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- 人妖小噺 其之十 -

 一歩半下がって左後ろ。右斜め前方の、背中を常に視界の中に。霧沢美樹の立ち位置は、いつもそこに決まっていた。前を行く、大きな背中を寄る辺とし、或いは標とし、疑う事などありはせず、迷う事などありもせぬ……。そんなかつての日々の片鱗の中に彼女はいた。
 違う点は山とある。歩みの速度は幾分速く、映る背中も漂う気配も頼りになるとは言いがたい。けれど、失ってからの約三年間、一度たりとも得られなかったあの頃を、欠片とはいえ今感じている。陶酔と悲しみを綯い交ぜに、美樹は遥季の背中を見ながら自宅への道を歩いている。

「霧沢さん、ここは、どっちに?」
 不意の問い掛け、と感じたのは彼女だけ。そもそも遥季は道を知らぬのだから問い掛けるのは当たり前。なによりこれまで二度三度、同じく案内を求められ、彼女自身もそれに答えていたのだから。
「ごめんなさい、ちょっと、ぼうっとしていたみたいで……。え、と。ここは右で、その先を行った……あれが、私のアパートです」
 導いてくれるどころか、自分自身が道案内をしなければならない事を思い出し、美樹はブル利、頭を負って意識をかちりと切り替える。
「ん……ああ、あの青い屋根の?」
「裏の桜の木を目印にしてくれれば、わかりやすいと思います」
「成る程……。いながらにして花見まで出来るなんてたいした優良物件じゃないですか」
「何でも、あれは二代目だそうで、先代の桜は呪い桜だったとか……」
「……優良な上に有霊物件、ね。洒落が効いている」
「お陰で多少は割り引いてもらえました。……と、この部屋です。鍵、今開けますから少し待ってください」

  躊躇いもなく鍵を開け、若い男を招き入れる美樹も美樹だが、お邪魔しますと一声だけで会って二日の女の家にあっさり上がれる遥季も遥季だろう。殊美樹に関して言えば、これまで彼女の私的空間に足を踏み入れたのは両親と水仙を除いて他になく、異性ともなれば履歴は十年以上遡る。であるのに意識した様子は全くない。一方の遥季に於いてはどうかというと、本の詰まった手提げを置いて、首をごきごき鳴らしている。
「重かったですよね、ありがとうございます」
「まあ、重かったけど……その、なんだ」
 どこか浮かれたように、遥季は視線を彷徨わせる。その行動が、例えば出会ったばかりの異性の部屋にいるという事実であるとか、仄かに香る自分の部屋とは違い匂いとか……そういったモノによってのものなら、この年頃の男としてはむしろ似合いであったのだが。
「そんなに期待されると満足してもらえるか不安ですけど……、これが、私の積み重ねです」
 いって開け放たれた扉の先、六畳の広さの部屋にぬうっとそびえる本棚に、美樹の歩みがぎっしりと詰まっていた。何の事はなく、美樹の蔵書を見せてもらう話になっていて、それを心待ちにしていただけの事。今はまだ色欲とは縁遠い二人ともである。

「う、ぉお……」
 さて、寸時呆けた遥季であったが、思い直して美樹を見やる。美樹の首肯を見るが早いかほんのタイトルに目を走らせる。
「『後狩詞記』に『民間伝承論』……『御伽草子集』に『折口信夫全集』『絵本妖物語』、『玉藻前三国伝綺』……『日本昔話大成』が全巻!?」
 半笑いで遥季は美樹を振り返る。少量の驚きと呆れ、そして圧倒的な羨望が綯い交ぜのその表情の中に、美樹は遥季の稚気を見た。
「これ……、いや、これは……凄いですねぇ……」
 なんともはや、と遥季は頭を振り振り苦笑い。それなりの図書館で探せば見つかるような本ではあるが、専門の学徒でもない人間が、それも二十歳に満たない少女が集めるにしては不似合いといえる本ばかり。
「よくもまあここまで……」
「え、っと……やっぱり、変でしょうか……」
 不安げな、同じ境遇の者からさえも奇異の眼を向けられるのかと怯える声に、遥季は静かな声で答える。
「変かどうかと言われれば、変である事にまず間違いはないと思う」
「………」
「変というか……変わっているんだとは思う。いわゆる普通からは。……俺は物心ついてから、折々のまともの範疇に収まってた例がないから、参考にはならないかもしれないけど」
「……いいえ。きっと、そんな事は」
 だって、それは私も同じだからと、続くだろう言葉に頷く。  ちょっとばかり眼が良すぎたり、ちょっとばかり大人びすぎていたり。或いは、橋の向こうに魅入られていたり。
「それはきっと、人の中で在るにはやりにくくて、変な事ではあるけど……」

 でも、それでもと。いつも心のうちで呟いてきた。

「これであいつらに届くなら……」
 それでいいと。いいんだと。
「……そう、ですよね。変でも……外れてても」
 それでも、追い求めたいものがあるから。遥季は美樹の積み重ねを見て。美樹は遥季の言葉を得て。貴方もそうなら、私もそうでいいんだと、それぞれ迷いを押さえ込む。
 

 寝技で一本取れるほどの時間が経って、迷いをねじ伏せ終わったか、ほぼ同じタイミングで二人は気持ちを切り替える。
「しかし、これだけの本を集めるのって、かなり苦労したんじゃないですか?」
「そう、ですね。古本屋街を巡り歩いたり、ネットオークションを使ったり……。結構苦労しました。アルバイトをしては資金に回しての繰り返しです」
「へぇ……。俺は借りたのを写本するのがメインだったからなぁ。代わりにフィールドワークの真似事にはそれなりに打ち込んでたけど……」
「フィールドワーク、ですか」
「ええ。伊吹山とか遠野とその一帯とか……。信太の森の葛の葉さんにも会いに行ってみましたよ。まあ霧沢さんが本に充てている分を旅費に回してるようなものですよ」
 知識は美樹に劣りはすれど、行動力と経験では負けてはいない。どこか子供じみたライバル心と、同胞が示して見せた想いの形に触発されて、遥季は幾分浮かれ気味。
 しかし示して見せた当の美樹は浮かぬ顔。
「地元の方から話を聞く事も出来たから、結構有意義でしたね。椎葉村とかにも行きたいんですけど、時間的にも金銭的にもなかなか……」

「怖くは……」
「え?」
「……いえ、怖くはないんですか? その……」
「ああ、山歩きですか?」
「え? ――ええ」
 囁くような掠れた声は一度では捕らえきれず。問い返しても、含んだ意図は、さて最初のものと同じだろうか? 露知らぬ遥季はさてと旅の記憶を探り出す。
「ん……別にそんなに怖くは。夜営も慣れれば困りませんし、準備と意識さえしっかりしていれば、それほど。むしろ毎度毎度、路銀の残りが怖かったですね」
「そう、ですか。……ふふ、椎葉村からは関門海峡があるから歩いては帰れませんからね。それにしても……私は最近だと海外の研究論文が怖いですね」
「俺はさしあたって今日霧沢さんが借りた本が怖いなぁ」

 柳田怖い折口怖い管狐怖い犬神怖い。……けれど本当に怖いものは何であろうか? 遥季は自覚も何もないようだけれど、と美樹は話題を切り替えた事に安堵しつつ、手提げの中を一探り。
「じゃあ、私はお茶とお茶菓子も怖いので、本と揃って準備しますね」
「あ、かたじけないです。手伝いましょうか?」
「いえ、大丈夫ですよ。重いものを持たせてお茶も出さず、あまつさえお茶出しを手伝わせただなんて、水仙に怒られちゃいますもの」
 小さく舌を出しておどけて見せる美樹にくすり、小さく苦笑を返して遥季。
「それじゃあ、ごちそうに――」


「――なりました」
 とドアの開けられた玄関に立つ遥季の背には月光が。本を読み、記憶を分け合い語り合い。時を忘れて気がつけば、時分は既に夜八時。おおよそ八時間近くを無自覚に過ごしていたとは思いもよらず、ふと二人して窓から空を仰ぎ見て、唖然としたのが五分前。
「心地よさに時が経つのを忘れるなんて……何年ぶりだろう」
 夢見るような口調で呟いて、去り行く遥季の背中を見送る美樹。呆けた中に微量の寂寥滲ませて、名残惜しげに戸を閉める。
 夢見るような足取りで、気配の残る和室へ向かう。本棚の前、少し潰れたままの座布団は、先程まで座っていた者の熱を残している。

「ふ、う――」
 かつてそうしていたように、残る熱を貪るように、座布団をぎゅうと掻き抱いて。


「……水、仙……」


 かつて自分があった世界。その欠片を取り戻した喜びが、ただ彼女の内を占めていた。

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(c)Ryuya Kose 2005