昏君†無双
――万色渦巻く異空間。
地球の大西洋上に存在するワープゾーン。その只中に浮かぶ人工島と、そのワープの先に存在する小惑星。
人間たちが暮らす世界、その中に存在していた旧仙人界と違い、ほぼ完全に隔絶された、神仙たちの住まう世界。
それが、蓬莱島と神界である。
その秀でた……発展しすぎた文明により、自滅という形で故郷を失った、とある知的生命体。
始祖と呼ばれる彼らのうちの一人、女禍。彼女は宇宙を彷徨う中で見つけた惑星・地球を自らの故郷と同じにするために、その神の如き力を使って、子供が砂の城を作るが如く、破壊と再生を繰り返した。滅びた故郷の完全なる複製を成し遂げ、見る事叶わなくなった、その行く先を見たいがために。歴史の道標となり、世界を、歴史を動かし続けてきた。
それに反発した数多の仙道は、始祖の一人である伏羲の立てた封神計画、即ち歴史の道標・女禍の頚木から解き放たれるための戦いに身を投じた。
そして、あまたの犠牲の果てに、世界は道標から外れた。
神話の時代の終わりを悟った仙人は、蓬莱島を新たなる仙人界とし。封神された者たちは神界に集まり、神として人間たちの営みを見守っている。
――そう。
歴史の道標・女禍、そして妲己によって、殷周易姓革命における重要な駒としてその人生を狂わされた――或いは、定められていたとおりに踊らされた道化の王。
彼もまた、この神界にその魂魄をおいていた。
紂王。
姓を帝、名を辛。殷または商王朝第三十代にして最後の王。歴史のアーキタイプに嵌めこまれ圧殺された、不遇の王。
彼は今。神界の奥深く、誰も寄り付かぬ深部の深部にただ一人。
魂魄体であり、肉の器を失っているとはいえ、精気の欠片も残らぬような抜け殻の有様だった。
殷と周の一大決戦、牧野の戦いにおいて孤立を知り。
自失のままいつの間にか立っていた王都・朝歌にて、己がなした事を知り。
かつての腹心、武成王・黄飛虎の息子、黄天化との戦いで、自身には残るものも残したものもないという事を知り。
最後の寄る辺であった妲己、その魂魄がここにはないのだと知り。
かつて自身が排した、排してしまった正妻・姜氏。
最後まで殷のために戦って散ったという長子・殷郊、兄が修羅に堕ちるのをその身を挺して止めたという次子・殷洪。
殷のために生き、そして死んだ無二の忠君にして父たる存在、聞仲。
その誰にも合わせる顔もなく。気力もなく。ただただ無為に悠久を過ごし、やがて摩滅して消えていくのだろう。
或いは聞仲や黄飛虎が叱咤激励すれば、いつかのように活力を取り戻したのかもしれなかったが。それぞれ封ぜられた神としての役割で忙しく、なかなか手が回らずにいた。
故に。
紂王が人知れず、神界から姿を消していた事に気付いた者は、誰一人としていなかった。
「ククク……。あんたもヒデェ事しやがるなぁ。あんな抜け殻を追い出しちまうなんてよ」
「フム……あの様子では最期まで忠義を尽くした聞仲たちが哀れだしのう。妻子のためにも、これで立ち直ってくれればそれでよいわ」
「ククッ……それだけじゃねえだろ? オレはあんただ。黙ってたってわかるぜ? もう一つ、個人的な目論見があるだろ?」
「ニョホホホホ、さ〜て、なんのことじゃかのう〜?」
「ククククク……」
「ニョホホホホ……」
そんな声が、万色の海に飲まれて消えた……。
そこは、荒野だった。
北に山脈を、南に大河を置く平原。
人の気配はなく、あるのは夜の静けさと、天蓋の星々と。
大地が覚えている、千年を超える時代の彼方の出来事の記憶。
牧野。
殷周易姓革命における最大の決戦が行われた地である。
その因縁の地より、外史は始まる。
ヴン、と空間が歪んでいく。
窓のように口を開けるのは、異なる空間の出入り口。そこからぼとりと吐き出されたのは、白髪の男。繊細で美しい意匠の施された白い衣は、死のその瞬間に着ていたものか。
老人のような白髪、死人のような青褪めた肌、身にまとう天子の衣の白。真白に埋め尽くされた彼の姿は、夜の闇の中にあってよく映えた。
異なる世界に人知れずたどり着いた彼。紂王……否、帝辛の未来は、その白さの如く、まだ何も決められてはいなかった。
そして、始まりの朝が訪れる。
「う……」
荒野を駆ける風が小石砂粒を巻き上げて、帝辛の顔にぴしぱしと当たり。うむ、と呻き声を上げ帝辛は目を覚ました。
「……ここは……?」
まず目に入ったのは、黄色い砂煙に阻まれて見通せぬ蒼天。神界では見る事叶わぬはずのその光景を、覚醒直後のぼんやりとした頭で見るともなしに眺める。
(一体ここは何処であろうか……。神界であるとは思えぬが……)
そう抱いた疑問も、しかし長続きはしなかった。
(いや……何処であろうと構わぬ……。もうよいのだ、もう……)
考える事を放棄しようとする精神。
後悔の念、改造による精神への負荷、喪失感。
これらに苛まれた帝辛の精神は疲れ果て、その魂魄も輝きを失いかけていた。何故か再び手にした肉の器も、それらに引き摺られたか動きが鈍い。
しかし。たとえ精神が知る事を怠っても。それに引き摺られ、活発さを失いかけていても。
それでも、彼の肉体は伝えてくる。
忘れるはずがない。そう、彼の身体がこの地を忘れるはずがない。
この風の匂いも、この大地の肌触りも。六百年もの長きに渡りこの地を守り慈しんだ、彼の身体に流れる青き血が、忘れる事などありはしない。
「……そうか。そうであったな……。この地は……中華の大地であったか……」
自らの先祖が長きに渡り治め、自らもそれに倣い慈しみ、逆に傷つけ、姫家が興した周へと委ねられた、大地。
……いや。今の自分に、それらを思う資格など。
今思うのは、思えるのは唯一つ。
「妲己……。そなたがとけた地……」
そうだ。神界になかった妲己の魂魄。それはこの大地と合一したと聞いた……。
ならば、このままここで朽ちるがよかろう……。妲己に抱かれて迎える二度目の死。それもよかろう……。
――だが、何故予は妲己が大地にとけた事を知っている……?
ちらりと脳裏を掠める疑問。しかしそれも明確な形を保てず霧散する。
久々の肉の身は重く、苦さばかりが思い返され、心までも重く。
帝辛は地に伏したまま、ただぼんやりと空を見つめるばかり。
その停止した時間を動かしたのは、荒々しいだみ声だった。
「おうっ! コラてめえ起きろ!」
停止した安寧を破った無粋者は、黄色い巾を身に付けた男どもの一団だった。手に手に粗悪な武器を持ち、欲に駆られた目で帝辛の衣服をなめるように見ている。
「アニキ、このジジイの服、すげぇ上等なモンですよ!」
「ん? おおお!? こりゃすげえや、こいつぁ高く売れるぜ!」
「おうジジイ、おくたばりのとこ悪いがよ、身包み丸ごといただくぜ!」
賊……だろうかと、ぼんやりとした頭の片隅で思う。
しかし脅しの言葉もこれ見よがしにちらつく刃も、半ば以上抜け殻の帝辛には響かない。
「……予に構わんでくれぬか……。予はもう、ただ妲己に抱かれて静かに消えたいのだ……」
『………』
ぽかん、と。男どもが間抜け面を晒す。そして湧き起こったのは大爆笑。
「ぶわはははっははは! 予! 予だってよこのジジイ! 頭イカレてんじゃねえのか!?」
げらげら、げらげらと品のない哄笑。篭りに篭った侮蔑の念、そこには貧困などの苦境にあって暴虐に逃げるしかなかった自身と、こんな大層な衣装をまとえる者たちとの格差への恨みが込められていたのかも知れない。
そして侮蔑の念よりも、透けて見えたその恨みこそが、帝辛の心を穿った。
(これが……予のなした事……)
己が禁城にて享楽に耽っていた間。
朝歌の民衆は泥水を啜り、草の根を食む暮らしをしていた。その恨みが向けられる……。それは、当然の報いであり、当然の罰ではないか。
帝辛の意識は、遥か彼方へと向けられて。現に向ける意識を閉じた。
ここまでくると、笑い転げていた男どもも、さすがに様子がどうもおかしい事に気付く。
「アニキぃ……こいつほんとに頭いかれてますぜ? めんどくさいからとっととバラして身包みいただいちまいましょうぜ」
「そうだな、この辺りにも涼州の方から討伐軍が出てるみたいだし、とっとと済ませるか」
そう言って、アニキと呼ばれる集団の大将格の男は、手にした剣を振りかざす、とその時。
「あ、アニキ! 西の方向に土煙が!」
「げえっ!? 討伐軍か!? ずらかるぞ!」
「だ、駄目だ! 連中滅茶苦茶速え!」
砂埃を上げて迫り来るのは騎馬の軍団。その行軍は神速そのもの、急の事に男どもがたじろぐうちに、あっという間に距離を詰める。その軍団に雄々しく翻るは紺碧の【張】の旗!
「紺碧の張旗だと!? やべえ、遼来、遼来!」
「張遼だ! 逃げろーッ!」
「だぁれが逃がすかい、このボケどもがーッ!」
「ぎゃっ!」
「うわぁあああ!?」
正に鎧袖一触!
地の文すら待たず、たった三行で男どもは蹴散らされた。
「ったく。叩けばすぐ散るくせにわさわさ湧いてきよる。これ以上増えられると手ぇ回らんくなるかもしれへんなぁ」
そう呟くのは張遼。類まれな進軍速度を誇る部隊を率い、神速の張文遠として名を轟かせている驍将である。
めんどくさそうに頭を掻く張遼、その彼女に近付く兵士が一人。
「張遼さま」
「ん? どないした?」
周囲の索敵から帰還したというその兵士を促すも、なにやら歯切れが悪く。
「それが……。とにかく、ちょっとこちらへ来ていただけますか?」
そういう兵士が案内する先。そこには、兵士たちに囲まれた一人の老人……帝辛が。
「こらまた……。どこぞの貴人かいな?」
後漢王朝の大将軍、何進との繋がりがある張遼は、洛陽にていわゆる高貴な者たちの姿を見た事がある。
しかし横たわる老人の顔は、精気を欠いてなお、今まで見た誰よりも気品を感じさせ、その身にまとう衣は、土埃に汚れてなお上品さを失わない。
欲にまみれた今の洛陽の貴人たちよりも、埃まみれのこの老人の方が、よほど貴い存在に見える。
「先程の黄巾党は、この老人を襲おうとしていたようです」
「あ〜……。こんだけ貴人です〜いう格好でこんなところに一人でおったら、そら狙われるわなぁ。しかしなんでまた、この爺さんはこんなところにおったんやろ」
「それも含めてこれから尋問……という形は取りにくいですが、聴取してみたいのですが……」
「そっか。ほな、ウチも立ち会うわ。少なくとも、この場で一番偉いんはウチやからな」
何せこれほどの気品たる出で立ちの人物なのだ。雑兵に任せていざこざが起こっては面倒な事になりかねない。
そう判断して張遼は、未だ地に横たわったままの老人、帝辛の前に立つ。
そしてそこで始めて異様に気付いた。
あれほどの騒ぎになったというのに微動だにしなかったのは、よほど疲れて寝ていたか、はたまた気絶していたからかと思っていたが、眼を開いているのを見るに、どうも起きているらしい。
一旦は、肝が据わっているのだろう、と思った張遼だったが、その薄く開かれた目、その光を見て思い違いに気がついた。
(なんちゅう暗い眼をしとるんや……。こないな疲れ果てた眼、初めてみるわ……。動じなかったのは、単にそっちに振り向ける意識がなかったっちゅーこっちゃな……)
頭の片隅でそう考えながら、張遼は切り出す。
「こほん……。失礼致します。ウチは并州の刺史、丁建陽の命を受け、天下を騒がす賊、黄巾党の討伐をしております張文遠いいます。この近辺で狼藉を働いとりました黄巾党を発見し、交戦した際に御身を見つけまして、救出した次第です。僭越ですが、ご尊名を伺ってもよろしいでしょうか?」
慣れない敬語を使いつつ、もしこの爺ちゃんがど偉い人で不興買ったら厄介な事になるやろなぁ、と内心はらはらしながらの質問だった、が。
「………」
「あ、あの〜? 聞いとります?」
「………」
聞いているはずの帝辛は、全くの無反応である。
帝辛にしてみれば、確かに命の恩人であるとはいえ、今更命を惜しむようなつもりがない上に、今や妲己そのものとなったこの大地に帰る事になるのなら嫌ではない、とさえ思っていたので今ひとつ感謝の念が出てこない。それ以上にもうどうでもいいのだ、と無気力状態になっているのが大きくはあるが。
とはいえ。
思いっきり不審者なので色々聞きたくはあるけれど、格好が格好なだけに下手に突付いて蛇を出したくない張遼の困った気配が強まるにつれ、根っこの部分でフェミニストである帝辛も無視はしにくくなってきて、遂に重たい口を開く。
「……姓は帝、名は辛だ……。助けてもらった事は感謝する。しかし、それ以上は無用……。構わずに行くが良い……」
「帝辛様、ですか……? しかし、御身をこのような場所に残していくというのは……」
はて、どっかで聞いた事があるような、と内心首をかしげつつ。誰であれ、助けた者をまた襲われるかもしれない場所においていく、と言うのはさすがに気が引けるので言葉を濁す。しかし帝辛は取り合わない。
「構わぬ……。それに……」
ふ、と自嘲の溜息が漏れる。
「予は……いや、私はもはや貴人でも、ましてや王などではないのだ……。今の私は、舞台を降りるしか能のない道化も同然……。敬われる立場でも、守られる資格もないのだ……」
「おう……!? って、ちょいまち、ああちゃうわ! ちょっとお待ちを! 今、もはや王ではないとおっしゃられましたか!?」
(ちゅー事は元は王であったって事やろ!? 先代の桓帝かいな? いやまさか、桓帝はとっくに死んどるはずや!)
普段なら戯言として笑って流すような言葉も、帝辛が言えば生来の気品と格好が否応なしに説得力を持たせる――帝辛が王であったのは事実なのだから、ある意味では当然だが――ので、張遼も困惑するしかない。
そして、張遼を更なる混乱に叩き込む一言が。
「……今は周の治世なのだろう? 何の因果かこうして再び肉の器を得たが、殷を滅びへと突き進ませた昏君として、私の王としての名は……紂王の名は知っておろう……」
「紂王!? それに周ってあんた……」
敬語も吹っ飛ぶ帝辛の発言である。しかしそれは尤もな事。
何故ならば。
「冗談も大概にしいや! 今の王朝は漢、霊帝の御世や! 殷に周なんてのは、もう千年も昔に滅んだ国の名前やで!」
「……なに?」