- k a r e s a n s u i -

- 人妖小噺 其之四 -

 開け放たれた窓から吹き抜ける風は湿気を多量に含んでいて、終わりに近付いたとて未だ梅雨の最中である事を嫌でも感じさせる。加えて人いきれが不快指数を押し上げて、某大学の食堂は、決して快適とは言い難い環境であった。
 そんな中、とある机の一角を占拠している四人組みの集団から素っ頓狂な声が上がる。
「「山に篭もるぅ!?」」
「……そんなに驚くような事かな?」
 周囲の視線を感じてばつが悪そうにしながらも、渦中の発言をした青年は首を傾げる。その科白に取り巻く者は十人十色――と言いたいところだが三人三色、程度や表情こそ違えど驚いている事に相違なし。
「いや、山に行くって言うならまだわかるが、篭もるって……。夏休みの予定に入れるような物かよ?」
「しかもお前の事だから、どうせどこぞの名のある山じゃなくて地元のあの山だろ? 何考えてんだか……」
 溜息混じりの声二つ、真っ当な意見に苦笑うしかない青年に、今まで黙っていたもう一人が助け舟。
「私は……それは最初はびっくりしたけど、里山君らしいし、いいんじゃないかと思う。……それに、来年はもう三年なんだから、思い切った事をするなら今年が最後のチャンスだろうし……」
「……まあ、それもそうだけど……はぁ」
「ったく、霧沢は里山に甘いぜ……」
 出された助け舟は大船か、呆れていた二人は矛を収める。それを受けて青年――今や大学二年となった里山遥季は胸を撫で下ろし、そしてちらりと霧沢と呼ばれた人物へと視線を向ける。
「……なに?」
 視線を受けて霧沢と呼ばれた女性――霧沢美樹(みつき)は不思議そうに――次の一瞬にはどこか寂しそうな微笑を覗かせて小首を傾げる。
「……いや、なんでも」
 わかっていながら声に出さず。その後はいつも通りに雑談が始まって、十数分後に昼休みが終わりを告げ、その場は解散と相成った。



 大学構内から外に出て天仰ぎ見れば雨は上がりて雲も去り。茜射す世界はどこか空想的で、酩酊感にも似た回想に至り遥季はぶるりと頭を振る。
 ゆっくりと、確かめるように足を繰り出せば、靴底はしっかと地面(せかい)を踏みしめる。その事にどこか安堵を覚え、そんな自分に苦笑する。
 己が身はこちら側にある。それは勿論安堵すべき事であり、しかしまた少なくとも――

「……遥季君。これから帰り?」

 沈む朱を背負い、長く長く影を伸ばして立っている彼女と自分にとっては、悲しむべき事でもあろう。



 ゆるゆると沈み行く陽に送られて、二人暮れなずむ街を歩く。肩を並べて歩けども、その影は揃う事無く。影を揃えんとすれば肩を並べる事は叶わず。それは当たり前でありどうしようもない事で、それ故にかどこか哀しくなる。
 彼女といる時はいつも感傷的になるなと遥季は思い、彼女もまた自分といると、きっとそうなるのだろうと、確証もなく確信した。

 自分の左側を歩く美樹に眼を遣る。朱に照らされた黒い髪と白い肌は、幾分かましになったとは言え未だ湿気を含む風に晒されてしっとりとした艶を孕んでいる。時折強く吹きつける風を受けて、長い髪が秘密と過去を孕んだまま膨らみまたはらりはらりと解けてゆく。

――綺麗なものだ。

純粋に、遥季はそう思った。

「……ねぇ。いつ頃、行くの?」
 穏やかな沈黙を破ったのは美樹だった。静かに、けれど唐突に紡がれたその問いに、遥季は予期していたかの如く穏やかに答える。
「夏休みに入ったら、すぐに。……二十歳の誕生日が来る前に」
「そっか……。……間に合うと、いいね」
「……そう、だね」
 
 ――私は間に合わなかったから、と。
彼女は寂しそうに笑った。


 霧沢美樹。
 里山遥季と同郷にして、唯一の「同類」たる女性……。
 彼等の出会いを語るには、一年と少し時計の針を戻さねばならぬ。



 ――四月。
桜舞い心躍るその季節は出会いの季節であるという。入社然り入学然り進級進学また然り。
高校を無事卒業し、大学進学を果たした遥季もまた、地元の大学の入学式後の喧騒の最中に身を置いていた。
地方都市の大学とは言え集う人波押し寄せて、人はすれ違いまたすれ違いながら高校からの友人と会話し、また見知らぬ人に声を掛け新たな出会いを求めていた。

そして当の遥季はと言えば。
「………」
 押し寄せる人波に揺られ揉まれて根無し草、独り何処へともなく流されていた。遥季が在籍していた高校からこの大学に進んだのは遥季の他にも幾人か。けれども馴れ合う事はせず、結果周りに見知ったる人もなく、また出会いを作るでもなく。茫洋と漂い辿りついたるは会場四隅の壁の際。人いきれの息苦しさに、慣れないスーツのネクタイを緩め外して座り込む。天を仰ぎて眼(まなこ)閉じ、深呼吸して目を開けば、漸く一息人心地。
 溜息吐いて眼前の人ごみを見るともなく眺め、そしてまた溜息。
 こんなにも人が溢れているというのに、会いたい者も話したい人もない……。
 疎外の念は深く根ざし。軋む心を守る為、再び目を閉じ思い起こすは幼き頃。金と黒の少女と過ごした日々。
 己の力その故に疎まれ馴染めずいた日々に、出会うべくして出会ったか。今でも心の水底で、沈む自分を暖めている。

「……うん」
 冷えて罅割れた心から持ち直し、内から戻って目を開けば、人ごみも徐々に引き始め漸く疎らになりかけていた。
 これ幸いと立ち上がり、そろそろ帰ろうと思い立ち、――ぎくりと気付いて振り返る。

「……あ」
 振り向いた先には……望んだものは無く、代わりに瞳を微かに見開いた女性がぽつり。灰のスーツに身を潜め、所在無く立ち竦むその姿、そして瞳。
「「………」」
 そのまま無言で見詰め合う。傍らを何事かとじろりじろりと眺めながら人が行き行きて、ホールは遂にがらんどう。とうとう片付けがあるからと、係りに言われて追い出される。交わす言葉もないままに見詰め合いたる数分間。
 不意に、がさりと植え込みが鳴る。はっとして音のする方を見ればちりんと鈴の音、黒猫一匹現れる。
 思わず溜息大きく深く。そんな筈はないじゃないかと苦笑して視線を戻せば、そこにあるのは虚ろな笑みで植え込み見詰める件の女性。思わず声が口を吐く。
「君は……」
 けれども後が続かない。口を開いたまま硬直していると女性が寸時逡巡するかのように眼を伏せて、窺うように囁いた。
「……御先と、葛の芽……」

「―――」

 一瞬、懐かしい匂いがよぎる。暖かな日向の匂いと、柔らかな草の匂い。もう既におぼろな記憶はけれど、五感に強く刻まれて。
「あぁ……」
 その念は安堵かそれとも郷愁か。気付けばそれは胸を満たして眼から滴となって溢れ出す。
「あれ……、嬉しいんだけど……」
 戸惑う心を置き去りに身体はただただ涙を流し、ぼやけた視界で女性を見れば、何故か彼女も目尻を拭い、滲んだ瞳で笑み作る。

「よかった……、一人じゃ、なかった……」

人の眼を憚る事無く涙して、漸く落ち着き取り戻し、二人は改めて向かい合う。赤く腫れあがった目も、孕む憂いも抱える孤独も何もかも。まるで鏡映し。
されど今眼前に立つは紛う事無く他者である。稀有な過去を経てそれを抱えて今を生きる、二人。

「……俺は、里山遥季。……君は?」
「……私は、霧沢美樹。あなたと、……同類」
 

 桜舞う出会いの季節に巡り合う欠けたる者共縦糸に。
今はもう遠い季節のおぼろげな夢幻の記憶横糸に。
織り成す綾は如何なる物か。知り得ぬままの影二つは、並んでそして歩き出した。
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(c)Ryuya Kose 2005