- k a r e s a n s u i -

永遠のアセリア Another after story 〜The Sword of Karma〜

「失礼致しました」

 武骨。それ以外に表現しようのない重厚な石造りの廊下に、一時だけ声が響く。次いで重苦しい扉の閉まる音。
 しかし、その音も圧倒的な静寂にむなしく響くだけ巻き込まれて誰の耳にも止まらない。静謐、とは違う。沈黙を強いられるような、そんな空間だった。

「………」

 その中で、先ほどの音の発生源となった人物が、一人。
 『司令長官』とのプレートが掛けられた目の前の分厚い扉を暫し見据えて、その男は踵を返した。



 神聖サーギオス帝国には、首都サーギオスの他に主要な都市が幾つかある。
 まず、首都サーギオスを囲んで護る堅牢なる「秩序の壁」へのマナ供給源ともなっている、サレ・スニル、ゼィギオス、ユウソカの三都市。
 そしてもう一箇所がここ、リレルラエルである。
 平時から帝国の北東部一帯を支えるこの都市であるが、現在はそれ以上に重要な機能を担っていた。
 即ち、先日宣戦布告がなされ、交戦状態に突入したラキオス王国との戦争における前線拠点としての機能である。

 遡る事二年、聖ヨト暦三百三十三年。
 切っ掛けは伝説の再来にあった。
 聖ヨト暦三百三十年。ラキオス王国に、伝説に語られる異世界からの来訪者が現れた。
 通常戦力を圧倒する超常の力を発揮するエトランジェを得たラキオス王国は、これを機として対外的軍事活動を活発化させ、近隣のバーンライト、ダーツィを征服。帝国の思惑に踊らされた側面もあったとはいえ、謀略を以ってイースペリア、サルドバルドを吸収。和平交渉の決裂したマロリガン共和国を武力制圧し、領土面積だけで言えば大陸最大の、サーギオス帝国と文字通り大陸を二分する大国へと駆け上がった。
 そして聖ヨト暦三百三十二年、ルカモの月。ラキオス王国とサーギオス帝国との戦争の火蓋が、いよいよ切って落とされようとしていた。


 サーギオス領とラキオス領(旧ダーツィ大公国領)は、法王の壁という長大な防壁によって隔てられている。この防壁と、西部に広がる静寂のミスレ樹海が、帝国にとっての最大の防衛線といってもいい。
 しかし法王の壁は防衛力には優れているものの、施設の防衛力にのみ特化されているため補給機能に乏しく、戦力や兵糧の補充は主にリレルラエルから行われている。
 そのため、いよいよケムセラウトに集結したラキオス軍が進軍を開始した、との情報が入ってきた現在、リレルラエルの司令部は、司令長官の私室周辺とは打って変わって、蜂の巣をつついたような慌しさである。将官士官が頻繁に司令部に出入りし、嵌め殺しの窓から城下を見下ろす者がいたならば、その視界には資材を満載した荷車が忙しなく駆け回る様子が映るだろう。

 先程司令長官室を後にしたその男も、窓から城下を見下ろしていた。
 窓に映るその風貌は、異様だった。顔付きは、若干やつれ気味である事を除けば十分精悍といってよく、年の頃は男盛りの二十代後半から三十代といったところ。
 しかしその頭髪は実年齢とはかけ離れた色――まばらに黒が混じる程度の白髪――をしていて、どこかくすんだ様な光を宿すその瞳と相まって、長く生きすぎた老人のような印象を見る者に与える。
 加えて、顔面の左半分には傷痕があった。左前頭部から始まり、眼帯の下に隠された左の眼窩を縦断し顎にまで達する、大きなものだ。
 更にはその左腕。迷彩柄というこれもまた見かけない軍服の左袖は、肘の少し下辺りからひらりひらりと揺れている。もちろんそこにあるべきはずの腕はなかった。
 男も窓に映る自分の姿に気付いたのだろうか。右手で髪に触れ眼帯に触れ、三分の二しか残っていない左腕に触れ。

「………」

 けれども結局何事もなかったかのように、止めていた歩みを再開した。



 城下に降りた男を迎えたのは、上から見て取ったとおりの喧騒だった。
 甲冑がこすれる金属音、石畳を踏み鳴らす硬質な軍靴の音。様々な声、会話。
 多くの人と、それ以上に溢れる物音の中を、男は歩く。
 男自身が立てる音は、極めて小さいものだった。言葉は一言も発しないし、甲冑を着込んでいるわけでもないので、せいぜいが微かな衣擦れの音。足音も、消音性を重視した履物なのか微々たる物。
 しかし決して無音なわけではない。それは隠れるでなく、他の音にまぎれ、溶けて、同化するかのような。

 そのせいだろうか。この世界の軍人としては異色な服装であるのに、灰を零したような色の髪をしているというのに、左目を覆う眼帯と、宙ぶらりんで風に揺れる左袖が否応にも目を引くだろうに――誰の話題にも上らない。誰の注意も引かない。

「……やれやれ」

 雑踏を抜けた先、狭い路地への入り口前で立ち止まり溜息を一つ。
 男は失望したような表情を浮かべて、自分が今し方抜け出てきた人ごみに視線を走らせた。
 行き交う人、物。飛び交う情報、言葉。
 誰の目にも、もちろん彼の目にも、忙しなく動き回る人々の姿が映し出されている。しかし彼はそこから別の事実を見出していた。

「……危機感が足りないな」

 忙しない、それは確かな事。駆けずり回って汗を流している者もいるし、この僅かな時間に二度も三度も行って戻ってを繰り返している連絡兵も見かけた。
 だが、私語もちらほらと聞こえる上に、あからさまに面倒臭そうな表情をしている者もいる。
 そしてなにより、戦争に付き物のはずのぴりぴりとした空気が、彼には感じられなかった。その代わりに蔓延しているのは、

 ――面倒だ
 ――なんで俺たちが
 ――奴らに任せればいいだろう
 ――どうせ戦うのはあいつらなんだから

 耳に届く会話からも明白な、倦怠感と楽観視だった。
 だがそれも。

「……仕方のない事、か」

 例えどんなに大規模な――大陸を二分するような――戦争だとしても、彼らは、本当の意味では必死になどなれないだろう。彼ら自身が血を流すわけでも、手を汚すわけでもないのだから。
 もちろん、敗北するような事があれば自身の命にも係わってくるが、それならば敗北しなければいい。いや、させなければいい。
 だから彼らは全力で押し付ける、委託する。前線で、省みられる事もなく、ひたすら戦い傷つき、そして斃れる彼女らに。

「……戦う事だけがスピリットの役目。その兵器としての性能を極限まで上げ、それを発揮させる事が、人の……スピリット隊隊長の役目」

 そこまで口にして、男は一度小さく息を吐き、そして続ける。

「――貴方は、そう言うのでしょうね。……ソーマ」

 ………。
 ………………。
 返事はない。反応を示した者も、比較的近くにいた兵士が、その声で初めて彼に気付いたような驚いた顔をしているくらい。
 それでも男は動じず身動ぎもせず、ただ人の流れを眺め続ける。
 そうして十秒も経った頃。

「……今更ですね、そんな事を言うなど」

 その声は、男の背後から聞こえてきた。
 音もなく、忍ぶように背後に立たれても。視線はおろか意識さえその瞬間まで向けられず、唐突に声をかけられても。二人は互いに驚きもしなかった。

 男から二、三歩ばかり離れた所に現れたソーマ・ル・ソーマは、男の背中を詰まらなそうな表情で暫し眺め、その隣に並び立った。

「お久しぶりですねぇ。……もっとも、"欠損者"エドネス・ノア・ディードの名は、私の耳にも届いていましたが」
「……俺もここ五年ほどは貴方の名を飽きるほどに聞かされました。お陰で十八年ぶりの再会とはとても思えません」
「……ですが、それだけの年月が経過した事は真実です。証拠に……貴方は、随分と変わった」

 初めて、二人の視線が正面からぶつかった。一方は蔑むように、一方は観察するように相手を見据える。

「かつての気概を失い、閑職で無様に辺境を這いずり回る……。情けない事この上ない」
「………」
「ふん。腕や目玉と一緒に誇りまで喪いましたか」
「………」

 嘲りの言葉にも、男――エドネスは答えない。ただソーマをじっと見詰め続ける。ソーマはわずかに眉を顰め……くるりと踵を返した。

「……ふん。腑抜け切ったわけではないようですね」
「無論」
「結構」

 背中越しのやり取り。そこに如何ほどの意味があったのか、ソーマは微かに、本当に微かに、彼にしては珍しく嫌味のない笑い声を漏らした。
 しかしそれも、続く言葉に飲まれて僅かさえ世界に残らない。

「しかしその様子だと……件の話は聞き入れていただけなかったようですねぇ」
「当然です」

 間髪入れぬ返答。

「故あっての、信念あっての判断ですか? 答え如何によっては――どうなるかわかりませんよ?」

 ひやり。
 必殺の意思が空間を駆け巡る。その場に第三者がいたなら、恐らく背中を冷たい物が走った事だろう。
 しかしエドネスは平然と、しかし力のある視線をソーマの背中に投げかけた。

 ――侮ってくれるな。

 言葉はなくとも、その瞳が雄弁にその意思を物語る。

「……結構。結構」

 二度、三度とソーマは頷く。途端に満ちていた殺気は霧散した。
 エドネスはちらりちらりと二方向ばかりに視線を飛ばした。気配でそれを察したのか、ソーマは僅かに肩をすくめ、後は振り返りもせず雑踏へと消えていく。
 エドネスも、何事もなかったかのように己の歩みを再開する。二人は正反対の方向へと歩いていく。
 離れていく距離。気配も声も届かないほどに離れた頃。脳裏に浮かぶ、今は遠い兄貴分の後姿に向けてエドネスは呟いた。

「貴方も……随分と変わってしまいましたね」

 それまで微塵も動かなかった表情が僅かに歪む。悲しむような、悔いるような、詫びるような色を帯びる。

「………」

 だがそれも一瞬の事。次の一歩を繰り出した時には、感情は無表情の下に押し込められていた。

 ――きしり。

 ただ一音。微かな歯軋りの音だけを最後に残して。エドネスは暗く細い路地へと消えていった。





戻る
(c)Ryuya Kose 2005