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- 人妖小噺 其之七 -

マスター自慢の珈琲と手作りケーキに舌鼓。満悦気分で飲み干したカップを置く遥季の対面では、同じく至福の色を隠せない美樹がフォークを空になった皿に置いたところだった。
「はぁ」
「ふぅ」
 それぞれ満足の溜息を吐き、二人は暫し余韻に浸る。美樹が再び話を始めたのはそれから数分過ぎた後の事。二人は再び意識を相手に集中させる。


「彼女は……真口の大神と呼ばれたモノ、なんだそうです」
「マグチノオオカミ?」
 耳慣れぬ言葉にふむ、と首を傾げる。恐らくは何かの古い呼称なのだろうが特に知識があるでなし、何を指すのかとんと見当も付かない。
「……なんなんですか? それは」
「……私にもわかりません。最初は気になって調べたりもしていたんですが、中学生程度の調査能力でわかるものじゃあなかったみたいです」
 そう言う美樹に消化不良な気配はない。わからないならわからない、それでいいのだと。
 
そう、つまり彼等は知らぬままなのだ。
古より畏怖されてきた山の主。地方によっては十二の山神の使いとされながら、既に駆逐され絶えたとされる種族。
――真口の大神。
それが山犬……即ち狼の旧き呼び名である事を。

 しかしその道の学徒が知れば狂喜乱舞しそうなその事実を仮に彼等が知ったとて、一体何が変わろうか。一体何を驚かんや。
二人にとって御先は御先、葛の芽は葛の芽、水仙は水仙に他ならず。ましてや妖怪を眼にしているのだ、どうして今更その本性などで驚こうか。
故にそれは些事も些事。現に二人は拘りもせずに話を先に進めている。
「ともあれ……彼女はここ一体の山に住まうモノを統べる存在だったらしくて、だから当然、他の妖怪の動向もある程度把握していたそうです。それが物議を醸すような事なら、尚更ですね」
くすくすと悪戯が成功したような顔、対して遥季は得心がいったとばかりに頷いた。
「なるほど……。葛芽達の下山を許したのが、水仙。そういう事ですね?」
「ええ。もともと彼等妖怪と人間とが交わる事は禁忌とされていて、ここ百年間禁止されていたそうです。その禁忌を山の主たる水仙は自ら破ってしまってんですけど、彼女は最初それを秘密にしていたそうです」
 それはそうだろう、と遥季は頷く。決まり事とは定める側が守って初めて効力を持つ物。それが破ったとなっては示しなど付こうはずもない。
「でも水仙個人としてはあんまり気にしてないみたいで、後でその事を聞いてみた時に『斯様な苔の生えんばかりの定め事なぞ時の流れに洗い流されてしまえばよいのじゃ』って言ってました」
 くすくすと笑い零して一息入れて美樹はお冷で喉を湿す。
「表向きは禁忌を守って、裏ではこっそり破って私に会いに来て。その関係は密会みたいに続いていたんですけど……ある日、水仙の眷属が相談事を持ち込んで来ました」
 物語るような口調に変わり聞き手の遥季は微かに笑んで目を閉じ聞き入る。語り部たる美樹も静かに笑み浮かべ軽やかに過去を紡ぐ。
「その相談とは、娘が里に下りたいとせがんで聞かないから何とか諦めさせる為に助言を賜りたい、という物でした。水仙は暫く唸って考えて、下界を探らせると言う名目で、その眷属を説き伏せ娘の下山を認めました」
「名目、ね」
「ええ、名目です。そしてその眷属の娘達が初めて里に下りて帰ったその日、水仙には秘密を共有する仲間が二人、出来ました。その二人の名前は――」
「御先と、葛芽」
 言葉を引き継ぎ名前を呼べば、脳裏に浮かぶある光景。白い大きな体の水仙に纏わり付くように寄り添い語り合う御先に葛芽。さながら母親に今日の出来事を報告する幼子二人、といったところだろうか。向いを見れば美樹も同じ様子を思い描いたか、目を閉じ虚空を見上げている。
「秘密を共有する相手が出来た事もあるでしょうけど、水仙にしてみれば、皆が畏れて近付かない自分に無邪気に寄ってきてくれる話し相手が出来たわけですしね。可愛がってあげていたみたいでしたよ」
「そうか……てっきり秘密にして抱えてるんだとばかり思ってたから、ちょっと安心出来た気がしますよ」
 互いが抱く思い出の欠片を繋ぎ合わせば知らずにいた側面も見て取れて、ますます二人は語り合い記憶を継ぎ合わす。葛の芽と御先の着物は水仙が着付けてやっていた事や、水仙が二人の口から語られる遥季の事にあまりに傾聴しすぎたためにそれを二人にからかわれ赤面狼狽した事等々。
これまで決して出来なかった思い出の共有になにやら嬉しく優しい気持ちになって、遥季は――哀しまずにいられなかった。

 互いの記憶が呼び水となり掠れた時に鮮やかな色が戻る。それ自体はいい。
 けれど、呼び水がなければ鮮明に成り得ない事を突きつけられ、また同時に彼女等と過ごした時が紛れもない「過去」になってしまっている事が、どうしようもなく悔しく悲しいのだ。
 俯いてテーブルに視線を落とす。迷路のような木目を辿るも、すぐに惑うて行き先もわからず何処を辿っていたかも定かではない。そこに遥季は己と美樹を幻視した。

「……こんなにも……」
 呟きに気付いて視線を木目の迷路より引き離す。戻った先には虚ろな顔で山を見詰める美樹がいた。
「こんなにも……大切に想っているのに……どうして、このままではいられないんでしょうね……」
「―――」
「あんまりにも夢みたいに素敵な記憶で……何をして過ごしたのか、どんな事を話したのか……本当は、もっと沢山知っているし、もっと沢山伝えたいんですけど、私の中には、もうそれくらいしか残ってなくて……」
「……いや。俺も、同じなんで……」
 寂しげに眼を伏せて自嘲気味。その痛ましさに胸疼き遥季もぽつりと呟いた。
 今でも事ある毎に脳裏を掠める金と黒。浮かび上がったそれを掬い上げるも細やかな部分はすぐに零れて後に残るは容姿や余程深く刻まれた断片だけ。過ごした時間も名前も確かに覚えているのにそれでも少しずつ消えてゆく。
「忘れたくなんかないのに……覚えていたいのに、少しずつ消えていって……。もしかしたら、いつかは、――」
 

 ――全部、忘れてしまうような気がする……。


 その言葉だけは、遥季は口にしなかった。美樹も薄く笑って頷いて、後はただ窓際で二人、今は遥か遠い山を見詰めるだけであった。
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(c)Ryuya Kose 2005