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永遠のアセリア Another after story 〜The Sword of Karma〜

 ――にちゃり。

 汚らしい音が、汚らしい足元から聞こえてくる。黒く粘り気のある汚れが石畳を覆っていて、歩くたびに靴裏にへばりついていた。
 中央区画からはさほど離れていないというのに、ここには喧騒も熱気も、じめじめとした空気や壁、地面に吸い尽くされて届かない。

 もとより極端に軍事に偏重するサーギオス帝国のエーテル分配ではあるが、このスラム街はほぼ一切、といっていいほどにエーテルの恩恵を受けていなかった。
 貧困層が住むからエーテル割り当てが少ないのか、エーテル割り当てが少ないからスラム街になったのか。発端こそわからないが、結果としてここはもはや見捨てられたに等しい地だった。
 そんな区画の一角に建つ、ある建物の前にエドネスは立っていた。かつては旅館かなにかとして使われていたのだろう二階建てのその館も、かつてを偲ばせるのは全体の造りのみ。今では壁には蔦が這い屋根には苔がむし、誰の目にも廃屋として映っていた。
 訪れる人間などほとんどいないだろう、そんな区画のそんな館の扉に彼は手をかけた。

「戻ったぞ」

 きぃ、と見た目からは予想出来ないくらいに小さな軋みだけを立てて扉が開かれる。その中、エントランスも表から見た建物のみすぼらしさとは違って生活感があり、整頓もされていた。どうやら本物の人の住まわぬ廃屋、というわけではないらしい。
 その証拠とばかりに、廊下の向こうから一人の女性が顔を覗かせた。

 美しい女性だった。深みのある碧色の眼、腰に届くほどもある、こちらも碧の長い髪が眼を惹く。顔の造形、プロポーション、その全てにおいて美しく、まさに人間離れしている。そして彼女はそれらの美しさからかけ離れた、無骨な槍のような剣を携えていた。

 ――永遠神剣。

 人間離れした美しさも当然の事。彼女は剣に生き剣に死ぬ妖精、スピリットである。
 そしてエドネスは彼女――フィルフィ・グリーンスピリットの所属する『第零独立遊撃隊』の隊長であった。

「あれ、隊長。終わったんですか?」

 ややハスキーではあるが、十二分に美声といえる声で、彼女は気さくに上官を出迎える。
 軍という組織にあって、しかも戦闘奴隷として人間より遥かに下に見られているスピリットの言動としてはあまりに逸脱していた。聞く者が聞いたなら、激怒して営巣にぶち込まれる事も十分すぎるほどに考えられる。
 しかしエドネスは気にした様子もない。それどころか、微笑さえ浮かべている。

「ああ、長く待たせたな。留守中大事なかったか?」
「ええ。まあ周りではあるっちゃああるんでしょうけど……あたしらに関してはなんもないですね」
「はは。まあ嵐の前の静けさだろうがな」

 エドネスのその言葉に、フィルフィは顔を顰めた。

「やっぱりですか」
「ああ。……その件での呼び出しだった」

 その言葉に思うところあったのか。フィルフィはほんの少し目を細めエドネスを見詰めた。

「嘘、ですね」
「……まあな」

 隠せると思っていなかったのか、フィルフィの指摘にあっさりと頷く。

「やはり、わかるか?」
「ええ。いつもよりちょっと明るかったですからね。そういう時の隊長、大抵あたしたちに不安を抱かせないために何かを隠してますから」

 にやり、不敵そうに笑うフィルフィ。エドネスは苦笑して首を振った。

「やれやれ。敵わんな」
「当然です。――で、どうしたんです?」

 笑顔は一瞬で消え去って、フィルフィは真剣な顔つきになる。エドネスも疲れたような表情を浮かべ――すぐに引っ込めた。

「隊長?」
「今はここまでだ」

 怪訝な顔で言葉を浮かべたフィルフィに、彼は小さく顎をしゃくって示す。意図するところに気付いてフィルフィが振り向くと、そこには純白の翼をはためかせ、麟粉のように仄かに散るマナを引き連れ、文字通り「飛んで」来るスピリットたちの姿があった。

「エディ……ッ」

 中でも真っ先に飛んできた小柄なブラックスピリットは、ハイロゥを使って飛んできた勢いそのままにエドネスにぎゅうっとしがみつき、そのまま猫のようにすりすりと頬擦りをする。なんとも可愛らしい仕草である。エドネスも笑みを浮かべてされるがままになっていたが、不意に顔を顰めた。

「! こら、イズラ」
「ぅあ」

 不意に進み出てきたフィルフィに頭を小突かれて、イズラと呼ばれたブラックスピリットが小さな悲鳴を上げる。

「あんたねぇ、あたしたちの力で思いっきり抱き締めたら、そりゃ隊長も苦しいって」

 呆れたように言いながら、フィルフィはちらりとエドネスに視線を飛ばした。それに気付いたエドネスは苦笑しつつ小さく頷き。フィルフィはイズラに悟られない程度の溜息を吐いた。

 窘められたイズラはそんな二人のやり取りに気付く様子もなく、先ほどまでの上機嫌が嘘のようにしょぼくれてしまっていた。ツインテールもどこかいつもより力なく垂れ下がっているように見える。右手は縋るように、でも躊躇うように開いたり閉じたりを繰り返す。
 叱った本人のフィルフィも、あまりの落ち込み具合に見かねて苦笑しながら安心させるようにその手を取った。

「ほれ、人の話をちゃんと聞いてたのかい? あたしは加減しなさいって言ってるだけなんだから。別に触っちゃいけないってわけじゃないし、隊長があんたの事嫌いになったってわけでもないんだよ?」
「………」

 擬音で表現するなら「きょとん」だろうか。イズラは目を数回ぱちくりとさせて、

「……ほんとう?」

 窺うように上目遣いでエドネスの顔を下から覗き込む。若干潤み気味のその瞳は、期待と不安とで揺れていた。正直その筋の人間には堪らない表情である。現にけしかけたも同然のフィルフィは、にやにやと意地の悪そうな笑みを浮かべていた。

「ふむ」

 内心でやれやれと溜息を吐きつつ、エドネスはぽん、とイズラの小さな頭に手を乗せ、その柔らかい髪をくしゃくしゃとかき回した。

「?」
「まあ、フィルフィの言うとおりだな。嫌いになどなっていないし、じゃれつかれるのが嫌なわけでもない。俺にとって、大切な時間だ」

 照れ隠しなのか、先程よりも髪をかき回す力が強い。イズラの頭がぐらんぐらんと揺れている。しかし当のイズラはそんな事は気にもならない様子で、

「……んっ」

 と口元をほころばせ、頬を染めながら嬉しそうにされるがままになっている。フィルフィも先ほどまでのにやにや笑いを収め、温かな笑みで見守っていた。

「う〜っ、イズラずるいよ〜っ!」

 エドネスがそんな和やかなフィールドを形成していると、フィルフィの後ろに控えていた部下たちの中から一人のブルースピリットが飛び出してきた。

「ぼくたちだっているのに、抜け駆けするなんてずるいっ」

 むくれた表情で文句を並び立てるのは、シェリオ・ブルースピリット。一人称と短髪の髪とが幼さと相まって、中性的な印象を与えるスピリットである。

「なんだいなんだい、抜け駆けが嫌だったらあんたも混じればよかったじゃないの」
「だって、ちょっと立ち入れない空気が漂ってるから……」

 フィルフィは笑いながら言うものの、シェリオは不服そうに頬を膨らませ反論する。しかし当の二人はというと。

「……そうだったか?」
「んぅ」

 エドネスは自覚なし、イズラにいたってはエドネスにしがみ付くのに夢中で話自体聞いていない。その代わりにフィルフィがうんうんと頷きながらニヤニヤ笑っている。

「自覚がないのがタチが悪い、ってね。確かに……そうだねぇ、仲のいい親子みたいな雰囲気だったかね」

 いつものように傍観者の立ち居地で茶々を入れるフィルフィ。
 しかし今回はどうやら勝手が違うらしく、シェリオが呆れたように溜息を吐いた。

「自覚ないのはフィルフィさんもですよ……」
「え、あ、あれ? あたしもかい?」
「そうですよ……。イズラが隊長の娘なら、フィルフィさんは……うぅ、若奥様って感じでした」
「わ、わか……ッ? あ、あはは、まいったねこりゃ……」

 シェリオの若奥様発言に、フィルフィは顔を真っ赤にしている。しかし口元が緩んでいるところを見るに、まんざらでもないようである。
 ちらりと向けた視線の先では、エドネスも若干ではあるが頬を染めてこりこりと頭を掻いていた。

「はぁ……。という事で、なんていうかデボテッドブロック並みに突破しづらい雰囲気をまきちらしてたんですよ?」
「あ〜、そこはそれ、そういうシールドを力で突破してこそのブルースピリットってもんでしょうが。そういやあんた訓練の時、一度もあたしのシールド突破出来た事なかったんじゃないっけ?」
「うっ。ここでそれを指摘するんですか……」

 調子を取り戻そうとしてか、突っ込む取っ掛かりを見つけたフィルフィが反撃に転じる。
 実際、シェリオは部隊最年少のスピリットという事もあるが、フィルフィの低レベルのアキュレイトブロックを突破する事さえ叶わなかった経緯がある。

「ま、確かにあんたじゃあたしのシールドは突破出来ないねぇ。あっちでも、こっちでも、ね。なんせ隊長はあたしたちにラヴだから」
「ら、ラヴですかっ?」

 シェリオが顔を赤くして素っ頓狂な声を上げたのを見て、フィルフィはにやりと笑う。どうやら完全に自分のペースを取り戻したらしい。

「そりゃあもう、毎晩毎晩あ〜んな事やこ〜んな事まで……」
「は、はうっ!?」

 シェリオの顔が更に赤くなる。手を忙しなく意味もなくばたつかせて、ちょっとしたパニックに陥っているようだった。それを見かねてエドネスは助け舟を出した。

「仕返しはその辺にしておけ、フィルフィ。情操教育にもよくはなかろう」
「はいは〜いっと。んじゃからかうのはこの辺でやめときますか」
「からかう……って、フィルフィさん! 冗談だったんですか!?」
「あっはっは、お子様のシェリオには刺激がきつかったかねぇ」
「うぅ、お子様……」

 フィルフィに笑われてしおれてしまったのか、シェリオはしょんぼりとうな垂れた。
 シェリオはエドネスの部下の中で育成期間が一番短いスピリットで、言動のそこかしこに幼さが窺えるのだが、年長のフィルフィはよくそれをネタにからかっていた。そしてそれでいじけてみせるシェリオにフォローを入れるのがエドネスの役目になってきている。

「すまないな、いつもながらフィルフィも悪気があるわけではないのだ」
「うや…それはわかってるんですけどね……はぅ」

 ぽん、と頭に手を置いてくしゃくしゃと髪をかき回してやると、シェリオはごにょごにょと小声で呟いてから奇妙な呻き声を上げた。
 客観視すれば結局お子様扱いされてしまった形だが……いつもどおり本人は気付いていなかった。

「……むぅ」

 そして、そんな様子をイズラがふくれっ面をして面白くなさそうに見詰めているのも、いつもの事。

「やれやれ……。ほら、イズラもな」

 苦笑しながら交互に頭を撫でてやると、二人とも嬉しそうに目を細める。少々照れくさいが、心配させてしまったのだからこれくらいはやってやってもいいだろう。とエドネスは思った。

「開き直りましたね?」
「……うるさい。あ〜、しかしなんだな。こういう時に隻腕というのは不便なものだな」

 照れ隠しにエドネスは無理やり話題を切り替え、左腕をぷらぷらと動かした。イズラはその動きに合わせて首を左右に揺らし、その揺れるツインテールをシェリオが同じように追っている。

「確か、前所属してた部隊でマロリガンのスピリットと戦ってやられた怪我なんですよね?」
「ああ。あの時は命まで持っていかれてもおかしくなかったが……」

 やれやれと首を振る。人生、どうなるものかはわからないものだと。

「しかし九死に一生を得たっていう怪我だっていうのに、今じゃあもうそんなに呑気に不便だなんだと言えるんですから、隊長も大物ですよねぇ」
「まあ……な。……六年か。十年を待たずとも、人間それだけ経てば変わるには十分なのだな」
「……隊長?」
「……エディ?」
「どうしたんですか?」

 瞑目し、自嘲するような笑みを浮かべるエドネス。フィルフィは怪訝な、イズラとシェリオは不思議そうな表情で問いかけた。

「……なに、感慨に耽っていただけだ。気にするな」

 薄く微笑んで、エドネスはイズラとシェリオの頭を交互に撫でる。二人はそれで機嫌を直したようだが。

「………」

 フィルフィの顔は優れない。表情を怪訝なものから不安なものへと変えてエドネスを見詰める。彼自身隠しきれると思っていなかったのだろう。その視線の先で、エドネスは一瞬だけ笑みの種類を苦笑に変えた。

「!」

 ――お前には敵わないな。

 苦笑に籠められただろうその意思を汲んで。フィルフィは溜息を一つ、それを以って意識を切り替えた。

「さて! 確かにあたしたちだけで隊長を独占するのも悪いしねぇ。って事でリリス、シアス! あんたらはいいのかい?」
「ふふふふっ、ようやく私たちの出番ねっ。今まで放置されてきた鬱憤を今こそ晴らすのよ! ほら行くよシアス!」
「ひゃっ!」

 呼びかけながら振り向いたフィルフィの視線の先では、リリス・ブラックスピリットが、何故か待ってましたとばかりに満面の笑みでシアス・レッドスピリットの手を引きながら駆け寄ってきていた。どことなく、引きずられるシアスが哀れである。

「り、リリス、引っ張らないでよぉ」
「な〜にのんきな事言ってるのよ、シアスも隊長とフィルフィさんとイズラの仲睦まじさを見てたでしょ? このままほっといたら付け入る隙なんかなくなっちゃうんだからねっ」
「あ、うぅ……」
「は〜いわかったらとっとと行きましょうね〜」

 シアスの弱々しい抵抗も、シアスの耳打ち一つであっさりなくなってしまう。
このシアス、極度の引っ込み思案と照れ屋なのである。なのでエドネスに対して密かに好意を抱いている――因みにこの事実は当のエドネスが気付いているほどに周知であるので、密かでもなんでもない――のだが、なかなかコミュニケーションが取れない。
そこで、同じ訓練所で育った姉貴分であるリリスが一肌脱いで尻を叩いているのである。

「はいっ、という事でお呼ばれしましたので参上しましたっ。お帰りなさい隊長っ。ご飯にしますかお風呂にしますか、それともシアスにしますか? お勧めはもちろん三番、熟れきらない瑞々しさがポイント高いシアスですけどいかがでしょう?」
「え、え、ちょ、ちょっとぉっ!?」

 ……リリス・ブラックスピリットのテンションは高い。常にテンションが低めなシアスを引っ張るため――ではなく、これが彼女の普通なのである。そしてそのテンションでマシンガントークを繰り出すのだから、三人寄らずとも一人で十二分に姦しい。

「相変わらず喧しくも愉快な奴だな……」
「そりゃもうそれが私の取り柄ですから! 不肖このリリス、バンガ・ロアーに行ったとしてもこの取り柄をなくす事はありません! 喋って騒いで住めばハイペリアを体現して見せますよ! って、何故に泣くのよシアスーっ!?」
「うぅ……ぐずっ。だって、リリスがバンガ・ロアーに行っちゃうって言うからぁっ……」
「ものの例えよ例え! 私がシアスを置いて逝くわけないでしょ!?」
「う……、そぉだけどぉ……」
「あ〜、わかった、わかったから。もうあんな事言わないから。は〜い、お鼻ち〜んしましょうね〜」
「う、うん……って、鼻水なんか出てないよぉ〜っ」
「うん嘘。でもほら、泣き止んだじゃない。ん〜、シアスはいい子ね〜」
「う、あうぅ〜っ」

 やいの、やいの。騒いで泣いて、今はリリスがハンカチではにかむシアスの涙を拭いてやっている。その様子を穏やかに見守っていたエドネスが、口を開いた。

「賑やかだな」
「ま、あれで部隊のムードメーカーですからねぇ。それに喧しいだけじゃなくてきちんとお姉ちゃんしてますし、印象よりもずっとしっかりしてますよ、あの子は」
「ふむ……。なあ、フィルフィ」
「はい?」
「それは……」

 一時の逡巡。

「それは、いい事……だよな?」

 その声は、フィルフィにはほんの少しだけ湿度を含んでいたように聞こえた。問いかけるというよりは確かめるような、微量の不安を含む声。それにフィルフィは。

「もちろんです」

 そう、胸を張って答えた。

「―――」
「……わたしも」

 思わぬ力強い言葉に胸を突かれたか、エドネスは言葉を失う。そんな彼に、イズラも、そしてシェリオも彼の胸元から笑みを向ける。

「わたしも……そう思う」
「ぼくもです。こんなにあったかくてやさしくて……。ぼくたちは幸せです」
「……そうか」

 頷く声は、小さいけれども力強さに満ちていた。






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(c)Ryuya Kose 2005