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- 人妖小噺 其之六 -

「――え?」
 仄かに白く煙る息を押しのけて口を吐いたは戸惑いの声。雨の中、倒れる女性を目にして慌てふためき駆け出して、その許に至ってみれば。
「嘘……だって、さっき見た時は……」
 困惑と驚きのその視線の先には、傷つき倒れ臥す……白い獣の姿があった。
「あれ……え、でも……」
 戸惑えど眼前に伏せるは獣のままで変わりなく、じわりじわりと滲み流れる紅は止まる事無く。
 戸惑いを押し込めひとまずしゃがみ込み獣の様子を窺えば、鼻腔から仄かにしろく吐息が煙り弱々しくも命を主張している。

吹けば飛ぶような微かな抵抗、崖縁での精一杯の踏み止まり。

「………」
 こくり。小さく頷いて、美樹は制服の袖を捲くり上げた。


「……ふぅ」
 溜息はただただ疲労の色のみで。知識も技量もありはせず、ただただ愚鈍に我武者羅に冷えた身体を拭いて傷を清めを繰り返し。ハンカチと制服のタイで包帯の代用をした時には気付けば時分は既に夜、没頭していた美樹にすれば秋雨を集めた小川の流れより早く時が流れたかのよう。
 泥と血と雨に塗れた己の姿そのままに、細く小さく呼吸を続ける白き獣の頬撫ぜる。
「……生きて。お願いだから、生きて……」
 願いに応えるかのようにぴくりと獣が身動ぎし、細く薄く目を開く。
「………」
 覗いた金の瞳は揺れて何を映したか――映せたのかさえ覚束ない。されど確かに刹那でも、金の瞳は美樹を真中に捉えていた。
 そしてまた、閉じられる瞼。
「―――」
 それは僅か数秒の事。そのうちに起きた事と言えば刹那視線が絡んだのみ。けれどたったそれだけで、美樹は絡め取られた。橋を越えた向こう側、境を異にす彼のモノの地に。生い茂る、深緑の森に。


 それはさながら秋の日にじわりじわりと冬が混じり込むかのように。あの日を境に美樹の日常に少しずつ異質が入り混じる。
 表立って変わった事は、晴天雲雨に拘らず人足及ばぬ町外れに一人必ず足を運ぶようになった事。下校のルートを変えてまでして山沿いの橋の袂に急ぎ向かい白き獣に付き添い侍る。治療というその行為自体は褒められよう。けれどそれを終えてなお、延々と傍に侍りて見守り続け、帰路に着くのは日付が変わろうという時分となれば些か常軌を逸しているであろう。
 けれどもそれを目にする者は殆どなく、親が共働きで帰りが晩い事も手伝って変質が露見する事はなかった。
 

そうして日々を重ねて一月が経つ。
その日美樹は学校の都合で時間を取られてしまい、漸く終わって帰路につき橋の袂に辿りついた時には常より大分遅れた時分。空を茜に染め上げながら夕日は稜線に隠れ行く、逢魔誰彼夕暮れ時。薄暗く光届かぬ橋の下、いつもの様に覗き込みそして――


「ふむ……今日は晩かったの。待ち草臥れたぞ」
 

「……え?」
思わずぽかんと立ち尽くす。その間にソレは薄暗い橋の下より出でて陽の当たる場所まで歩み出る。
「ふむ……久々の変化じゃが……病み上がりには少々応えるの」
ほんのりとくすんだ白髪は滑らかに茜を撥ねて綺羅綺羅と。鮮やかな百合の襲ねの袿[うちき]は緩やかな風に揺られ優々と。どちらもがそれを持ちたる不思議な女性の姿形を引き立てる。
「なんじゃ、呆けた顔をしよってからに。妾はお主の慈悲と芯の強さをこそ好いたというに、落胆[がっかり]させてくれるでない」
美しき柳眉の根を寄せ不満気に。そうかと思えば眼を細め今度はかんらと朗らに笑う。
「まあ何にせよ、妾の回復はお主の尽力の賜物じゃ。人を蔑む同族があるが、あれとは妾は違うでな。我が身を誇るからこそ礼節を示すのが信条じゃ。深く深く感謝するぞ」
「……あ」
 しなやかに垂れた頭を追い掛けてさらりと髪が流れ動く。くらくらするような感覚を覚えながらそれを眺め、再び上げられた頭――否、金の瞳が己を映した時。
「あぁ……」
 滂沱。正しくそのとおりに美樹は涙を流した。
「私は……わたしは、貴女に――」


 それは遠い秋の日。保持する本人にさえおぼろげな、掠れゆく記憶。



「――彼女に出会いました」
 そしてその言葉に遥季は立ち戻る。高い秋空の下の川原より、春の喫茶の窓際へ。
「子細なところは……もうよく思い出せないんですけど、でもそれでも、あの金の瞳は、本当によく覚えています。射抜かれるように強いのに、包まれるように優しい瞳……。今でも、鮮明に思い出せます」
 夢見るような眼差しと口調、それはいつかの自分のようでやや身構えた心構えも口元と共に和らいで。
「好きなんですね、そいつの事が」
「ええ。……でもそれは、あなたも同じ事でしょう?」
「当然」
 返す言葉に微笑み添えて美樹の空気も和らぎを見せ。思わず即答した遥季は微かに赤面し、沈黙の後どちらからともなく笑いが零れる。
「……お互い様と言う事で」
「はい、そうしておきましょう」
 片や頭を掻きながら、こなたくすりと笑み浮かべつつ。どこか気負った空気は霧散し二人共々肩の力が少し抜けた。抜けたからこそ切り出し難い核心を衝く言葉もするり、紡がれる。
「えっと……お聞きのとおり、彼女は……俗に言う妖怪、……なんです。……里山さん、御先と葛芽も……同じ妖怪、ですよね?」
「……ええ。その頃の俺は座敷童子だと思っていましたけど、確かにあいつ等は、妖怪、でした」
「そう、ですか……」
「ええ……」
 じぃ、と視線が交錯する。美樹の瞳は言い知れぬ光を湛えていて、それは恐らく似た者同士の遥季にしかわからぬ物であろう。
 そのまま数秒吸い込まれんばかりに互いの瞳を見詰めていたが、ふっ、と安堵の色が満つ。
「あはは……な、なんだかもっと気が抜けちゃいました……」
「あ、霧沢さんもですか? ……俺も、なんか安心しちゃって……」
 安堵の溜息同調させてぎしりと椅子に体を預ける。
 長い間、誰にも告げず告げられず理解されずにいた思い。受け入れてくれた者は既になく、ただただ胸の中にて反響するだけの言葉達。
 遂に巡り合った理解し理解される者に思いを言葉を吐露し得た事。その安堵は如何ばかりか。
 言葉にし表に出す事で、二人はここに漸く長の孤独の檻よりその心を解放し得たのである。


「さて……一段落着いたかな?」
 不意にテーブルの横から声がした。今まで聴く事語る事、お互いにのみ意識を向けていたからか、いつの間にやらマスターがにこやかな笑みを湛えて立っていた事に気付いていなかった。
「随分と話し込んでいたようだからね、水を差すのも悪いと思って待っていたけど、なんだか空気も和んだようだし。今ならいいかな?」
「あ……すみません」
「お心遣い、ありがとうございます」
 二者二様の受け答えに、マスターは何でもないよと手を振った。
「では、お待たせしたね。特製ブレンド二つと、山葡萄のタルト」
「え……、あの、霧沢さんも?」
「……何というか……気が合いますね」
 今まで長く通っていた上に同じ席を好んでいたにも拘らず、今の今まで顔を合わせた事もない。それだけで驚くと言うのに、「いつもの」で通じるメニューまで同じとあっては二人顔を見合わせて苦笑するしかなかった。
「ははは、君達は本当に似た者同士だね。では、ゆっくりしていってくれ」
そう言って、マスターは笑って去って行く。気恥ずかしさを誤魔化すように珈琲一口、ほうと一息。来店者の絶対数は少ないものの、一度来たら十年は虜にさせると言う珈琲は、この日も絶品だった。
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(c)Ryuya Kose 2005