- k a r e s a n s u i -

永遠のアセリア Another after story 〜The Sword of Karma〜

 リレルラエルは、帝国の北西部を代表する大都市である。政経軍すべての要衝であり、大陸東部における反帝国の動きに対して睨みを利かせてきた策源地である。
 当然此度の対ラキオス戦においても、法王の壁を十全に活かす前線拠点として機能していた・・・・

 ――そう。していた、のだ。

 今や堅牢な城門は破壊され、あちこちに火の手が上がり。詰めていたスピリットたちはほぼ全てがマナの霧と消え、指揮する人間たちは混乱の極致にある。
 精強を以て恐れられたはずの帝国軍の姿はそこにはなく、それがまた将兵の自信を失わせる。


 リレルラエルの命運は既に風前の灯火であり、近い将来の帝国の落日さえ窺わせるもので、官民問わず、リレルラエルは狂乱の只中に叩き落されていた。





 そんな中で、フィルフィたちの屯する館のあるスラム街は、奇妙な凪ぎを保っていた。
 根無し草にも等しい貧民たちはとうの昔の逃げ出していたし、近場にある他のスピリットの館にしても、主たるスピリットたちは軒並み討ち取られ、残余の弱兵たちは保身に走った人間に引き抜かれ、残るは箱ものばかりとなっていた。
 隠し通路から城壁内に侵入したフィルフィたちにとって、勝手知ったるそこは身を隠すのに非常に都合がよい場所であった。無人の街並みを抜け、住み慣れた我が家に転がり込むとすぐさまエドネスをベッドに寝かしつけた。
 本来ならば帰還してすぐ司令部に報告に行かなければならないのだが、敢えてそれを無視して、である。

 エドネスが気絶してしまって動かせず、リレルラエルの現状を招いた責任の一端が自分たちにあると認識している彼女らには、エドネス抜きの現状で帰還の報告を行う事が出来なかった。
 そうすれば、これ幸いと全ての責任を押し付けられてそのまま断頭台まっしぐらの欠席裁判が始まりかねないと恐れたからである。
 勿論、軍法に則っているのならば処分を受ける事に嫌はない。ないが、もし処分されるとしても、せめて隊長と共に。
 そんな思いからの行動であった。



『………』

 エドネスの眠るベッドを囲む戦乙女たち。
 その姿からは戦場での勇ましさは微塵も感じられず、シェリオたち年少組は、親の不在に怯える幼子のようでさえあった。
 待つ事以外に何もできない、息苦しい時間は、誰もが望むエドネスの目覚めによってではなく、唐突な破砕音によって破られた。

「……え?」

 意識の大半を愛しの隊長に振り向けていた年少組が、虚を突かれて呆けてしまったのに対して、年長組は血の気を引かせながらも、咄嗟に神剣を抜き放ち、蹴破られたドアの破片と埃とに隠れた人影へと突きつける。

「……ふん。報告に来ないかと思えば、随分な歓迎ではないか」

 マントを一つ払って埃を払い、ゆっくりと歩み出たのは、がっしりとした体躯を窮屈そうに軍服に詰め込んだ人間であった。
 スピリットに囲まれながらも微塵も動じた様子を見せず、逆にその威圧感でシェリオたち年少組を後ずさらせてベッドの縁までやって来たその男は。眠るエドネスの襟首を掴んだかと思うと、そのまま床へと投げ捨てた。

「――!? ごほっ!?」
「隊長!?」
「ちょ、ちょっと、何するんですか!」

 流石にこの暴挙を目の当たりにしてなお動けない者はおらず、ニルギスは不意の苦痛に強制的に叩き起こされたエドネスを抱き起し、シェリオが非難の声を上げる。

「騒ぐな、小娘共が」
「――殺「止めなさいイズラ!」離してメル! そいつ、そいつはエディを!!」
「メル、構わないからそのまま抑えときな! 皆も落ち着きな!」
「ど、どうしてですかフィルフィさん!」
「! ……あーシアスこれは確かにちょっと黙った方がいいわよっていうか黙らないと不味いわね」
「そういう事よ。ほら、ユウラも。私は身内にアイスバニッシャーなんて撃ちたくないの。マナを鎮めなさい」
「………」
「……大変、失礼致しました、閣下」

 言葉と共に膝をつき、深々と首を垂れるフィルフィの姿が、今目の前に立つ人物がどんな立場にいるのか、否応なしに理解させる。怒り狂っていたイズラでさえも渋々ながらも神剣を収め、ユウラも常の茫洋とした雰囲気に戻り、あとは軒並み冷や汗を流し、首を垂れて口をつぐんだ。

「……ふん、遅いな。ディード、貴様一体どんな指揮をしておるのだ」
「ぐっ……は、ぁ……。申し訳ありません、ゼレヴェ司令・・・・・・。帰還の報告が遅れました事、誠に申し訳ありません。第零独立遊撃隊、帰還いたしました」



 スピリットとは、基本的に戦闘奴隷である。
 故に、地位の高い人間になればなるほど、スピリットとの直接的な接点は少なくなり、書類上でしか存在を知らないというものも少なくはない。
 リレルラエルを預かる人物ともなれば、スピリットからすれば雲の上の存在であり、普通ならば遠すぎて逆に意識する事もない。それはフィルフィたち第零独立遊撃隊の面々にしても似たようなもので、年少組は名前と顔が一致しないし、年長組にしても言葉を交わした事がある者は一人もいない。
 ただ一つ、他のスピリットたちと事情が違うのは、敬愛する隊長含め、自分たちの身柄は目の前でどっかと椅子に座った人物が預かっているという事。
 軍が管轄する他のスピリットとは違い、フィルフィたちはこの人間の言葉一つで運命が容易に変わってしまうのである。
 それを思えば、先刻の醜態がどれほど致命的なものであったか。妖精たちは、死刑宣告を待つような心境で、目の前で行われる会話を聞いていた。



「――以上、結果として一ヶ月ほどの遅延に成功しましたが、敵の少数最精鋭の浸透と、それに連動した飽和攻撃により突破を許す結果となりました。以降は全速でリレルラエルへの帰還を試み、城壁を突破されている事を確認。その時点で自分は疲労により昏倒、、以降は部下の判断にてこの詰所に移動し、以後閣下がいらっしゃるまで待機しておりました」
「………」

(こうして口に出してみると……我が事ながら無様の極みだな……)

 腕を組み、瞑目したまま報告を聞くゼレヴェの前で直立しながら、エドネスは内心で自嘲する。
 最低限の任しか果たせず、リレルラエル陥落の呼び水となり、極め付けに前後不覚に陥る。これが自分の事でなければ鼻で笑っていたかも知れない醜態であった。
 正しく自分たちの上げた戦果、ひいては有用さによって保ってきた命脈。それが今や蜘蛛の糸よりもか細い物となってしまっている。
 目の前の男は、確かにエドネスたちの庇護者ではあるが、同時に何よりも無能を嫌う徹底した能力至上主義者でもある。その男が、自分たちの失態を見過ごすはずがない。そうエドネスは確信していた。

 確信していたからこそ、現状は予想外でもあった。

「……ふむ。儂も見張り台から俯瞰したが、エトランジェ含めたラキオスの三騎。確かに感嘆すべき練度であったな。加えて、大陸北半分を手中に収めた今や、彼奴らの兵力は帝国と伍するまでに強化されておる。もとより要求が過大であったからな、遅滞防御という目的は十分に果たされただろう。その点に関しては、殊更糾弾すべき点はなかろう。むしろ本隊たるこちらは、貴様らの稼ぎ出した時間を無為に費やしてこの有様よ。……いや、防疫に失敗して無能という名の害虫を蔓延らせていた己こそが最たる無能、か」
「……閣下?」

 傲岸にして不遜、しかしそれに見合う能力を持つ自尊心の塊のような男から発せられたとは思えない言葉に、エドネスは思わず声を漏らす。

「なんだ、糾弾されん事が不思議か?」
「! いえ、そういうわけでは……」

 いきなり図星を突かれて言葉に詰まるも、その程度はお見通しだったらしく、ゼレヴェは鼻で笑い飛ばす。

「ふん、責められて楽になろうなど負け犬の思考よ。それに、今更貴様を責めたところで、もうどうにもならん」

 本来ならば一方面軍を司る人物が、たかだか一個中隊の報告を求めに出向くなどあり得ない。ましてや今は戦時も戦時、防衛戦の真っただ中である。
 だというのに、こんな所に留まるその理由は。

「最早、指揮系統は滅茶苦茶だ。スピリットはおっても、その上の人間どもがもう使い物にならんのだ」



 実際のところ。
 エトランジェである高嶺悠人、アセリア・ブルースピリット、エスペリア・グリーンスピリットの三名による強襲により城門が突破されたその時点であれば、まだ統率は執れていたし、数によって押し包む事も不可能ではなかった。
 確かに動揺こそしてはいたが、エトランジェたちも相応に疲弊しており、またゼレヴェも後続のない少数精鋭による強襲であると見切り、離脱のタイミングを失わせて押し潰そうと目論んだ。
 最前線の帝国スピリットたちも、多少の混乱はあったものの、的確な命令さえ下ればすぐさま対応できる状態を保っていた。この命令がきちんと伝達されていれば、マナの霧と化していたのはラキオス勢であったろう。

 しかし、その命令は届く事はなかった。より正確に言えば、一部分の部隊にしか届かなかったのである。

 ゼレヴェの発した命令を、スピリットたちに伝える人間の隊長たち。彼らの動揺と混乱が、ゼレヴェの想定を遥かに上回っていたのである。
 支配と蹂躙に慣れ親しんだ彼らには、自らがそれに曝される事への想像力が欠如しており、またそれに抗し得る精神力も持ち合わせていなかったのである。
 極一部の優秀、或いは忠実な者だけがラキオス勢の包囲を命じた一方で、大多数は命令を受け取る事すら出来ず。兵力を分散してしまった帝国スピリットたちは各個撃破され、それにより混乱は助長され。
 業を煮やしたゼレヴェが前線まで出向いた時には、兵力の八割を失い、襲撃者たちも取り逃がしてしまっていたのであった。



「――ふん。無能の防疫に失敗した儂が有能無能を語るなど、最早笑い話にもならんがな」
「………」

 度し難い、と吐き捨てるゼレヴェを、フィルフィたちは意外な思いで見ていた。
 面識を得る機会のない年少組のスピリットたちは、当然ゼレヴェについて知っている事は数少ない。しかし、その少ない知識の中でも、とみに広く知られている事実があった。

 噂に曰く、スピリットも人間も、これ皆全て道具である、と。

 スピリットを人間扱いする事はない、ないが、無能な人間を寛容に扱う事もまたなく。優秀な者を重んじ、無能を害悪として忌み嫌い、時に苛烈な処分を下す事も辞さないと専らの噂であり……またそれは紛れもない事実でもあった。
 そんな持論を掲げるだけあって、当人も相当に優秀であり、能力的には帝国主要三都市を任されても問題ないながらも、その独特にして苛烈な言動が災いして主流から外され、格的に一段落ちるリレルラエル司令に甘んじているのであった。

 そんな気難しいゼレヴェが、些か遠まわしにではあるが、自分を評価している。
 自身の部隊がエトランジェの部隊に抜かれていなければ、という念を抱くエドネスにしてみれば、この評価は過分なものであった。

「しかし閣下、そも、我々が抜かれていなければ――」


「――図に乗るなよ、若造」
『……っ』

 直接向けられたわけではないフィルフィたちでさえ、思わず身を竦ませそうになるほどの、怒気。
 真正面でそれを浴びたエドネスは、思わず一歩引いてしまっていた。

「……貴様に命じたのは、飽くまで敵本隊を足止めする遅滞防御だろうが。敵本隊が未だ到達していない以上、貴様は貴様の任を果たしている。リレルラエルでの攻防にまで責を感じるなど、分を弁えない事甚だしいわ。道具には用途がある。用途を外れた事が出来んからと責めるのは筋違いだろうが。責があるとすれば、それは貴様が帰着して早々気絶した事だ。貴様、そんな下らん事で、部下の命運まで巻き込んで終わらせるつもりか? 適所にある適材を無駄にするのは罪悪ですらある。……故に儂は貴様をここまで飼ってきたのだ」
「……無見識な発言でした。申し訳ありません。そして、勿体なきお言葉です」

 多大な感謝と畏怖を捧げる上官からの、遠回しではあるが賞賛の言葉。
 無能を用いる事はないゼレヴェに用いられる。それ自体が評価ではあったが、それでも言葉にされるとまた感慨深いものがある。こんな状況下でなければ、どれほど嬉しい事だったろう。
 けれども、何故、今この状況下でなのか。
 それを思えば、湧いた喜びにも、じわりと不穏な予感が滲む。

 ――そして、それは現実のものとなる。

「貴重な適所の適材を、そんな事で無駄にするなど馬鹿げておる。己と、部下の命の使い道、使いどころを見極める事こそが、上に立つ者の務め。努々、忘れるな」
「は、肝に銘じます」
「うむ。遺命として、よく心得よ」
「ッ! ……閣下」

 無礼と承知しつつ、エドネスは思わずゼレヴェに詰め寄ってしまった。
 ゼレヴェも今更それを咎めるような事はせず、僅かに疲れを滲ませながら訳を聞かせる。

「……最早、貴様の部隊にも儂にも。いや、そもそもリレルラエル自体に、使い道がないのだ。あるとすれば、ラキオスの手に渡った後、間を於かずに攻め寄せて奪還するくらいよ」
「! それでは」
「……状況の報告は中央に既にしたが、梨の礫よ。儂ら諸共、リレルラエルは切り捨てられたのだ」
「そんな……北部の要衝たるリレルラエルを放棄するなど! みすみす橋頭堡を与えてやるようなものではないですか!」
「だが、現実として増援は来ない。まあ、対処できる自信もあるのだろうし、儂を葬るには都合がいいのだろうな」
「そんな……そんな事のために……」
「……貴様には他にもっと気にする事があるだろう。なにせ、帝国では儂以外に貴様を使える者はおらん。儂が失権したとなれば、最早帝国には貴様が望む形ではいられまい?」

 問われたエドネスは言葉もない。
 本来ならばとうの昔に罪に問われて処刑されいていたはずのエドネスが生きながらえているのは、偏にゼレヴェによる庇護があったればこそであり、フィルフィたちの運用に関して裁量を任されているのもまた同様であった。
 エドネスだけであれば、他の人間も時間を掛ければ或いは有能さを理解し、それなりに扱う者も出るかもしれないが、しかしフィルフィたちはそうはいかない。まず間違いなく自我を削ぎ落とされ、ただの戦闘人形へと落されるだろう。
 それは、それだけは。エドネスは断じて認める事は出来ない事であった。

「……正直なところ。貴様のその拘りは儂には理解できん。……マロリガンでの事を考慮すれば、予想出来んでもないが」
「………」
「(マロリガン……?)」
「(確か、隊長が以前所属していらしたという……?)」

 唐突に上がった予期せぬ単語。エドネスは沈黙し、フィルフィ、メルシアードといった年長組は記憶を漁る。
 ゼレヴェの言い草からして、エドネスの過去と秘密に深く関わってきそうではある。表情を固くして沈黙を貫くエドネスから聞き出す事は憚られたが、これが一つの手がかりになる事は間違いなく。少女たちはそれを胸に仕舞い込んだ。

「だが、貴様のそのやり方で、その妖精共が開花したのだという事も理解している。しかし、現状を見れば貴様らに未来はない。さて……貴様はどうする?」
「……無体な事を聞かれます」
「ふん、どうせ最後の機会だ。言うだけ言ってみよ」
「されば……」

 居住まいを正し、瞳を閉じれば。これまでの足跡が、胸に秘め、フィルフィたちにも明かした事のない原初の決意が、文字通り体に刻まれた記憶が。その全てが、静かにしかし絶え間なく訴えかけてくる。
 表に出す必要などないと、己の内にさえあればいいと、ずっと秘め続けたもの。そんな、渦巻くほどの思いとは裏腹に、零れた言葉は、意外なほどに静かだった。

「……あの日から、六年間。色々と抱えて歩いてきて、その殆どを取りこぼしてきました。今歩いているのは、最後に残った欠片を抱えて行ける、最後の道なんです。例えその先が行き止まりだろうと奈落へ続いていようと、今更他の道は選べませんし、選ぶつもりもありません」
「――っ」

 さわ、と背筋が寒くなったのは。きっとただ汗が引いたからだ、とフィルフィは思った。
 だって、隊長は「それに、フィルフィたちを見捨てる事など、冗談でもあり得ませんからね」って、温かい笑顔で言っている。
 だから、さっきの言葉に、どこかうすら寒いものを感じただなんて、そんな事。あるわけないがないのだ、と。僅かに表情が硬くなったメルシアードにしても、他の面々にしても、それはきっと同じなのだろうと思われた。

「……ふ。つまりこの期に及んでも、これまでと変わらんという事だな?」

 対して、ゼレヴェはさして同じた様子もなく。僅かに憐れみを含んだ視線を向けただけで、確認を取るように問い掛ける。

「無論です」
「ふむ……。ならば、あとは好きにしろ。何処へなりとも行くがいい。なに、どうせ貴様らが帰還した事を把握している者などおらん。貴様らが全滅したからラキオスが攻めてきた、と考える者が殆どであろうしな」
「………? 閣下? それは、どういう……」

 何でもないように告げられた言葉の意味を掴み損ねて、エドネスは問い返した。
 と言っても、本当に意味が分からなかったわけではない。聞いて、理解した内容が、余りにも都合のいいものであったから受け入れられなかったのだ。

「わからんか? それともわかろうとしないのか? まあどちらでも構わんが、つまりは書類上は死人にしておいてやるから、貴様は自由だという事だ。死人を縛る方なぞどこにもありはしないからな」
「自由……」
「そうだ。万事を自らを由とする。ただそれだけの事だ。残るも去るも、生きるも死ぬも。……ただ、それに当たって一つだけ条件がある」
「……それは、どのような?」
「簡単な事だ。先も言ったが……命の使い道、使いどころを間違わない事だ。人は須らく何かを為すためにあるモノ。そしてそれには相応の使い道がある。正しく分別を弁え、見極める事だ。難しい事ではないだろう?」





「ふん。ソーマ・ル・ソーマといい……。才ある者ほど歪んでいるとはな」

 誰もいなくなった兵舎で、ゼレヴェはぽつりと呟いた。
 ゼレヴェからしてみれば、エドネスもソーマも、新兵の時から知っているひよっこに過ぎず、何故彼らが”こう”なったのかも察せぬほどではない。そして、あの二人の間にある因縁をも知っている、数少ない人間でもあった。

「若さ故か、時代故か……それとも、この世界が故か」

 結局返答を求めずに退室を促した際、エドネスは一つだけ聞いてきた。



「閣下。一つだけ……よろしいですか?」
「構わん」
「何故……このような事を?」

 それは今更の問いではあった。これまで幾度となくただ能力を以てのみ評価すると告げてきたのだから。
 だから、それを口にしたのは酔狂か気紛れか、もしかすれば、期待からだった。

「……ふん。そこらに蔓延る見てくれがいいだけの運命の操り人形と、ずたぼろでも自分で立つ人間と。儂ならば後者の方に価値を見出す。まあそういう事だ」

 言われたエドネスは、どこか戸惑ったようだったが、それでもすぐにそれを収め。きっちりと、一部の隙もない敬礼をして去って行った。スピリットたちのそれも、恐らく形だけではないものだっただろう。

「……だが、果たしてそれに如何ほどの意味があるのか。神ならぬ身には計り知れんが、さりとて何もせんのは矜持に反する、か。……アレならば、この世界の秘密を知れば、なんとするのだろうな」

 どいつもこいつも難儀な、と呟いて、既に手元を離れた、かつてない優れた部下どうぐだった男に思いを馳せる。
 手元を離れた以上、既にどうでもいいと言えばどうでもいいのだが、それとも、自分は惜しんでいるのだろうか。

「……詮無い事を。あるものを使い、為すべきを為す、ただそれだけの事よ」

 言葉にして、思考を切り替える。
 人に対して訓辞を垂れた以上、己はそれを全うする事が当然である。
 見事に幕を引くために、或いは終わりの幕を開けるために、ゼレヴェは己の居所、指令室へと戻っていった。





 そして――。




夕暮れの空が、赤く燃えている。地の底から響くような音と、血のように赤く染まった空は、この先に続く血みどろの歴史を暗示しているかのようである。
 そして、そんな一つの終わり、或いは始まりを、エドネスたちは遠くから見つめていた。

「あの炎の下で、ぼくたちの家も燃えてるんだね……」
「ぐすっ……やめてよシェリオ……言わないでよぉ……」
「持ち出せるものは持ち出したんだし仲間はみんな生きてるから泣き言なんて言っちゃあ駄目だわよシアス。さぁ涙は閉まっちゃおうねぇはいちーんしてー」

 ゼレヴェに自由を告げられた後。一時間ほど考えこんだ末に、神聖サーギオス帝国からの出奔を決意した。
 エドネスが帝国に居たのは、庇護者であるゼレヴェがいるからであり、また出奔するのに多大なリスクが伴うからである。その双方が失われた今となっては、それを躊躇う理由は少なかった。
 強いて言うならば、それなりに安全だった場所を離れなければならない不安と、思い出の詰まった空間への未練であったが、リリスの言うように持ち出せるものは持ち出していた上に、

「エディがいれば、別に構わない」
「場所より、人。皆いるなら、それでいい」

 とイズラやニルギスが言うような理由もあって、シアスのように未練はあれども、出奔自体に反対する者はいなかった。

「……司令長官は、きっとあそこにいらっしゃるのでしょうね」
「そうね。最期まで司令長官としての任を尽くして討ち取られる。そんなところでしょ」
「ああいう人にこそ生き延びて欲しいもんだけど……侭ならないねぇ」

 ゼレヴェとは、結局あの時の会話が最後になった。暇乞いなど望まないだろうけれど、今の自分たちはあの男があってこそでもあり、ただ己の信条に殉じる姿は、敬意を抱かせるものであった。吐き捨てるように喋るレイオンにしても、そこに悪意は潜んでいなかった。

「(どっちかって言うと、羨んでるように見えるんだけどねぇ。とやかく言える事じゃあない、か)」

 求める救いの形は往々にして人それぞれである。ましてや、ここにいるのは普通のスピリットが当たり前と思う事を当たり前と思えないような、そんな連中ばかり。だから、今までそこは誰も触れてこなかった不文律。
 ――けれど、とフィルフィは思う。

「………」

 唇を一文字に引き結んで、炎上するリレルラエルを凝視しているエドネス。スピリットがありのままに笑っていられる世界、という夢。
 それは自分たちを救うものではあるけれど。そこに救いを求めているのは、もしかしたら。

「……本当は、このままじゃあいけないのかも知れないねぇ……」

 ぽろりと零れた言葉は、誰に聞かせるつもりもないものだったが、隣にいたメルシアードには届いていて。けれども、含まれていた本当の意図は届かずに、見咎められる事を危惧しての言葉だと、メルシアードは受け取った。

「……それもそうですわね。隊長、そろそろ移動しませんと」
「……わかった。総員傾注、これよりこの先を見据えた補給を行うため、南西のシーオス近郊を目指す。……振り返らず、ただ前だけ見て進むぞ。……出発」
『――了解!』

 そんな事を、そんな苦しそうな顔で言うのは。貴方が、過去に囚われているからですか?

 恐れは、言葉になる事もなく。
 焼ける空を背負い――或いは追い立てられるように――流浪の民となった一行は歩き出す。
 その静かな旅立ちを、見送る人はなかった。









「―――」

 ただ、一つ。
 ガラス玉のような目をした、黒い翼を持った妖精だけを除いて。

 

戻る
(c)Ryuya Kose 2005