- k a r e s a n s u i -

昏君†無双

「おーい、飯いくで、飯っ」

 霞がたったそれだけしか言わずに帝辛を部屋から拉致ってきて。一行は洛陽の市街を歩いていた。
 帝辛はやや戸惑った様子を見せたものの、特に抵抗もせず。霞に半ば引き摺られる形で着いてきていた。

「なんや前来た時よりも活気がなくなっとる気がするなぁ」
「……そうね。地方じゃ黄巾党が猛威を振るってるらしいし、その影響が来てるのかしら」

 後漢の王都として栄えた洛陽であるが、今はその栄華も遠く。繁華街であるにもかかわらず、活気に欠けているのが見て取れる。
 さすがに王都であるから、黄巾党の猛威は直接的にはあまり及んでいないが、地方の都市からの黄巾党の猛威の情報は、日に日に洛陽市民の不安を掻き立てていた。

「王都の洛陽でさえこれだと、并州はどうなってるのかな……」
「まあ、建陽が何進に取り入ってるから他の都市よりはまともだとは思うけど、ここより状況は悪いんじゃない? でも、そこはボクの腕の見せどころよ! ってうきゃあ!?」
「ウチの事も忘れたらあかんで〜」

 不安げな月を励ますように、詠が腕まくりをしてみせる。霞も詠の肩越しに身体を乗り出して自己主張。そしてその更に後ろで、ぐいぐいと引っ張られてどこかぐったりしたような帝辛。
 それが頼もしくて、どこかおかしくて。気付けば刺史になる事への不安は吹き飛ばされていた。



「お待たせしました、小籠包に餃子、青椒肉絲です。あ、あとこれはたくさん注文して下さった方への特典で差し上げている飴になります。……ご注文の品は以上でお揃いでしょうか?」

 ことことごと、と食卓に大皿が並べられる。寂れる傾向が見え始めているとはいえ、そこは洛陽。店の質は一級品で、見て嗅いだだけで絶品である事がわかるような料理たち。身体を使うが故に健啖家な霞はもちろん、ここ数日は簡素な食事で凌いできた月と詠も、食欲をそそられずにはいられないらしく、眼が輝いている。

 ――ただ一人。
 帝辛だけは、特に反応もせず、しかし反抗もせず席についていた。

「それじゃ、ま。仕事が一段落着いた事を祝ってかんぱーい!」
「乾杯……って、霞アンタいつの間にお酒を!?」
「んくっ……んくっ……っぱぁあ! いやあ働いた後のお酒は格別やなあ! あむっ……メシも美味いし、言う事あらへんで♪」
「ああ、もう……」
「ふふ、詠ちゃん、たまにはこういうのもいいよね」

 酒の事となれば自重しない霞のせいで、なし崩しに始まった昼食会。開放感と料理の美味さも相まって、会話は弾み、箸も――誰かさんは杯も――進む。

 そうして、出された料理はあらかたが平らげられ。食卓には僅かに一皿が残るのみとなった。
 月に詠、霞の三人は出された自分の分は既に食べ終えているので、残っているのは当然帝辛の分だった。

「アンタねえ……月がこれだけ頑張ってるっていうのにどうして食べようとしないのよ!」
「まあまあ……。しかし、詠にしてはやけにはしゃいでたと思たけど、やっぱ気付いとったか」

 美味そうな料理に賑やかな食卓を揃えて、帝辛の食欲を引き出すか、勢いで食べてくれはしないか。そう期待して、月は自ら率先してよく喋りよく食べていた。その意図に気付いた霞が乗って、詠も合わせた形になるが、ついぞ帝辛は箸に手をつける事さえしなかった。

 しかし、実はこの月の作戦というか気遣いは、表立って変化は見えないが、何気に効果を挙げていた。
 もともと女好きな帝辛。掛け値の美人である三人を、自身の無気力が原因で悩ませてしまっているのはさすがに心苦しい。しかも先程からは月に無言でじいっと見詰められている。あれこれと言われるよりも、この無言の問いかけの方がよほど帝辛の意識を刺激していたのだ。

「やれやれ……」
「霞さん?」

 溜息を一つ吐いた霞がおもむろに立ち上がる。そして、帝辛の前に置かれた皿から小籠包を一つ取り上げ、ひょいひょいと弄ぶ。

「あんたが何を思って食べようとせえへんのか……。ま、それは今はどうでもええねん」

 ひょい、と一際大きく放り上げた小籠包を……ぱくり、大きく開けた口で受け止める。

「ん、冷めてても美味いやん。でまあ、この小籠包一つにしても、今の洛陽じゃ人によっちゃあものごっついご馳走なんやで? そこんとこ、アンタわかっとるか?」
「………」

 ぴくり、と。帝辛の肩が動いたのをみて霞が鼻を鳴らす。

「アンタの我が儘で、汗水流してクソ重たい税を払ってくれとる人たちん前で、それでも食わへん抜かすんやったら、さすがにぶん殴るで? ……それとも、稀代の昏君様には下々の事情なんか関係ないんか?」
「――ッ」

 その霞の言葉は、彼女の偃月刀の一撃以上に鋭く帝辛の心を突き穿った。
 如何に気力萎えていようとも、かつて王であり、また昏君として道化を演じた過去は、消えも薄れもしない。
 そのある種のトラウマを思い切り抉られて……そして帝辛は己の中の痛みに気付いた。

 朦朧としていた意識が少しずつ目覚め、それに合わせるように、俯いていた顔が僅かながらも上がる。

「ほお、ちっとは眼ぇ覚めたみたいやな。ほれ、わかったんなら食べ」

 ずずい、と突き出された小籠包。しばしの逡巡の後、帝辛はそれを手に取り、そして口に含んだ。

「……っ、ぐふっ、げほっ」

 長い事食べ物を受け付けてこなかった胃袋は、やはり急には受け付けてくれない。危うく戻しそうになったところをどうにか堪え、それを飲み下す。

 そんな様子を、月と霞はどこか満足げに、そして詠は意外そうに見詰めていた。



 黄泉戸喫、という言葉がある。
 日本やギリシア、北欧などの神話に見られるもので、黄泉の国で煮炊きされた物を食べると死者の国の者になってしまい、現世には戻れない、という信仰である。

 月のお膳立てと霞の皮肉とで食す事になった小籠包が、さしずめ帝辛にとってのそれにあたったのか。店を出た帝辛には、今眼前に広がり、自身がある世界が、初めて己にとって現のものであると感じられていた。

「ふぅん……? なんだか雰囲気が変わったわね」

 詠の言葉を背中で聞いて。帝辛はぐるりと周囲を見回した。
 記憶の中にある朝歌ではないが、しかし月らの言葉を信じれば。

「……ここは……。ここが、王都なのか……?」
「! ……そうや。漢王朝が洛陽やで」
「漢王朝……。それは、既に衰えていると……?」
「はい……。自力では黄巾党を押さえ込む見込みさえ立てられなくなっているから……」
「そう、か……」

 衰えた王朝。そして王都。身につまされる話に、脳裏に浮かぶものがあった。

 あの時に初めて目にし、そして体験したアレは……果たしてここにもあるのだろうか?

 そう思うと、足は自然に動いていた。

「ちょ、ちょっと、どこに行くつもり!?」
「……詠ちゃん、ついていこう?」

 静止しようとした詠を、逆に月が押しとめる。霞も何も言わないけれど、既に後を追い始めている。

「あ、もう……。わかったわよ、ここまで来たら付き合うわ」
「うん……ごめんね、詠ちゃん」

 まだ不満げではあるものの、詠ももう特に何を言うつもりも失せたらしい。溜息を一つ残して、ぴしっと月のおでこを突っついた。

「いたっ」
「あのね、謝らないの。月は、自分が間違ってると思ってこんな事をやってるわけじゃないんでしょ? だったら、謝っちゃダメ」
「う、うん。ごめ……、じゃなくって、ありがとう、詠ちゃん」
「よろしい。それじゃ、追いかけるわよ」



 霞たち三人を連れて、帝辛は歩く。
 もちろん初めて歩く町並みではあるが、帝辛の足取りにはさほど迷いは見られない。

「なあ……アンタどこ行くつもりなん? 場所、わかるんか?」
「……いや」
「ふぅん……。ま、なんとなく察しはついてきてんねんけどな」

 帝辛は一貫して人通りの少ない方、道の細い方へと足を進めている。家屋もだんだんと粗末なものになり、漂う雰囲気も悪くなってきている。
 今歩いている路地も、狭く薄暗く、野犬と思しき痩せた犬が徘徊するなど不穏な空気である。

「月に詠、念のためウチからあんまり離れんとき。なに、ウチの近くにさえいればどこだろうといっちゃん安全や」
「は、はい」
「まったく……こんなところに連れ込んでどういうつもりなのかしら」

 月は先程から詠の手をきつく握って放さないし、勝ち気に言ってみせる詠も、顔色はやや悪く怯えの色は隠せない。さすがに武人である霞は、こういった場所にも踏み込んだ事があるのだろう、安心させるように笑ってみせている。

「ま、なんのつもりかは……みてのお楽しみ、やな。――着いたみたいやで」

 そういって霞が指差した先では、細い路地を抜けた帝辛が立ち止まっていた。

「いつの時代も……どこに生まれるのかは変わらないのだな……」

 そう呟く帝辛に追いついた三人の前には、貧民街が広がっていた。

「ここは……」
「ま、見てのとおりの貧民街やな」
「話には聞いてたけど……こうして実際に眼にするのは初めてね」

 帝辛を先頭に、一行は歩く。
 崩れた家屋、日当たりが悪く常に薄暗い道。至るところに汚物が放置されているのだろう、酷い臭気が鼻をつく。人の気配はほとんどなく、時折現れる者たちは、荒んだ眼でじろじろと特に月や詠に不穏な視線を向けてくるが、霞がもつ偃月刀に気付くと舌打ちしてどこかへと消えていく。

「これが洛陽の隠された姿、ね。漢王朝四百年の腐敗の具現かしら」

 手拭いで鼻を押さえながら詠が言う。自分たちがいた宮中からは想像もつかない光景だった。

「………」

 どのくらい歩いたのだろうか。いよいよ人通りもなくなり、沈黙が場を支配し始めた頃。帝辛が立ち止まり……そして振り向いた。

「「「!」」」

 雫がぽたりと、汚泥の張り付いた地面に落ちる。

「泣いて……いるんですね」

 月の言葉のとおりだった。帝辛の瞳から溢れた涙が、深く皺の刻まれた頬を伝って地面へと流れ落ちている。その涙を拭いもせず、帝辛はとうとうと語りだした。

「この道は……予の歩いてきた道だ……」

 振り返る道に溢れていたもの。荒廃と貧困。そしてその道の果てから追いかけてくるのは、かつての自分の愚行だ。
 舞い戻ったか甦ったかは定かではないが、過去の罪までもが背後にひたひたと着いてきているように帝辛には思えたのだ。
 そして自分は最期は何も出来なかった。一番どうにかしたかった時には、既にできる事は舞台から降りて幕引きをする事だけ。何故、何故それしかできなかったのか、自分には!

「かつての……あの日の予がここにはいるのだ……。惑わされていた事など言い訳にもなりはしない。愛すべき国を傷つけ、守るべき民を苦しめ……成した事はまさに今ここにある……」

 ぐるりと見回す周囲。
 詠が腐敗の具現と称した光景こそが、紂王としての成果だと。それはたとえ歴史をまたいでも変わりはしないのだと。そう眼に見える全てが訴えてくるようだ。

「……じゃあ、その涙は……なんの涙ですか……? 悲しいから、泣いているんですか?」

 月が問い掛ける。霞と詠も、同調する気配を見せた。
 三人に視線を合わせた帝辛は、そっと右の手で己の頬を拭う。

「涙か……。悲しむ権利など、今更予に許されてはいまい。長く……霞がかった甘い夢から漸く醒めて……。できた事は、役目を終えた道化人形として舞台から降りる事だけ……。そうだな、予は……それが悔しかったのだろうな……」

 幼少の頃は才気煥発、誰よりも王に相応しいと言われ、そして己も誰よりも素晴らしい王になろうとした。
 しかし。なした事も残したものも、己が目指したものとはかけ離れて。その時には、既に心拉がれていたから気付けもしなかったが。それは、どんなにか悔しい事だったろう。

 ――だが。

「だが……国と民を蝕み、最期には首を討たれて退場するしかなかった愚昧な王に……一体なにができようか……。一体なにをする権利があろうか……」

 その苦悩を理解する事が出来るものは、恐らくいない。いるとすれば、時の皇帝・霊帝だけであろう。
 王であったもの、王であるものは、月たち三人の中には一人たりともいない。だから、わからない。王の苦悩はわからない、王の思いはわからない。視線をそらさずに帝辛を見詰め続けた霞にも、受け止めきれずに視線を逸らした詠にも、わからない。

 けれどただ一人。
 帝辛の肉体から溢れたかのような重い情念を真正面から受け止めて、その重さに思わずうなだれた月は、それに気付く事が出来た。
 気付いてしまえば、月には色々な事が見えてきた。

「予にはなす事も……権利も……もうなにもない。空虚な抜け殻「それは違いますっ」……なに?」

 口を挟みながら、月は。
 似ていると、思ったのだ。そして決定的に違うとも。

「なにもないだなんて、自分でさえ騙せない嘘はつかないでくださいっ。それとも……自分で気付いていないんですか?」

 その瞳。諦念と無力感に満ちて、それでも完全には諦めきれない瞳を、鏡の中にいつも見てきた。

「その左手……。血が滲むほどに握り締めてますよね……? そこまでさせる思いがある人が空っぽなはずないじゃないですか」

 言いながら、そっと近付いて帝辛の左手を取る。
 固くきつく握り締められた拳。爪が皮膚を破り、ひたひたと血を流して。

「これは……帝辛さんの身体から滲んだ血潮です。こんな、燃えるような色をして……こんなにも熱くて」

 似たような眼をしていても。自分は、血が滲むほどの強い情念は、遂に抱けなかった。

「そんな血潮を身に宿しているんです……。なにもないなんて、なにも出来ないなんて事、絶対にないですっ。私も、こんな性格だから、臆病で、なにも出来なくて、悲しむばかりで、でも諦められなくて……。詠ちゃんが支えて、助けてくれたから、どうにかなっただけで! でも帝辛さんは違う!」

 それは希望だったのかもしれない。
 自分と似た眼をしていて、真実の後悔と、身を食い破るほどの強い思いを抱えている事を知って。

「今の世を見て……かつての自分を見て。悲しみと一緒に、自分の身を食い破るくらいの怒りを持ってるじゃないですか!」

 自分が持てなかった、それほどまでに強い情念を持つこの人ならばと。その背を押せば、その背が進むなら、自分も着いて行けるのかもしれないと。

「昔を悔いて今を悲しんで……何かできるはずの未来さえ、私は嘆く事しかできなくて。詠ちゃんにすがり付いてでしか、それを正せなくて……。でも帝辛さんは、そんな世界と自分に、ちゃんと怒れてます。だったら、きっとできる事があるはずです!」

 精一杯の叫び。過去、これほどまでに声を荒げた事はなかっただろうな、と。月は熱くなった頭の片隅で戸惑っているような自分を感じていた。

「ゆ、月……?」

 自分の知らない月の姿。自分が守ってやらねばならないとばかり思っていた月。その月が見せた、激情ともいえるもの。目の当たりにした詠は、ただ呆然とするばかり。
 そして、霞は。

「あっはははははは! いやあ、よう言ったなあ月!」

 すこぶる気分よさそうに呵呵大笑、バシバシと月の背を叩き、そして帝辛の前にずいと歩み出た。

「アンタ、こんな可憐な女の子に言われっぱなしで悔しくないんか? 色々慮って言わんどいたけど、アンタ女々しすぎや。怒るべき世があって、救うべき民があるんなら、事を成す力を持つ者は、突き動かす思いを持つ者は、立ち止まってはいられんもんや。アンタも血涙流してんのやったら、立つべきとちゃうか?」
「……ずいぶんと軽く言ってくれる!」

 ひぅ、と息を飲む声が聞こえた。
 きゅうと心臓が縮みこむような錯覚。それほどまでの鬼気、その発生源は帝辛。
 誰もそれを知る者はいないが、それは禁城にて黄天化と戦ってから初めての感情の発露だった。

「ハンッ、やっぱ抜け殻や〜なんてのは言い訳やったんやな。今のアンタは、疲れたわ〜だのもうやる気ないねん〜だの、甘ったれた事ばっか抜かしよる、ただの負け犬や!」

 しかし、霞は帝辛を責める言葉を緩めない。月と、特に詠は顔面蒼白になっている。それほどの怒気を浴びて、なお怯む所を見せないのは賞賛に値する。

「なにも知らない小娘が知ったような口を! 貴様に……貴様ごときになにがわかる!」
「ああそうや、ウチはなんも知らん! 王の想いも責務も苦悩も、ウチにはなんもわからへん!」
「っ! ならばその小うるさく囀る黄色い嘴を閉じよ!」
「いいや閉じん! せっかく月がこじ開けたんや、過去と今に苛まれて、明日を見ようとせんアンタの目蓋を完ッ璧にこじ開けるまでは絶対に閉じへんで!」
「え、し、霞さん!?」
「ちょ、首気をつけて!?」

 言うや否や、霞は帝辛の服の襟首を引っつかみ、見ていた月と詠が不安になるほど強引に顔を引き寄せる。気力こそ僅かに戻ってきているとはいえ、もう何日も食べていない帝辛には抗う術もなく。鼻先が触れ合うほどの距離で視線を絡めあい。

 ――奇妙なほどに静かな声で、霞が問う。

「……国を滅ぼし民を傷付け、無様に舞台を降りた王。その名はなんや?」
「なにを……ッ」
「いいから答え」

 静かな、しかし有無を言わさぬ口調に、反抗しかけた帝辛が僅かに気圧されるく。

「……紂王だ」
「せやな。そしたら……今この瞬間、かつての自分のした事成した事に重なるこの有様を見て血と涙を流した、今こそっちゅう時に幕引きしかできんかったのを悔しがった、アンタの名前は? 可憐な女の子に励まされて、クソ生意気な女に襟首掴まれとる、今ここにおる一人の男は、一体誰なんや?」
「予の「ちゃうやろ」ッう!?」

 頭突きで帝辛の言葉を止める。
 そう、「予」ではない。それは王の一人称。そうではない。

「……私、の名は……、帝、辛」
「そうや。ウチらにとってはな、アンタは過去の自分を悔い、今の悲惨を悲しんでる、一人の男、帝辛なんや」
「ただの……一人の男……」

 霞がぱっ、と掴んでいた帝辛の襟を放す。ややたたらを踏んだものの、帝辛はすぐに立て直し、己自身の足で立つ。

「そらまあ? 確かに殷の紂王には……最期は退場する事しか求められんかったかもしれん。……なあ詠。詠の目から見て、殷周易姓革命ん時……紂王にそれ以外道があったと思うか?」
「……へ? あ、そ、そうね……。歴史書を紐解いただけの見解だけど……あれはもはや時流にして天意。たとえ紂王にその力が残っていたとしても……天も人もそれを求めなかったと思うわ」

 半ば以上話に置いて行かれた所に突然の問いかけ。一瞬戸惑いはしたものの、詠はつい最近調べなおした、当時の歴史書の内容や見解を元に答えを返した。

「だ、そうやで。その時の、紂王には……他に取るべき道は、なかった」

 ぎり、と唇を噛み締める帝辛。
 冷酷な事実を告げたばかりの霞は、しかし彼に微笑を向けた。

「――せやけどな? この時の、帝辛は違う。なんの役にも道にも当てはまらん、ただの帝辛には……今この時、できる事もとる道も、いくらでもあるんと違うか? 今のアンタは、滅び逝く王国の王なんかやない。国と民を思う、王の心だけを持った、ただの帝辛なんやから」

 その言葉は、帝辛にとってどれだけの救いとなったのだろうか。
 武王によって首を討たれた、その時。彼に残っていたものは、圧倒的な虚無感を除けば、自身を翻弄した妲己への情愛だけだった。
 もちろん、術が切れて正気に戻ったその時にも、確かに愛情を抱いていたのだから、それは本当だったのだろう。
 けれど。それ以外の大部分を占めていたもの……虚無感に取って代わられてしまった、帝辛/紂王の根幹を成していたもの。

 それは、「王」という在り方であり、概念であった。
 正気に返り、自身のなした事を目の当たりにして。もう自身は王ではないと自覚してしまった、その瞬間から、帝辛は巨大な空虚を抱え続けてきたのだ。

 そして今、その空虚にその言葉がするりと入り込む。
 殷王朝六百年の血が流れる肉体に、王の心が、魂が戻ってきたのだ。

「王の……心……。それがこの身にあると……そういうのか……」

 噛み締めるように口にした言葉。頷く事で肯定し、霞は続ける。

「そうや。アンタには、その心がある。なら、あとはどうすんのか……。月とウチがこんだけお膳立てしたんや、しっかりと答え出しい」

 そう告げて。ぽん、と肩を一つ叩いて霞は帝辛からそっと離れた。

「なんていうか……お疲れさまね」
「あ〜、その言葉はそっくりお返しするで」
「そうね……ありがたく頂戴するわ。はあ……」
「詠ちゃん、大丈夫? なんていうか……ごめんね、勝手に色々振り回しちゃって」
「……まあ、ちょっと……どころじゃなく驚いたけど、気にはしてないから大丈夫よ」

 月の思わぬ積極さに始まり、帝辛の涙、霞の発破と続いた一連のイベントは、一歩引いて帝辛を見ていた詠に多大な心労を強いたらしい。月よりも気丈なはずの詠の方が疲れた顔をしていた。
 しかし、これは一応聞いておこうと、既に半ば認めてしまっている問いを問い掛ける。

「ねえ……。本気なの?」
「ん? なにがや?」
「なにがって、そりゃあ帝辛が殷の紂王だった、って話よ。月も霞も、それが事実だって前提で話してたじゃない。二人とも、信じるわけ?」
「う〜ん……せやなぁ」
「信じるっていうか……」

 二人、視線を合わせて……そして苦笑。

「正直、私はどっちでもいいと思ってるの」
「え?」
「ウチもやな。ウチが信じたんは、実際に見聞きして感じた、後悔と怒りを抱えた帝辛の心や。しっかり火ぃくべてやれば、きっちり立ち上がってくれるって思ったから、それを信じただけや」
「そんないい加減な……」

 緻密な計算と膨大な知識、それらから筋道立てて最良の結果を導き出す軍師である詠にとって、ある意味行き当たりばったりなその選択が馴染まないのは無理もない事だろう。
 加えて詠は、月を不測の事態から守ると決めている。帝辛から難儀なしがらみが生まれてどうこう、という可能性はかなり低くなっているとはいえ、気になるものは気になるのだ。

「そうはいうけどな、詠かて帝辛を見て聞いて感じて……なんも感じ入るところがなかった、なんて事はあらへんやろ?」
「う……。そりゃあ、そうだけど……」
「ま、ウチは武人やからな。肌の感覚っちゅーか、直感的なところで判断する事がままある。それを文官の詠に理解せいってのは、酷な話やな」
「私は霞さんと詠ちゃんよりも、ちょっとだけ帝辛さんに近かったから。だから、気付けただけ。詠ちゃんが一歩引いてしっかり見ててくれるってわかってたから、頑張れたんだよ?」
「う……そんな風にいわれたら、なにもいえなくなっちゃうじゃない」

 月の言葉に頬を少し染めて、詠も踏ん切りをつけたのだろう。さばさばとした表情になった。

「まあ、最善の結果に導くのもそうだけど、事の後に最良の結果へと収束させるのもボクの務めだしね。しっかり見張っててあげるから、好きにやったら?」

 自分の力で守るだけじゃ、もう駄目なのかもしれないと、詠は思う。
 自分が守らねば、助けねば、と思っていた少女は、知らぬ間に逞しさ、強さを身に着けていて。自分の庇護は、既に月の檻になりつつあるのではないかと。
 ほんの僅かな恐れはあるけれど。それでも月を守りたい、支えたいという思いは変わらない。変わるのは、そのやり方だけだ。

(大丈夫、ボクは賈文和。月のためなら、出来ない事などないんだから……)



 そして幾許かの時間が過ぎて。月たち三人が見守る中、帝辛が歩き始めた。貧民街の、更に奥へと足を進める。月たちもその後に続くが、幾らも歩かぬ内に、ふと帝辛がしゃがみこんだ。

「なんや? 女の子?」

 帝辛の足元には、木の根を口に含んだまま虚ろな眼をしている幼い少女が倒れていた。目は落ち窪み頬はこけ、腹部だけが奇妙に膨れた骨と皮だけの身体。

「酷い……こんな小さな子が……」
「これは……残念だけど、もう手遅れね」

 まだ十年も生きていないだろうにその生を閉じようとしている少女を見つめる帝辛。そのの脳裏に、浮かぶ面影があった。

 ――あの時。
 牧野にて自失し、いつの間にか朝歌に戻っていた時に出会った少女。無垢な言葉で、自身の罪を突きつけられたのを、よく覚えていた。

「……これも因果か」

 滅びかけた王朝、荒れた王都、飢えた少女。少女が木の根をしゃぶっているところまで、図ったように似通っている。
 違う点といえば、少女が今まさに命尽きようとしているところか。

「……そんなものよりも、こちらの方がいいだろう」

 ごそ、と懐をまさぐり、先程の飯店でおまけとして貰った飴を取り出し、口に含ませる。

「……ぁ」

 囁くよりも小さなかすれた声。
 口の中の飴に気付いたのか、最後の力を振り絞って、それを一舐め。

「ぁ……ぁま……ぃ……。――――――」

 ほんの僅かに、痙攣と見紛うほどに小さく口元を笑みの形に歪めて、少女は事切れた。
 最期に感じた甘味が、僅かなりとも救いとなったか。死に顔は微笑みの形をしていた。

「………」

 四人ともが沈黙し、それぞれ黙祷を捧げる。月は、はらはらと涙を流していた。詠も気丈にしてはいるが、僅かに涙を滲ませている。

「……そう、だな……。あたら若い命が散るような世に、なにもしないというのはな……。お前には世話になりどおしだ……」

 聞こえた帝辛の言葉に、三人は目を開く。
 帝辛は、亡骸を抱きかかえていた。背を向けているので表情は伺えないが、先程までとは、声が違っている。

「……この娘を葬りたい。手伝ってくれぬか?」

 そう言いながら振り向いた帝辛の瞳には、力強い光が戻っていた。





「……これで、よいのか?」
「せやな。上出来や」

 洛陽の城壁を出て少し歩いたところにある小さな森。帝辛たちはその中の大きな木の根元に少女を葬る事にした。
 当然の事ながら、帝辛は一般市民の埋葬の方法も作法も知らない。一つ一つを月たちに尋ね、そして小さな穴を掘り、そこに少女を埋葬した。墓石代わりに比較的形のよかった石を置き、いくらかの花をつけた野草を捧げる。

「……ちょっといい?」

 改めて黙祷を捧げた後、詠が真剣な顔で呼びかける。

「……アンタのした事自体を批判するつもりはないわ。放っておけば、あの子は間違いなく野晒しのままだったはずだし、あの子もきっと喜んではいると思うわ。でもあえて言わせてもらうけど……アンタのした事は、ただの自己満足よ」
「ちょっと、詠ちゃん!」
「ごめん、月はちょっと黙ってて」

 詠の厳しい指摘に月が反応するも。詠は取り合う事なく帝辛を鋭く見据える。

「どうなの? 悲しみと後悔と怒りとを携えて、アンタがなしたいと思った事はこんな事なの?」
「………」

 帝辛は答えない。じっと少女の眠る粗末な墓を見つめながら、その先に遠い過去、或いは己がこれから歩む道を見ていた。

「……そうだな。これは私の自己満足だ」
「そんな!?」
「いいから、黙って聞いとき。大丈夫やから」

 帝辛の言葉は、自身の行いを自己満足だと認めるものだった。月がまたも声を上げるが……しかし、霞は心配していなかった。
 さっき見た帝辛の瞳が霞の脳裏に浮かぶ。霞には、あの瞳をした者が、そんな小さな事しかできないはずがないと確信していたのだ。
 果たして、帝辛の言葉は続く。

「だが、これは言わば通過儀礼だ。これを乗り越える事が私には必要だった。だからこうしたまでよ」

 己の過去の罪過。それを真正面から突きつけてくれた少女。その面影を宿す少女をきちんと葬ってやる事で、過去を過去として捉え、そして背負っていけるのだと。

「かつての自分は、ここに葬ろう。今の、そしてこれからの私になにができるのか……どこまでできるのか。それを確かめる。それこそが、私の成すべき事!」
「それじゃあ!」
「な? 言ったやろ?」

 力強い言葉と、確かな意志を宿した瞳。
 そこには、かつての輝きを取り戻した帝辛の姿があった。

「……こうしてまた立ち上がれたのは、お前たちのお陰だ。感謝する。……そしてどうか、見届けてはくれぬか。この身がどこまでできるのか、その行く末を……」

 言葉に、視線に、居振る舞いに力が溢れている。
 王ではない事を肯定的に受け入れた事で、王としての威厳を取り戻したのだ。

「張遼文遠、最初に出会った縁もある事やし、喜んで付き合わせて貰います」
「……賈駆文和、ボクはまだ完全に認めたわけじゃないから、月に変な真似しないように見張るついでに、見極めてあげるわ」
「董卓仲穎、ご一緒させてもらいます」

 その威厳もあったろう。けれど、三人は皆、生の、飾らない帝辛を見てきている。
 だから、きちんと帝辛の言葉を聞き、視線を受け止め、意志を見極めて……そう答えたのだった。

 

 そしてここより、全てが始まったのだった。

 

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(c)Ryuya Kose 2005