届かないはずなのだ。

「【焔消し】……。棒術における極意として教えられたものだが、見てのとおり剣でも使える妙技でな。功夫の足りない現状ではこの程度の威力だが、鍛えなおせばこの程度で済むものではあるまい」
「はあ〜……、そらなんとも凄い技やないか! 鍛錬しなおせば、きっとウチとは互角以上に戦えるやろうし、いやいやいや、なんやおもろなって来たで! なあなあなあ、それ、ウチにも教えてくれへん!?」

 帝辛とのこの手合わせは、どうやら霞にとってかなりの刺激となったらしい。彼自身の武威もさる事ながら、特にその最後に見せた【焔消し】の妙技は、どうやら霞の心を掴んだようだ。目を輝かせて帝辛に指導を頼んでくる。

 頼まれた方の帝辛はといえば、今はやや錆付いているとはいえ腕前的には申し分なく、加えていえば、美人の霞から頼まれて悪い気はしない。
 更にいうなら、自分にとっての功夫にもなるので一石二鳥、とも考えられる。
 となれば、帝辛に否はなかった。

「私は厳しい師の下で学んだのでな、教え方もそれしか知らない。それでも構わないか?」
「かまへんって、そんな事で強くなれるんやったら安すぎるくらいやで!」

 まあ実際のところ、極意とも奥義ともいわれる技なので、そう簡単に習得できるものではないのだが。血気盛んな霞を見て、聞仲もこんな気持ちだったのだろうかと、帝辛は思った。



 鍛錬でかいた汗を流して、帝辛は霞と一緒に賈駆の待つ書庫へと向かっていた。身体を動かした次は、頭を使った訓練、というわけである。

「来たわね。……あら、霞も一緒なの?」

 教科書代わりにする本を選んでいたのだろう詠は、意外な来客に目を丸くする。

「ああ、ついさっきまで訓練しとったからな、ついでなんでウチもついて来たんやけど、なんや不味かったか?」
「そんな事はないわ。むしろ軍事面での講義には、神速の張文遠将軍が同席してた方がいいでしょうしね」

 詠は自分の軍師としての能力に自身を持っているけれど、それでも現場最前線に立つ将軍の言葉も重要である事は理解していた。
 いささか現場の都合より作戦や陣形を優先させる嫌いのある詠ではあったが、唯一といっていい優秀な将軍である霞の機嫌を損ねるような真似は出来ようはずもない、という事情も、裏にはあったりしたのだが。

 閑話休題。

「せやなあ、兵としては今の段階でも一級やし、鍛錬しなおせば超一級やろ? これで将としても優秀なんやったらどないな事になるんやろな? 楽しみで仕方ないわ」

 割と手放しといっていい霞の賞賛に、詠が意外そうな表情になった。

「へえ? そんなに大したものなの?」
「そらもう! 昨日までろくすっぽ動いてなかったのに、ウチに食らいついてこれるくらいやからな。地面に大穴開けるくらいの力もあるし、鍛錬しなおしたら、大したなんて言葉じゃ収まらへんで!」
「っと、お褒めに預かり光栄だが、あまり叩かないでくれ」

 ニコニコ顔の霞はバシバシと帝辛の背を叩く。
 帝辛も、困り顔ではあるが満更ではないらしく、また霞の言葉を否定する素振りもない。それだけの事は出来る、との自信があるのだろう。

「ふ〜ん。まあそこまで言うなら、兵としては期待させてもらうわよ。ボクたちの純粋な手勢は、連携の取れた精兵だけど、強兵に欠けてるからね。重宝させてもらうわ」

 霞が入っただけでも僥倖であるのに、思わぬ拾い物をした格好の詠は嬉しげだ。丁原の部下である霞は、ゆくゆくは離脱する可能性が濃厚であるだけに、強兵の加入は願ってもない幸運である。

「これで将としても使えたらいう事ないんだけどね。そっちも期待していいのかしら?」

 そう問われると、今度は帝辛は困ったような顔をした。

「さて……。軍を率いた事は一度しかない上に、その時は正体を失っていたのでな。結果も、惨敗であったし。個人の武技と違って、こちらはあまり自信を持てんな」

 まあ国王自身が出撃しなければならないような事態がそうそうあっても困るが、帝辛が自ら軍を率いて出撃したのは牧野の戦いの一度きりで、しかも自ら軍を率いて、という件には盛大な疑問符がつく。これではそうそう自身を持てるはずもない。

「ふぅん……。ま、そこをどうにか鍛えるのがボクの仕事、腕の見せ所ってわけね」
「せやな。ウチとしては、帝辛と二人で董卓軍の左右将軍、とかできたら面白そうやし。二人とも頑張ってな」
「はは……。まあ、頑張って見せよう」



 そして始まる勉強会。講師たる詠は、まずは一般的な知識から教えにかかる。

「まずは、この国の歴史からよ」

 まず。夏、殷(商)、周、秦と移り変わってきた王朝が、今は漢王朝である事。
 殷に替わった周王朝は、およそ四百年ほどで滅びた事。その次の秦の時代に、中華全土が統一された事。それを成し遂げた秦でさえも、その統一を維持できたのは僅か十数年であった事……。

 己の死の後の歴史の流れ。本来知る事のなかったはずのその事実は、帝辛の心をいたく打った。

「そう、か……。あの武王の国でさえ滅び……中華を制覇した秦とやらでさえ……」

 特に、武王、周公旦、呂邑羌といった卓越した人物たちが築いた国家、周。■■■もしくは■■という大きな存在もあっただろうに、それでも殷よりも短い間で滅びてしまったという歴史的事実は、計り知れないほどの衝撃を与えたのだ。

「全てのものは儚く、ただ大地とそこに生きる人のみがあるだけ、か……。得がたい悟りを得たものだな」

 しばし呆然とはしたものの。それで悟りを得たというか、割り切る事ができたのは、やはり一度自身が「終わってしまった」からなのだろうか。

「あ〜……。まあその感覚はアンタにしかわからんのやろなぁ」
「そう、ね。もし真実だったなら、っていう注釈はつくけど」

 一方で。
 死後に自分の生前の評価を知る、自身のなした事を見る、後世の歴史を学ぶ。さすがの文武の女傑二人も、そんな超常の出来事については話しかける言葉を持たなかった。

「……でも、こうして立った以上、それくらいの事は飲み干してくれなきゃ困るんだけどね」
「そうやで? 歴史がどうあろうと、それを紡ぐのはその時に生きる人、つまりウチらであり帝辛でもあるんや。囚われ過ぎたらあかんで?」

 とはいえ、そこは賈文和に張文遠、本質を見誤ったりはしなかった。

「はは……いやすまんな。感慨深いものがあっただけの事だ。続けてくれ」

 そしてそれは帝辛自身もわかっていた事。僅かの間、空の彼方を僅か見やって思いを馳せ。すぐに話の続きを促した。

「コホン……。えっと。今の漢王朝……正確には後漢王朝だけど、今は衰退と腐敗を極めつつあるわ。皇帝の権力は形骸化し、宦官が権勢を振るい、賄賂と汚職が蔓延し、地方では無法がまかり通る。そして上がそんなだから、被支配階層である民衆の生活は……まあ、悲惨な状況ね」

 敢えて淡々と語った詠ではあるが、噛み締められた唇がその内心を雄弁に語る。
 重税による困窮は極まりなく、身売りに姥捨ては珍しいものではなく。どうにもならなくなった者たちが匪賊夜盗に身をやつし。

「ま、そんな状況やし、ある意味じゃあ当然の流れなのかもしれんなあ、アイツらが沸いて出てきよったのって」

 そう霞が忌々しげに言うあいつら。即ち、黄巾党である。

「多くの人が知る黄巾党だけど、その実態は実のところほとんどわかっていないのよね。民間の宗教指導者が裏にいるとも、ただの烏合の衆だとも。美女の取り巻きが暴走しているだけだ、なんて話まで」
「せやけど、もはや弱体化した王朝、官軍の手に負えないところまで来ているのは確かや。当面のウチらの敵はこいつらって事になるなぁ」
「ふむ……。思うところはないではないが、天下の騒乱となっているのならば鎮圧するが筋だな。しかし……これは易姓革命の呼び水になりかねんな」
「……あんたがいうと本当にそうなりそうで怖いわ」

 かつて自身が経験した、西岐の姫氏による易姓革命。それと今回の黄巾党とでは、異なる点は数多いが。
 それでも、末期(としか思えない)の国における蜂起が、なにも引き起こさないなど、帝辛には思えなかったのだ。

「まあ、なにが起きるにせよ、知るべき事、学ぶべき事を修めていなければなにもできぬからな。引き続き頼む」
「そうね。転ばぬ先の杖は必要だものね。特にアンタみたいな年寄りには」
「フッ……言ってくれる。杖の質が悪ければ折れて転んでしまうかも知れないのだぞ?」
「賈駆っちがそんな杜撰な仕事するわけないやろ。嫌いやなんやといいつつ、結局いい仕事しとるもんな」
「当然よ。この賈文和の仕事をなめないで欲しいわね。いくら好かない相手でも、やる事はきちんとやるわ」

 ふむんっ、と鼻息も荒く宣言して授業は再開。軍事経済言語に技術習俗算術などなど、千年の間の変化を少しずつ伝えていく。そして軍略面となると神速将軍張文遠も参加しての講義となる。

 さすがに知らないものはわからずできずではあるが、それでも一度理解すれば利用応用は非常に早く、才媛たる詠も舌を巻くほどであった。

「凄い理解力ね……。要点を抑えるのも上手いし、噛み砕いて自分の言葉にもできる……。筆記も速いし、古い考え方から脱却できれば即戦力だわ」
「王とは即ち最も権力を持ち、最も責任を負う人物であるからな。処理する書類も必然的に多くなるし、素早く処理せねば国政が滞る。理解力と発想力は必須というものだからな」
「はあ……今までで一番説得力があるわね。間違いなくあんたは優秀よ、全く……どこが昏君なのよ、とんだ英君じゃない」
「ついでに言えば殷随一の驍将でもあったとなればなあ……なんや反則みたいやな」

 史書も信用ならないわね、と溜息を吐いて詠と霞。

「それは当然だ。歴史は勝者が紡ぐもの、敗者はどう描かれようが抗弁できない立場にいる。それが死者であるのならば尚更だ。私の行為が愚かであったのも、事実であるし、な」
「割り切れてるのね」
「一度死ねば文和殿にもできるだろうな」
「アンタねえ……。それじゃあ聞くけど、伝説とか歴史書だと、アンタは随分な好色として描かれる事が多かったみたいだけど、それも事実だったのかしら?」
「あ、それはウチも気になるわ」
「むっ……」

 これには帝辛も言葉に詰まる。否定できる要素が全くない上に、詰問してくる相手が帝辛にとって年端もいかないような少女であるからだ。少女の純真さがちくちくと刺さるのである。

「いや……まあ、恥ずかしい話ではあるが、概ね、まあ、な」
「呆れた……。言っとくけど、月に手を出したら……。わかってるでしょうね?」
「うっ……わ、わかっている。身を滅ぼした遠因であるしな、自重はするとも」

 妙に気迫のある詠に圧されて、帝辛はたじたじで首肯する。霞も何気にすすすーっと距離を取っている。
 老いた事に加えて、活力が鍛錬や学習といった方向へ向いているので今は微塵も感じないが、そっちの方まで戻ってしまったら、さて美女美少女揃いの中ではさぞかしやりにくいだろう。当の詠にしても、あと数年も経てば誰もが放っておかない美貌に育つだろう事が見て取れる。霞も露出が高い衣装で、しかもこれもまた一級の美人ときているし、件の月も、前述二名とはまたタイプが違うが、相当な美女になるのは疑いない。

「なんとも、やりにくいな……」
「なにがよ?」
「いや、なんでもない」

 自分のおかれている状況が、改めて異様である事を、帝辛は改めて感じたのだった。

 

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