- k a r e s a n s u i -

- 人妖小噺 其之五 -

美樹は自身に問う。これは奇跡か必然か。

忙しなく無味乾燥した日々に埋没し、けれどそれ故に煌めきを増す宝石のような思い出。かつては無邪気に願った再会も、今では拙い願いと知れて。
いつの日か、思い出す事も出来なくなるその日まで、きっと自分は一人内なる輝きを抱えて過ごすのだろう……。そう思うようになり早五年。そして「タイムリミット」まであと一年余りとなったこの春に巡り合いたる恐らくは同じ過去を背負う無二の者。
この出会いが自分に何を齎すか。舐めあう傷か他の何かかわからねど、同じ痛みを分かち合える。それだけで、今は救われる。
目の前を一歩先行く青年の後姿を見詰めながら、美樹はその立ち位置に記憶をゆらり揺さ振られ僅か瞳を潤ませていた。



街中の脇道裏路地その奥の小さな喫茶のカウンター。やや薄暗い店内は、秘密の過去には相応しい。そう考えて遥季は馴染んで長いこの『シュッツヒュッテ』に美樹を誘いきたのだが、『避難小屋』の名前のとおりの地味さに加えてこの立地。案内の途中でようやっと出会って間もない女性をこんな場所に連れてきてはどう思われるかと気付いて悩みもしたけれど、店を目にした時の美樹の反応は安心と同時に共感を強く持たせるものであった。
「あ……、ここ、私のお気に入りです。……いつもと違う方向から来たからわからなかったんだ……」

 奇しくも共に馴染みであった二人だが、今まで出会った事はなし。偶然とは在るのだな、と思いつつドアを開ければ流れ来る珈琲の香りと静かなクラシック。レコード故の微かなノイズが何とも言えぬ雰囲気を醸し出す。
こんにちは、と声掛ければ気付いてカウンターのよく見知ったマスターがおやと小さく声上げる。
細身で細目のマスターは上品に生やした口髭を一撫で、にこりと笑って会釈する。
「いらっしゃい。……珍しい組み合わせだね」
「?」
 はてそれはどういう事かと首を傾げる前にマスターが小さく笑って付け加える。
「いやなに、二人とも常連で、似た様な雰囲気を持っているから気が合いそうなのに、連れ立って来る事はおろか店内で一緒になった事さえなかったからね。……二人とも、いつものでいいかな?」
 マスターの言葉に二人頷いて、セルフサービスのお冷を手に取り窓際禁煙の山を望める席に着く。
「……あの」
「え……あ、はい?」
 座ってぼんやりいつものように山を眺めたその矢先。美樹がおずおず口を開く。
「いつも……ここに座っているんですか?」
 問われて静かに頷いて椅子の背凭れに身体預けると、年季の入った黒塗りがぎしりと軋んで受け止める。
 窓の外、建物をぬって視線を飛ばせば僅か望める緑の山。ビルに囲まれた街中心部に在ってなお山を望めるのは、何故かこの場所ただ一つ。それ故に遥季はここを気に入っていた。
 
――であるならば。

「私も……ここがいつもの席です。いつも……、ここからあの山を眺めていました」
 
遥季と似た者同士である美樹がここを選ぶのも、不思議な事ではないだろう。
「………」
「………」
 彼の山に想いを馳せて暫し後。居住まい正し咳払い、緊張した面持ちで遥季は話を切り出した。
「……さっき、御先と葛の芽って言いましたよね……」
「……ええ」
「では、あの……」
 言葉が後に続かぬは、何を問うのが適当かわかりかねるが故である。その名を己が口以外から聞いたのは実に三年振り。何時何処で誰から聞いたか真偽のほどはと問いたい事は五万とあれど、もしも望まぬ答えが来たらと声が怯えて喉を出ない。
 再びの沈黙。そしてそれを破るのはやはり美樹であった。
「あの……私の方からお話させてもらっていいでしょうか……?」
「え? あ、いやしかし……」
 躊躇うもこのまま自分が主導でいても話は遅々と進まぬだろう。加えて美樹は自分の与り知らぬ何かを知っていると見える。それならば、聞き手に回った方がいいだろう――。
「……お願いします」
 頷いて、美樹は記憶の宝物庫を遥季に開け放った。



 『シュッツヒュッテ』より時を遡る事約六年、地を馳せる事十数キロ。山際を流れる川に沿う道にて季節を一つ跨ぎ越せば、しとしとと止まぬ秋雨身に浴びて俯き歩く美樹の姿がそこに在る。左手にところどころが破れた通学鞄、右手には骨しか残っていないような襤褸々々の――つい今朝までは新品だった傘。穴だらけの傘では雨を凌げる筈もなく、顔中にしとどに濡れた長き髪貼り付かせ、白磁の肌にはずぶ濡れた制服を纏わり付かせ。
「………」
 それでも美樹は平時と変わらぬ様子で歩く。傘や鞄に穴などない、髪も衣服も濡れてはいない、無論涙を流してなどは。

 ――大人びた彼女のその思考、その容姿。歓迎されて然るべきそれはしかし、思春の期を迎える同年代の子供等の不安定な心にどう映ったか。
 不幸にも彼女はそれを推し量れないほど子供ではなく――それを笑って受け流せるほど大人ではなかった。

「……?」
 ふ、と俯いていた顔を上げくるり辺りを見て回す。
通学路を大きく外れて毅然と歩くその歩み。雨も悲嘆も止められなかったそれを引き止めたのは、橋の袂にぽつんと佇む苔むす小さな道祖神。
「なんだろう……これ」
 地蔵とも違う小さな歪な石の像。もとより知的好奇の盛んな性質、澱む気分を紛らわさんと戯れに興味を示して近付いた。

 ――そしてそれが始まり。

「……え?」
 川向こう、橋の真下の川原の茂みに倒れ臥す女性を見た。
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(c)Ryuya Kose 2005