昏君†無双
真名を交換し合い、親交を深めた張遼――霞たちが次に行ったのは、情報の交換と互いの連携を深めるための事務的なやり取りの番である。
まずは董卓――月の勢力であるが。
丁原の眼に留まる以前からそれなりの勢力を保持していた事もあり、最大で約八千の兵を動員する事が出来る。
しかしこれはあくまで最大であり、総力戦でもない限り、動員数は五千〜六千といったところだろう。
一方質はと言うと、文官の方はそれなりに質が良く、特に賈駆――詠は軍師としては文句なしに超一流、文官としても十二分に合格点の実力を持っている。
しかし武官の方は粒ぞろい、とは言い難く。勇将の不在を、全体の錬度と詠の指揮能力で補っているのが現状である。
次に霞の勢力。
勢力といっても、霞は丁原に仕える一家臣でしかない。率いる軍勢四千も、過半が丁原から貸し与えられたものに過ぎず、霞個人の手駒は千五百を数えるのみ。文官も部隊内の事務処理が出来る程度の人材しかいない。
しかし、それを補って余りあるのが張遼文遠、彼女自身の武勇である。
個人の武勇では偃月刀を自在に操り、神速の剣閃を見せ。軍を率いれば抜群の求心力と統率力で神速の行軍を披露する……。丁原の家臣という小身で、既にその神速を謳われ始めている事実が、彼女の武勇を客観的に表現しているといえるだろう。
この両勢力の合流は、互いに足りないものを補い合う、まさに絶妙の組み合わせであった。
「建陽のヤツがそこまで考えていたとは思えないけど……何にせよ、今後黄巾党との戦いが激化する事を考えたら、渡りに船ってやつね」
董卓勢の軍務をほぼ一手に担ってきた詠にとって、霞という一騎当千の驍将の参入は正に僥倖といえる。
霞を将にすえ、詠が軍師として指揮を取れば、よほどの戦力差がない限り、黄巾党ごときに遅れをとる事はないだろう、との考えであり。そしてそれは正しい考えでもある。
「いや〜、ウチにとっても優秀な軍師の存在はありがたいわ。猪のつもりはないねんけど、やっぱり本職には敵わへんからなぁ」
そして霞にとっても詠という軍師は何よりも頼もしい助っ人である。
上役である丁原は、政治的な才覚は、まあ人並み程度にあるとはいえ、軍事面では何の役にも立たなかったのだから、感慨も一入である。
しかしこうしてみると、月の存在感がいまいち微妙な感がある。
文官としては合格点であるが、軍師としては優れているとは言えず、武官としては論外である。
勢力の頂点に立つものとしても、気弱な性格が災いして皆を引っ張っていく、という姿勢は取れず、また具体的な将来の絵図を持っているわけでもない。
そしてそれは月自身も感じているのだろう、どこか申し訳なさそうに顔を俯けている。
「ごめんね……。私自身はあんまり力になってあげられなくて……」
「そんな事気にしないの。ボクは月の力になりたくてここでこうしているんだもの。月じゃなきゃこうはならなかったのよ」
「ん……せやね、ウチもきにしとらへんで? それに月は可愛いからなあ、月を可愛がれるだけで、ウチは充分満足しとるで。ほな、次の議題行こか」
冗談めかして言ったものの。僅かな歯切れの悪さに、霞の懸念が透けて見える。
まだ組織の中での月……董卓、董仲穎としての姿を見ていないので断言は出来ないが、霞には月が今後訪れるだろう混乱を切り抜ける事が出来るとは、あまり思えなかった。
詠が補佐してはいるものの、ゆくゆくは必ず月自身の才覚なり決断なりが問われる時が来るだろう。その時に、果たして月に正しい選択が出来るだろうか……?
(まあ味方の時はしてもらわな困るんやけど……。場合によっては、なぁ?)
そんな内心はおくびにも出さず、武装、兵糧の貯蓄状況などの話を進める。
そうしてそれから更に一時間も話し合えば、大方の情報交換は済んでしまった。
「これで大体終わり?」
「そうね……。こちらから特筆すべき事はもうないわね。そっちはどう? なにか伝えておいた方がいい事とかはないのかしら?」
確認していた手元の書類を置いて、詠が霞に問いかける。
「せやな……。大事な事は特に抜けとらんと思うで? 細かい事やったら………………あ」
虚空をさまよっていた視線が固定される。
別にそこになにかあったわけではもちろんないが、そういえば頭を悩ませる事態が起きていた事を思い出したのだ。
「なに? なにかあるの?」
「いやまあ……そういや一つ……いや、一人おったな。せやけど、伝えるほどの事かは……わからへんなぁ」
「なによ、はっきりしないわね」
「あ〜……なんちゅうか、荒唐無稽な話やねん。いや、信じたらの話やで? 信じへんのやったらただの与太話ですむんやけど……妙な説得力があるっちゅうか……」
普段とは違って歯切れが悪いのは、やはり霞の中でも扱いに困っているからだろう。合流して間もない二人を、厄介事かもしれない事態に巻き込む事への忌避もあった。
「構わないわよ。これから背中を預けあう事になるんだもの。無自覚に内憂を抱えるよりは、与太話を聞かされた方がまだましだもの」
「うん……。それに、そんな気になるような言い方されて、気にしないなんて無理ですよ?」
素っ気無いながらも信用を示す詠に、くすくすと笑いながらの月。示す態度こそ違えど、遠慮する方が失礼になるな、と霞は思った。
「や、すまんなぁ。いらん遠慮なんかしてもうて。ほな……まずは言うよか見た方が早いな。ちょお着いてきてくれへん?」
霞が月と詠を案内したのは、鹵獲品を保管してある倉庫だった。
交戦相手が現在のところ盗賊の延長線上でしかない黄巾党なので、鹵獲品もそう質のよいものではないし、状態もよくないものが多かったため、この倉庫もあまり長居したい環境ではない。
「こんなとこに連れて来るんは心苦しくはあったんやけど、堪忍な。ここやったら、中に何があるかは高が知れとるからな、下手に隠しとくより都合ええ思たんよ」
「そこまでして隠す必要があるものなんですか?」
「ん……せやね、特にこの洛陽ではな」
月の疑問に答えつつ、件の物が収められている包みを取り出す。
「? 問題があるのは人だって言ってたわよね?」
「うん、まあそうなんやけどな、まずはこれを見て欲しいねん」
取り出したるは、基本は白、両肩を始め、所々に紫や金銀の衣装が入った見目美しい衣。あの、帝辛が着ていた天子の衣である。
「どれどれ……?」
「詠ちゃん、私にも見せて」
霞から衣を受け取った詠に月が寄って、二人で検分を始める。
しかし初めて幾許も立たないうちに二人の顔色が変わり始めた。
「何コレ……こんな手の掛かった仕立て、始めて見る……」
「え、詠ちゃん、この裏地……凄い高級な絹が使われてる」
「どれどれ……? うわっ!? 何この手触り!? 気持ち悪いくらいすべすべしてる!」
「! 詠ちゃん詠ちゃん! これ、この龍の刺繍!」
「……何コレ……何よコレ」
大事な事なのかぶつぶつと何コレを連呼する詠。少々困惑気味のようだ。
(いや、ちゅーか確かに高級品や思たけど……ここまで驚くようなシロモノやったんか?)
内心の嫌な予感を持て余しつつ待つ事しばし。疲れた様子の詠がふう、と溜息を吐き、恭しい手つきで衣を戻した。
「……霞」
「な、なんや?」
居住まいを正して霞を見つめる詠の眼は、どこか哀れみを含んでいた。月も何かを決心したような表情で霞を見つめている。
「悪い事は言わないわ。今ならまだ何とかなるかもしれないから、自首しなさい」
「……はい?」
「うん……。私から建陽さまを通して何進大将軍に掛け合ってもらいます。無罪は無理だと思うけど、減刑くらいなら、なんとかしてみるからっ」
「いやちょ「このまま何もしないで事が露見したら、凌遅死刑は免れないわよ?」……凌遅やて!?」
途端に霞の顔が青褪める。
それはそうだろう。凌遅死刑とは、この時代に於ける最も重い刑罰であり、ゆっくりと苦痛を味あわせてしに至らしめるという非常に残酷な刑なのだ。
そしてその刑罰が適応される罪の一つには、皇帝の所持品等に対する不敬が挙げられるのだ。
「ちょ、ちょお待ち! なんでウチがそないな目にあわなあかんねん!?」
「当たり前でしょ!? 当代のものではないだろうけど、天子の衣なんてものを隠し持ってるんだもの! 大逆罪に問われるのは当然よ!」
「んなあ!?」
その詠の言葉は、驍将・張文遠の思考回路に致命的な空白を生んだ。そんな事はもちろん起きないだろうが、非力な詠が霞を討ち取る事さえ可能にしてしまうほどの空白である。霞の驚愕のほどが伺えるというものだ。
「て、てて天子のころムグゥッ!?」
「馬鹿! 声が大きいわよ!」
大声を上げかけた霞の口を詠があわてて塞いだ。
「ムグモガモガっ!?」
「いいから黙る! 他のヤツに見つかりでもしたらおしまいよ!?」
「! え、詠ちゃん、誰か来たよっ」
「もう、言わんこっちゃないわ!」
「ムグググッ」
「静かにっ」
霞の顔を抱きこむようにして息を潜める。すたすたという足音が倉庫に近付き……そして遠ざかる。
「……ふう。ばれなかったようね」
「……あ」
「全く、霞といるようになって少ししか経ってないのに、もう何日も経ったような疲労感だわ……」
「ね、ねえ詠ちゃん……」
「? どうしたの月?」
「あの……霞さん、首、絞まってるよ?」
「へ?」
「ぁ……銭の花の花畑が……ガクッ」
「わぁあああああっ!?」
――しばらくお待ちください――
「あー、危なかったわ。なんや黄河や長江なんか比べ物にならんくらいのでかい川が見えたわ」
「わ、悪かったわよ……」
そういいながら首をさする霞。事故とはいえ彼女を絞め落としてしまった詠は、バツが悪そうにしている。
「いやいや、別にかまへんって。大声出したウチにも否はあるからなあ。それにしても賈駆っち、いい絞め技してたで。文官にしとくんはもったいないわ」
「ふふ、だって、詠ちゃん。ちょっと訓練してみる?」
「もうっ、月までそんな事いって!」
霞のからかいに月が乗って、詠が赤くなって怒る。いつの間にか一つのパターンとして定着しつつあるその流れを踏んで、全員がなんだか微妙になっていた雰囲気を元に戻す。
「……で、なんの話だったかしら」
「あー、確か……ウチが天子の衣を盗んだっちゅう事になっとったな」
「ああ、そうだったわね。……で、実際どうなの?」
「答えるまでもないやろ」
「ま、冷静に考えればそうよね」
「さっきは二人とも動転しちゃってたから……」
動転もするだろう。いきなり見せられたものが天子の衣なのだ。大逆罪とか不敬罪とか、死亡フラグ盛りだくさんな危険物をいきなり見せられて平然としていられるほど、二人の肝は鈍く出来ていなかった。
「つか二人とも、なんでアレが天子の衣やー思たん?」
普通、皇帝の姿を目にする機会など、宮中にいない限りはそうあるものではない。
そして月と詠は、役職持ちとはいえ成り立ての并州刺史。皇帝を、ひいてはその衣を目にする機会があったとは、そうそう思えない。
「そうね。理由は二つあるわ――」
まず一つ目が、その品質。
はっきりいって、天子の衣とは即ち当代最高級の衣である。当然、使われる素材も技術も最高級、というか最高そのものである。
当然、そんなレベルの衣がそうそうあるわけはなく。ならばこの眼前の衣は?
そうして可能性が生まれる。
その可能性を選ばせたのが、二つ目の理由。紫色の龍の刺繍である。
天子の身体の事を龍体と称する事があるように、龍とは皇帝を示す時によく使われる。そして紫は帝王の色として尊ばれる色である。
帝王の色で編まれた、皇帝を示す龍。これ以上ないくらいの状況証拠である。
「詠ちゃんは、今回の上洛のために色々調べ物をしたんです。もしもやまさかに備えるために、って。その中に、衣装についての資料も含まれていたんです」
「それがこんな形で役に立つとは思いもしなかったわ、まったく……。でも、おかしな点もあるのよね」
「おかしな点?」
霞の問いに、詠は月に視線を向ける。
「はい……。この衣、確かに素材も技術も最高峰のものなんですけど……、ちょっと、古臭い様式なんです。古式ゆかしいっていえばそうなんですけど……。それにしても、千年近く前の様式っていうのは古すぎるような気がします」
「要は天子は天子でも、千年前の天子の衣みたいなのよね」
「! ……そ……か。こら、いよいよわからんなあ」
千年前の天子。核心を突くような詠の言葉に、霞はいよいよ真実味を帯びてきた帝辛の正体を思う。
「? わからないって、何が?」
「あ〜……。つまりやな。そもそもの問題は、これを着とったヤツの事なんや」
かりかりと頭を掻きつつも心を決めた霞は、事情を説明する事にした。
自分が黄巾党の一部隊を追っていた事、その部隊を捕捉し蹴散らした事、その際にその黄巾党に襲われていたらしい老人を保護した事、その老人がこの服を着ていて、自身を千年前に滅びた殷(商)王朝の最後の王、紂王こと帝辛であると名乗った事……。
「胡散臭い事この上ないわね」
「う〜ん……。ちょっと、怪しすぎますね」
「まあ、そういう反応になるわなぁ」
予想通りな月と詠の反応に、まあそれが普通やなと霞は思う。
……思うけれども、自身が帝辛に感じるものがあるのは確か。疑問と、怒りと……不満。どうせならこの機会に、それらに一気に片をつけてしまいたかった。
「まあ、ウチにもそんな与太話を信じるっちゅーか、説得力を見出す理由はあったんや。取り合えず、いっぺん会ってみて、それからまた考えて欲しいねん」
「そうは言うけどね……」
詠が渋るのも、まあ無理はない。この忙しい時期にそんな不審人物とわざわざ面会する必要性は見出せないし、危険だってないわけではない。
更に言えば……もしもの際に自分たち、特に月にまで咎が及ぶ事がないように、深入りしたくない、という理由もあった。
結局。しぶる詠を、霞は自分が帝辛と面会しているのを垣間見るだけでいい、と妥協して説得し、首を縦に振らせた。
月は、詠と知り合ってからは常に詠に守られてきた。
幼少期は、気弱で苛められやすかったところを、勝気な性格で。
才覚を表し始めてからは、妬みと政略と好色な視線を、学び磨いた智謀で。
并州刺史就任が決まってからは、本格的な政争や駆け引き、権力の醜さから守ろうと、自身の全てをつぎ込むかのように、詠は月を守ろうとしている。
その事自体は、月は嬉しかったし。詠のその尽力がなければ今の自分はなかった、という確信もある。
けれども。
「これでいいのか?」という思いは、いつだって月の中に燻っていた。
詠は気にするなとも、役割分担だとも言ってくれるけれど。このままじゃ、駄目かもしれない。でも、詠の庇護なしには、何かをなせるとも思えない。
だから、これはちょっとした思い付きだった。
霞の言う帝辛という老人の、自身を古の王だと騙るちょっとした狂気。その狂気をもたらしただろう過去。それに、ちょっとだけ触れてみる。
そうする事で、自身の成長の足がかりとしたい。
そんな思いがあったから、月は帝辛との接触を特に拒まなかった。
そして今。月は詠共々、霞に連れられて宮廷の外れにある部屋の前に立っていた。
「………」
こくり、と月は唾を飲み込む。心臓がどきどきし始めるのがわかる。
一体どんな人なのか。一体どんな狂気をまとっているのか。自分にそれが直視できるのか?
それらを考えるだけで、緊張が高まっていく。
「ここにその帝辛がいるのね?」
「せや。そしたら、ウチがこっから覗ける辺りで帝辛と話してみるから、観察してみてな」
霞の言葉にうなずく事で答えて。そして霞は「失礼するで」と一声掛けて室内へ。後ろ手に閉められた扉は、僅かに隙間を開けていて。
うなずきあって二人、そっと中を覗き込んだ。
「お〜い。起きとるか〜?」
声を掛けた先には、寝台に横たわる老人。髪も肌も白く、また生気に欠け、眼をつむったままの姿は、死に瀕しているかのような。
「あれがそうみたいね。……ほんとに死に掛けの老人って感じだわ」
「うん……。そうだね」
詠は、あれなら暴れられたり襲われたりという事態はなさそうだな、と思いながら。月は、老人に色濃い死と諦めの気配に悲しみを覚えながら。
「なんや、飯も食べとらへんのかいな。自分、このままほっといたらほんまに死んでまうで? ……あむっ。むぐ……もぐ……。っくん、ほれ、冷めてても充分美味いで?」
言いながら、寝台傍らの食卓に置かれた皿からひょいと肉まんをつまみあげ、さも美味そうにそれを食べて見せるが……しかし帝辛は身を横たえたまま身じろぎもしない。
「あ〜……。なんか反応示してくれんとウチがカッコ悪いやん」
「………」
またしても無反応。こういう相手には霞も弱い。相手が反応してくれるのなら励ますなりあしらうなりできるものの、暖簾に腕押し糠に釘では手に負えなかった。
「あかん……ウチには手に負えんわ……」
「なんていうか……お疲れ様ね、霞」
精神的疲労に肩を落としながら霞が愚痴る。
十分近くに渡る霞の奮闘も空しく、帝辛は横たわったまま、食事には手をつけなかった。途中で瞳を開け、部屋の周囲をぐるり見回したくらいで、見事なほどの無反応。思いっきり敗北した気分で霞は部屋を後にしていた。
「あ〜、相変わらずの無反応無関心やったわ……。すまんなぁ、会話どころか言葉の一つも引き出せんかったわ。詠はなんや感じた事とかあったか?」
「そうね……。確かに一言も喋らなかったから深くはわかりようもなかったけど、少なくとも放っておいても月に手出ししたりするような気力は持ってないみたいね。それが一番の収穫よ」
「はは、言うやないの。確かに賈駆っちにはそれが一番大事な事か。月はどうやった? なんか気付いた事とかあらへんかったん?」
「………」
「月? どうしたの?」
「……え? ああ、うん。どうしたの?」
いつもなら詠の過保護ともいえる発言に困ったように、それでも嬉しそうに笑っているはずの月は、心ここにあらずといった様相だった。霞の問いにも気付かないほど何かを考え込んでいるようで、怪訝に思った詠の言葉にも反応が遅れていた。
「どうしたの、じゃないわよ。一体どうしちゃったの?」
「うん……。眼が……」
「眼?」
「あの、帝辛さんの眼……。少し、気になって」
「なんや、見覚えでもあるんか?」
「ううん、そういうのじゃないけど……。ごめんね、変な事言って。なんでもないの」
そういったものの、今後どうするかを話し合う最中も、月はどこか上の空で。霞がそれとなく洛陽のお偉方の辺りに探りを入れてみるとか、詠が帝辛の件は一先ず霞の調査待ちにして、合流に伴う書類仕事を優先しましょうと決めた時も。きちんと理解して同意しつつも、どこかで考え事を続けているようだった。
どこか様子が妙だった事を気に掛ける詠を、月がなんでもないからと安心させて。それから自室に戻って数日間。
月と詠は、半ば部屋に缶詰状態で書類の処理に打ち込んでいた。霞も霞で、書類仕事をしつつ、可能な範囲で聞き込みや情報収集を進めていた。そして双方の仕事が一段落着いた今、三人は再び集まっていた。
「……ちゅー事で、少なくともこの洛陽ではそれらしい人物はおらへんかったな。失踪や死亡の情報もとくにあらへん」
「そう……。となると、余計な政争に巻き込まれる心配は低くなったわね」
「せやな。そこは安心できるとこなんやけど……」
そうなると、帝辛の正体はただの狂人か本物の紂王かどちらか、という事になる。
もちろん、前者だと判断するのが普通であるが、霞自身の武人としての勘や人を見る眼は、後者だと囁きかけてくる。
「今は違う意味で安心できへんな。アイツあれからもほとんど食べてないらしいで? 水はすこし減ってるらしいけど」
「自殺志願者なのかしら。迷惑極まりないわね」
「………」
詠と霞が会話する中。月は沈黙を守っていた。何事かを考えるかのように、視線を虚空に走らせている。
「……月。ちょっと月。さっきから黙ったままだけど大丈夫? 疲れて具合でも悪いの?」
「ううん。そんな事は……」
と、そこまで口にして。月がはたと手を叩いた。
「……やっぱりそんな事あった。うん、私、缶詰で気が滅入っちゃってるの。だから、詠ちゃんと霞さんに二つお願いがあるんだけど……」
「お願い?」
「なんや?」
「うん。一つ目は、この後みんなで街にご飯を食べに行きたいの」
「うん? そんな事なら全然構わないわよ」
「せやな、ここ最近は働き詰めやったからなあ、気晴らしにもちょうどええな」
詠はもちろん、もともと身体を動かす方が好きな霞にとって、月のお願いは渡りに船。書類仕事こそ月たちより少なかったとはいえ、代わりに宮中の妖怪爺たちに愛想を振りまいて情報を得てきたのだ、精神的な疲労は二人に勝るとも劣らない。
「よかった。えっと、それじゃあもう一つ。そのお出かけに、帝辛さんも同伴させたいの。これもいいかな?」
「えぇええっ!?」
「……こらまた突飛なお願いやな……」
「そうかな……? でも、ずっと軟禁されてて滅入ってるのは帝辛さんも同じかもしれないから……。気分を変えれば、なにか話してくれるかもしれないし……。そうでなくても、あのままじゃあほんとに死んじゃうと思うから……。ダメ、かな……?」
「うっ!」
突然といえばあまりに突然な月のお願いに、二人とも驚きを隠せない。しかし月の言い分にも一理はあるし、霞も帝辛について何も解決しないまま死なれてはすっきりしない。そして詠は詠で、月の上目づかいのおねだり攻撃でたじたじである。
「あっはっは。こら詠の負けやな。まあ詠としても、死人を出してまうのも月をがっかりさせてまうのも避けたいやろ? ウチがきっちり護衛したるから認めたりや」
「あーもうっ……。わかったわよ。霞、ちゃんと帯刀してきなさいよ?」
「霞さん、詠ちゃん……。わがまま聞いてくれてありがとう」
「ま、たまにわがまま言うくらいが月にはちょうどいいやろ」
「そうそう何度も認めないんだからね? もう……」
微笑みながら例を言う月に、詠も霞もそれぞれ呆れを滲ませながら気にするな、と答える。
わがままを言った月も、認めた詠も霞も。誰もが、このわがままが、ある意味で自分たちの運命を変えた事に気付いてはいなかった。