- k a r e s a n s u i -

- 人妖小噺 其之九 -

「……ごちそうさま」
 白飯とインスタントの味噌汁だけの簡素質素な朝食を終え。遥季は片づけをするでもなしに、卓袱台に突っ伏し動かない。その表情はどうしようもないほどの切なさを露にして。視線の先には、薄と狐、雲と鳥との意匠がなされた使い古した茶碗と箸。  昨日までは、意識する事もなかったそんな些事で。
「こんなにほどけてしまうなんて……」
 呟いて、ごろり仰向けに倒れこむ。両手で視界を塞いでみても、目蓋の裏では葛の芽御先がちらついて。
「思い出してるんだな……」
 呟きはいかなる色を含んでいるか。思い出す、そう自分は思い出している。忘れていなければ思い出す事もない。つまり自分は忘れてしまっていたのだ。
 それは確かに前進だろう。成長するとはそういう事で、時が経つとはそういう事だ。
 だからそれが、一人でいる事以上に寂しかった。


 身支度を整えすぐに部屋を出る。近場の駅まで自転車で、そこから電車にごとごと揺られ、最後にバスに駆け込んで。一時間と少々をかけて辿り着いたのは大学図書館。人文系の蔵書量には定評があると聞いていた。
 新学期初日というのもあるのだろうが、キャンパスは新入生に埋め尽くされて芋洗い。目にして顔を顰めた遥季は、気を取り直して人ごみを掻き分け掻き分け図書館を目指す。
 苦労して辿り着いた図書館は、やはり喧騒に溢れていた。課題も出ていないこの時期は、なるほど勉強目当ての者はいないのだろうが、代わりに講義の取捨選択に悩む人々ひしめいて、賑やかな事この上ない。ちらり、視線の先の張り紙が、所在な下げに窓から吹き込む春風に揺れていた。曰く「図書館ではお静かに」――。
 入用な本を記した目録片手に本の谷間を右左、閲覧区画や自習区画は芋洗いの如くだが、書架の辺りは冗談のように人がいない。呆れる気持ちがないでもないが、それでもこれは好都合、悠々と本を探せれる。そう思っていた遥季であったが。
「……これもか」
 望む本、その殆どが貸し出し中なのである。残っているのもあるにはあるが、いずれも図書館が複数冊所蔵しているから残っているだけ。予感と微かな確信と幾つかの本を抱えて向かうは貸し出しカウンター。
「すみません、貸し出しお願いします。それと、この本ですが」
 どさどさと積まれた本に驚いたのか目を丸くする司書に構わず、望んだ本の目録を示す。
「これは、貸し出し中ですか?」
「あ、あ〜っと、ちょっと待ってね……ん?」
 営業スマイル取り繕ってすぐさま紙片に視線を滑らせ、そして何かに気がついた。
「あ……あ〜あ〜、これなら図書館開いて早々に一年生の女の子が根こそぎ借りていったわね。入学早々熱心だなって思ってたから、よく覚えてるわ」
 やっぱりと頷きながら手続き済ませ、遥季は図書館を後にする。

 構内は変わらず人が一杯で、どの講義室も賑やかな事この上ない。すぐに追加で本を借りれるように大学内で読書しよう、との遥季の思惑は崩れ去ったかに見える。
「さて……」
 どうしようかと、取り敢えずは外へ出る。天気がいいという事もあり、中庭、ベンチも芋洗い。屋上があればいいかと思うが、立ち入り禁止である事は冊子にでかでか記されて、人は確かにいないだろうが、入れる人もまたいない。
「……ん」
 そこで何かに気付いたか、遥季は一つ頷いて踵を返して構内へ。取り敢えず最上階までエレベーター……を使うのは砂糖に群れる蟻のごとき有様を見て諦めて、階段を使ってただただ上へ。

 ただただは、やがて次第にだらだらへ。基本的には学者肌、つまりはインドア派の遥季、いくら心が勇んでも体力不足は否めない。屋上の手前の七階にやっとの事でたどり着き、がくりと膝突きぜえはあと息つき汗拭きしゃがみ込む。
 鼻筋を伝って落ちた汗を追い、遥季は汚れた床を見る。年季が入ったこの棟の、壁はくすんで染みだらけ、床は擦り切れ傷だらけ。自分と違った趣でくたびれ佇むかのようで、遥季はふふり、荒い吐息に苦笑を混ぜる。くたびれて、でもそれでどうするわけでなく、どうかする事も出来るでなく。ただ鄙びたままである事の、気安さにも似た在り方は、見込んだとおりのものらしい。慌ててふためき落ち着きをなくしていたような鼓動や呼吸が落ち着く頃には、余所者を迎えた建物さえも落ち着き馴染んだかのように静まり返って――、ただ無音。
 馴染ませる、あるいは確かめるかのように。ニ、三度大きく深呼吸、それからよいせと立ち上がり、遥季は視線をまた上へ。立ち入りを禁じられているからか、蛍光に灯がともる事もないのだろう。キープアウトのロープがぼんやり階段手前の薄闇の中で佇んでいる。そこには拒絶のイメージは全くといっていいほど感じられず、むしろ誘うかのように金具がきらり、陽を撥ねる。
 応じるように踊り場へゆっくりとした足取りで向かいロープの前へ。確かめるように一撫で、そしてゆっくり跨ぎ越す。
 越したからといって異界に入ったわけでなし、薄暗いだけの階段を昇り屋上へ続く扉の前に。ノブに手を掛け回してみるも――がちゃり、やはり鍵が掛けられている。しかし遥季に落胆した様子はない。ただの確認だったのだろう、頷き一つ残しただけであっさり背を向け歩み去る。そして腰を落ち着けたのは――屋上手前の踊り場だった。蛍光の光はなく、空への扉もないけれど、大きな窓から陽光射し込み何より静かで落ち着ける。加えて人が来る事もまず殆どないともなれば、遥季にとってこれほど住みよい場所もない。シートの代わりに上着を敷いて、座椅子代わりにの壁にもたれて本を開けば、大学一角の踊り場はあっという間に里山遥季の書斎に変わる。そして書斎であるならば、ページを繰る遥季を邪魔立てするはなにもない。ただ紙のこすれる音だけが、時折繰り返されるだけとなる。


 ぺらり、ぺらり、ぺらり。そんな軽い音は幾百と繰り返されたのだろうか。一時間以上に渡りぺらりぺらりと、軽い音ばかり響いていたからなのだろう。さながら床は書斎のドアか、こつこつと靴の踵が鳴る音が、今まで微塵も動かなかった遥季の意識をノックする。
 居座ってからの一時間、それと気付かず過ごした遥季は、驚いたように面を上げる。差し込む光が移ろって、自身の頭を照らしていた事に、今更ながらに瞳を細め、そして視線は階下へ向かう。たった一人の足音が、人の賑わう階下からここまで響きはしないはず。しかし届いたその足音は、ならばこちらに向かうもの。こんな寂れた辺鄙な場所に、わざわざ赴く物好きは? とそこまでぼんやり考えて、脳裏に浮かんだその一人、霧沢美樹が今まさに視界の中に現れる。
「こんにちわ」
「……こんにちわ」
 どうにか言葉を返したけれど、その眼はきょとんと開かれて。歳の割には大人びたとも老成しているともいわれる彼女の、普段はどこか物憂げに細められているその瞳。ぱちりと開くと随分と与える印象が様変わる。歳相応かそれよりも幼いほどにも思われて。案外とこちらが素顔かも知れない、などと遥季が思うほど、違和感のない表情である。
 そう思われているを知ってか知らずか、瞳をついと細めて美樹、抗議するように靴音高く残りの階段踏み超える。
「会って間もない人の顔を、そんなにまじまじ見詰めるなんて、失礼なんじゃないですか?」
 開口一番これである。しかしほんのり朱の差す頬が、言葉ほどには怒っていないと何より雄弁に物語る。
「気兼ねしていない、と解釈すればいいのではないかと」
「……葛の葉の真似事ですか? 御先が見たらきっと頭を抱えますよ、似たようなのが増えた、って」
「霧沢さんこそ、あんなに乱暴に靴音立てて、水仙に怒られるんじゃないですか?」
「礼儀なんて必要な時に必要なだけ示せればいい、っていうのが水仙の教えでしたから」
「……なんともいい加減な」
「でも、だからこそ、あなたは彼女達に会えたんじゃないですか」
「それはもちろん。感謝してもし切れない」
 確信の篭った力のある言葉。期待どおりのその声に微笑みながら美樹はふわりと遥季の横に座り込む。
「で、どうしてこんなところに?」
「穢き地上に嫌気がさしたから……というのはどうですか?」
 なるほどね、と頷きながら遥季はちらりと傍らの窓に視線を飛ばす。見えもせず、聞こえもしないが地上には名も顔も知らない誰かが溢れているのだろう。輝夜姫とは上手い喩えだと遥季は関心しきりであった。
「こういう喩えや言い回し、水仙に教えてもらったようなものです。あの人がそんな言い回しばかりするから、無知な私はそれがどういう意味なのか知りたくて……」
「だから入学早々図書館で借りあさったわけですか」
 苦笑はすれども遥季のそれはマイナスの意味のものではない。知りたくて、会えなくて、追いかけたくて手にしたものが同じであるというこの巡り合わせ半ば信じられない奇跡のように思えたから。――奇跡に頼らねば繋がらない、けれど奇跡的に繋がった。二分の悲しみと八分の喜び、混ざり合った末の表情だった。
 その笑みの意味に気付いた美樹は寸時瞑目する。
「……一応言っておきますけど、そんな蜘蛛の糸みたいな可能性だから、独り占めして結局切らしてしまうようなつもりはなかったんですよ? 狙いの本も、何冊かは借りるの我慢しましたし」
「そうはいっても、リストがとことん被ってましたからね、。目星つけてたのは、大体こんなラインナップでしょ?」
 遥季はポケットから司書に見せた件の紙片を取り出し、美樹に差し出す。
「一本しかないんだから、群がるのは仕方がないんじゃないですかね」
 怪訝な表情から呆気に取られた表情に変わり、そして苦笑へと至った美樹の百面相に、遥季も苦笑で答える他ない。
「ここまで被ってたんですか……。それじゃあ確かに早い者勝ちになっちゃいますね」
「そういう事。……それにしても霧沢さん、住んでるところは大学から近いんですか? 俺としては結構早めに来たつもりだったんですけど」
「はい、近いですよ」
 告げられた住所はここから歩いて二十分もかからぬ場所。比べて遥季は電車とバスに乗っては降りて一時間。ロスする時間を思えばどうにも羨ましい事この上ない。
「近ければ、本を持ち歩くのも楽でしょう?」
 それが住まいを決めた理由だというのだから、遥季もさすがに恐れ入る。切り詰めて、無駄も必要を削ぎに削ぎ、探り思い返す過去を糧に生きているような遥季にすれば、美樹の環境は羨ましい。
「でも、そこまで突き詰められる里山さんの方こそ、私には眩しいですよ」
 目を細め、眩しいものを見るような。数秒美樹は思案して、一つ、二つと頷いた。
「あの。家に、来てみますか?」

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(c)Ryuya Kose 2005